月影

chapter 25


<駅から徒歩5分!>
<オートロック・エアコン完備!>
<築3年! 駐車場付き!>
<安心の女性専用アパート!>
<日当たり良好! 景色抜群!>
 同じような謳い文句が羅列している張り紙を見ながら、和葉と高歩は並んで唸る。いつもどおり、退社後に駅の改札口で待ち合わせをし、今日は少し寄り道をしてから帰ろうということになったのだが。
「駅から五分……と言っても実際は二倍の計算で見積もっておいた方が良いですよね。信号の待ち時間は無視しての表記ですし、女性だと特に歩く早さは遅くなりますから」
「敷金礼金の表記が無いのは怖いですね。家賃は安いですけど、契約金がバカ高いところもありますし」
「オートロック、エアコン完備はあり難いですが、やはり家賃は高くなりますねぇ」
「女性専用アパートってどうなんでしょう? オートロックでもないみたいですけど」
「隣人が女性っていうだけで安心できる人もいるんじゃないですか。とりあえず隣人からのセクハラはないですから」
「ああ、なるほど。あ、でもあたし、ユニットよりはセパレートの方が良いです」
「じゃあこっちの物件はどうです? 家賃8万で1LDK、セパレートでオートロックですよ」
「でも駅から結構ありますよ。表記で徒歩10分ってことは、15分か20分ですよね。ちょっと遠くないですか」
 店は既に閉まっており、ガラスの窓に貼り付けてある広告を思い切り覗き込んでいても、声を掛けられることはない。それをいいことに和葉と高歩はああでもない、こうでもない、と好き勝手に言い合っていた。
 ふう、と一息ついた高歩が覗き込んでいたガラス窓から顔を上げる。
「フリー誌を見ても実際不動産屋に来ても、なかなか条件に見合ったものを探すと無いものですね」
「そうですよね。だからと言って妥協したくない部分もありますし……」
 和葉も屈んでいた体を起こして高歩に並ぶ。ユニットよりはセパレートの方がずっと良いし、駅から近いというのも絶対条件だ。もちろん、払える家賃は限界がある。特にまだ1年目の新入社員としては、家賃8万円を出すのもツライ。更に言ってしまえば、引越し自体の費用や数十万円の契約金を払うのも正直厳しいものがあるが、そこは高歩の気遣いや也人とのことを考えると、引越しをやめるとも言い難かった。
「今度ネットでも調べてみます。これを機に会社へもう少し近い場所へ移るのも良いですし」
 そう言って和葉は高歩を見上げる。「それもそうですね」と頷く高歩を見て、ふ、と疑問が過ぎった。
「そういえば筵井さんは、どうして引越しを?」
 ついでだから、という理由で也人とのことを吹っ切るために引越しを提案してくれた高歩だが、夏も真っ只中のこの時期に高歩はどうして引越しを考えていたのだろうか。最初から疑問に思っていたわけではないが、今、急にその疑問が沸いてきた。何か特別な理由でもあるのだろうか?
「僕の場合は気まぐれです」
 高歩は首を傾げる和葉に苦笑いを浮かべながら簡潔に答える。それだけで納得しないまま、直もじっと見つめる和葉に、暫く考える素振りを見せた。高歩にとっては自分の理由など語るほど立派ではないので、和葉の視線が痛くて困る。
「本当は春になったら引っ越すつもりだったんですよ。ちょうど妹が転勤でこっちに来るという話を聞いていたので、それなら僕のアパートを貸すということになって」
 なるほど、と和葉は頷く。高歩に妹がいるということは前に聞いたことがあった。高歩には和葉も年の離れた妹のようだと言われた。その時はただ嬉しかったけれど、あの後部屋に帰ってよくよく思い返してみれば、どことなく微妙な気持ちが浮かんできた。妹と思われているという事は異性として見られていないということか、家族のように距離が近くにあるということを意味しているのか、和葉の中で判断できなかったからだ。そしてどちらの意味で喜んでいいのかも分からなかった。
「ただ、その転勤の話がなくなったんで、どうしたらいいものかと思ってたんですよ。気分的にはすっかり引っ越す気満々だったのに、ずるずると夏まで過ごしてしまって困ってた、というわけです」
 ね、つまらない理由でしょう? と高歩は笑う。しかし和葉はそれが良いことなのか悪いことなのか、曖昧に笑いを返す。転勤の話が本当になっていれば高歩に会うことはなかったが、そのおかげで也人の感情を逆撫でることにもなった。
 しかしここで仮定の現実を想像しても意味はない。つまらない理由であっても和葉に出会うまで引越しの決意をせず、和葉と出会った。それが全てだ。和葉はそれで良かったと思う。
「次はもう少し地域を広げてみましょう。僕もまた探してみます」
「そうだ。あの、次の休みの日にでも一緒に探してみませんか。快速が止まる所はやっぱり高いと思いますけど、せめて準急くらいは止まるところが良いですよね!」
 気づけば口が勝手に開いていた。高歩の驚いた顔を見て、ようやく自分が何を言ったのか理解した。気がついた途端、和葉はたまらなく恥ずかしくなり、慌てて「もちろん筵井さんの都合が良ければですけど!」と早口で捲くし立てる。これでは映画に誘ったときと何も変わらない、計画性の何も無い、関心を引きたいための行動のようだ。あの時反省したはずなのに。
 高歩は慌てて取り繕う和葉に思わず笑みを零し、クスクスと肩を揺らした。和葉の発言はたまに突飛で、一緒に居て飽きない。
「いいですよ。今度の土曜日でいいですか?」
 探す物件は違うというのに、一緒に不動産を見て回るというのは、なかなか新鮮で楽しいものだ。それこそ家族でもない限り、他人とああだ、こうだと話し合うのは貴重な体験だと思う。実際には、それほど拘りがなかった高歩は、家を出るときも家族に探す部屋のことで相談したことは無いが。
 高歩が答えると、和葉は確かめるように何度もコクコクと頷く。
「土曜ですね! 全然、大丈夫です!」
 二人だけの約束はこれで二回目だ。以前の映画と、今回の物件探し。どこか浮かれた気分で和葉は答えた。
 そうしてようやく二人は不動産屋の前から踵を返し、帰路へつこうと足を前へ進ませた。
 和葉の頭の中ではまだ探す部屋のことで思考が占められていたが、高歩は少し歩いた先で、別のことを話題にする。
「そういえば乙瀬さん、新居とは連絡とっていますか?」
 ふと口調が静かに変わり、和葉はハッとして高歩を見上げる。一瞬何を尋ねられたのか分からなかった。
「……新居くん、ですか?」
「ええ」
 和葉が質問に質問で返してしまったことには何も言わず、高歩はただ頷いて答えた。
「最近学校に来てないみたいなんですよね。新居と仲の良い生徒に聞いても知らないみたいですし、一番最近新居に会ったのは乙瀬さん達だと思いまして」
 高歩の表情が僅かに険しくなる。ほんの些細な変化を、和葉は街灯の下、気づいてしまった。――ということは、倫子に頼んでカメラマンに会わせてもらってから学校へ行かなくなったということになる。少なからず和葉は責任感を覚えた。
「すみません。あたし、何も知らなくて……」
「あ、いえ、別に乙瀬さんが悪いとかいうわけじゃ……!」
 ふっと俯いた和葉に高歩は慌てて言い添える。和葉を落ち込ませるためでも、責任感を負わせるために言ったわけでもない。まさか和葉が謝罪の言葉をするとは思いもしなかった。
「ただ、もしまた新居と会うようになったら、教えてもらえないかと思っただけで。僕の方こそすみません。余計な心配をかけてしまいましたね」
 困ったように頭の後ろを掻きながら高歩が言う。和葉はふるふると頭を振って、もう一度「すみません」と謝る。高歩はそんな言葉を聞きたいわけではなかったが、上手く返す言葉も見つからなかった。和葉が良い子だと分かっているだけに、つい掛ける言葉も選んでしまい、喉に詰まって何も出てこない。
 ようやく顔を上げた和葉は至極真剣な表情を浮かべ、真っ直ぐに高歩を見た。
「新居くんに会ったら、絶対に教えます!」
 高歩は和葉の表情を見て、ふ、と笑う。ただ落ち込んでいるわけではないことに安堵する。
 はい、と頷いて、いつの間にか止まっていた足を再び動かす。和葉もそれについていく。いつもの雰囲気に戻って、他愛のない話をし、いつものようにアパートの前で別れた。

 いつもより遅い時間の帰宅だった。時間にすれば1時間やそこらだが、それでも和葉にとっては大きな割合を占める睡眠時間は確実に減る。それでも高歩との時間が有意義だったので、足取りは軽かった。アパートの前で別れる際、高歩からもう一度土曜日のことを確認する言葉を貰い、僅かに浮き足立っていた。
 和葉の今の部屋はオートロックではない。階段の前にガラスの扉はあるものの、鍵は掛かっておらず、誰でも入ることが出来る。だからこそ也人に待ち伏せされた、という嬉しくない経験もした。しかし知史や高歩に助けられ、不思議とそれからも恐怖は感じなかった。ただ次に部屋を選べるのなら、オートロックという設備はあった方が良いだろう。アパートの玄関口で郵便物を確認しながら、和葉は不意に新たな条件を付け足した。
「!」
 その矢先だった。
 心臓が止まるかと思うほど驚いた。
 階段を上がったところに人影が見えたからだ。――一瞬也人かとも思ったが、電灯の下にある顔を見て、強張った体の力が抜けた。
「新居、くん……?」
 その人物の名を口にする。驚きのあまり声は掠れて本人には聞こえていないようだったが、その視線に知史が顔を上げ、和葉の姿を認めた。安心したように、僅かに口元で笑みを浮かべる。
「……遅ぇよ」
 憎たらしい口調で文句を言うも、その声音は弱々しかった。……泣いているのかとも思えた。
 階段を上がり、知史に近づけば、和葉は更に驚き、息を呑んだ。頬に痛々しい痣と、汚れた服が目に入る。
「ど、どうしたの、これ?」
 和葉は慌てた。知史の格好はどう見ても普通ではない。学校へ来ていない、という高歩の言葉も蘇り、するべきことは何かを逡巡する。
 結果、「とりあえず手当てを」と言いかけ、しかしその前にすることがあると思い浮かんだ。
「そうだ、筵井さんに知らせないと――」
 先程の約束を思い出した。気持ちが焦ってもたつく手でバッグを探る。確かにあるはずなのに携帯電話がなかなか見つからない。
 その手を知史の手が止めた。和葉の手首に絡まる力は強かった。
「いい。先生には知らせないで」
「でも……」
 知史の切羽詰った口調に和葉はたじろいだ。
「頼む。先生には、心配かけたくない……」
 ぎゅっ、と更に手首を掴む力が強くなる。和葉はどうしていいかわからず、ただじっと知史を見つめるしかなかった。「痛い」とも、「離して」とも言えず、「分かった」と頷くこともできず。――そっと、ストラップに触れた指を離した。