月影

chapter 26


 いくら男だとはいえ、怪我をしている人間を放っておけるわけもなく、和葉は知史を部屋へ招き入れた。父親の持ち物は彼が亡くなった時に全て処分してしまったため男物の服など当然ないので、汚れた制服は申し訳ないがそのままにしておき、傷の手当だけでも済まそうと、とりあえず洗面所に押し込んだ。
「――っ痛」
 知史は思わず顔を歪めた。口の端が切れていたらしく、恐る恐る水で濡らしてみれば案の定沁みた。それでも丁寧に傷口に水を当て、洗い流していく。傷のほとんどは痣となっていたが、所々切れているのは、殴られて倒れた時に出来たのかもしれない。顔はともかく、腕や手にある傷には覚えが無かった。
 一通り洗い終えると、置いてあったタオルで水を切り、汚れたタオルは洗濯機に放り込んだ。
「消毒するから、ここ座って」
 洗面所から出てきた知史に和葉は声を掛け、部屋の中央を指差した。手にはクローゼットの置くから取り出した救急箱を持っていた。
「絆創膏と湿布くらいしかないけど、いいよね」
 こういった場面は初めてで、知史の目から見ても和葉が戸惑っているのは分かっていた。けれど追い返すわけでもなくこうして構ってくれる彼女を見ていると、だからここへ来たのだろう、と今更になって自分の行動に納得した。どこかで和葉なら大丈夫だと思っていた。
 改めて、血の固まったあとのある傷口に消毒液を当て、絆創膏を張っていく。痣になった部分は湿布で冷やす。戸惑いながらもテキパキと手動かしていく様を眺めていると、知史は昨年のことを思い出した。
 あの時は高歩が後ろについて、実際に手当てをしたのは保健医だった。あの頃から自分は何一つとして変わっていない。そう思うと和葉がひどく大人のように見えた。外見はまだ学生のようで、自分とそう年の変わらない女なのに、高歩と同じくらいに遠く思える。
 自分だけがいつまでもガキのままだ。
「大人しいね」
 黙って和葉の手元を見ていると、不意に話しかけられた。驚いて顔を上げれば、和葉は真剣な顔をして知史の腕に絆創膏を貼っている。大人しいという評価を受けたことは今まで一度も無かった。
 知史が返事をしないでいれば、また和葉の口が開いた。
「せっかく綺麗な顔なのに、勇ましくなっちゃって。男の子だから良いのかな」
 まるで独り言のように放たれる言葉に、知史は思わず眉根を寄せた。顔のことを言われるのが一番嫌いなことだ。しかしそれは、絆創膏や湿布を貼ることに一生懸命な和葉に気づかれることはなかった。
 どう言っていいものか考えているうちに、また和葉が話し始めた。
「筵井さんが心配してたよ」
「先生が?」
 高歩の話を振ると途端に言葉が返ってくる。そのことに和葉は思わず笑みを浮かべた。
「学校に来てないみたいだって、すごく心配してた」
 淡々と話す和葉の声は、驚くほどすんなりと知史の耳に入ってくる。だがその内容が気に入らない。
「そんなことまでアンタに話してるんだ?」
 左右の腕の傷に絆創膏を貼り終えた和葉は、ようやく顔を上げ、正面から知史を見る。
「だから筵井さんに会って欲しい。電話で声を聞かせるだけでもいい。それだけでも安心してくれると思う」
 要は連絡を取れ、ということなのだろう。知史はムッと目を細め、和葉を睨む。
「嫌だ。先生に余計な心配させたくないんだ」
「余計な心配って何? もう心配かけてるのに」
 和葉の言うことは尤もだった。それが分かっているだけに腹が立ってくる。正論過ぎて殴りたくなる。
「分かんねーかな。俺が先生に会いたくないんだよ! ……こんな格好悪いとこ見せたくねぇ」
 真っ直ぐに見つめてくる和葉の視線に耐えられなくなった知史は、言い難そうに顔を逸らした。
 先生には無様な格好を見せて、嫌われたくない。和葉には、知史の顔にはそんなふうに書かれているように見えた。バカだな、と思う。彼はきっと、知史がどんな不良になっても嫌いはしないだろうに。
「あたしなら良いの?」
 不思議そうに小首を傾げる和葉を横目で見つつ、知史はぶっきらぼうに言い放つ。
「アンタは関係ないから」
「……そっか」
 それは何に対してだろう。和葉はそう思ったけれど、口にはしなかった。知史のことは高歩から色々と聞いていて、自然と知っているような気になっていたけれど、知史からすれば自分はまだ全然知らない人間なのだ。今になってそのことに気づいた。
「あ、ご飯は? あたし今から作るけど」
 声を変えて、別のことを口にする。これ以上は踏み込めないと慌てた。
 知史はコクンと頷いた。
「腹減った」
「じゃあ、二人分作るね」
「あと、一泊させてほしい」
 立ち上がった和葉は、付け加えられた要望に「え?」と知史を見下ろす。まさか帰らないつもりだったとは思わなかった。
「雑魚寝するし。嫌なら廊下でいいから」
 知史の言葉に和葉はキッチンの方へ振り向いた。確かに1Kという造り上、キッチンとなる廊下とこの部屋には一応の扉があるが、まさか掃除してあるとはいえ廊下で寝てもらうのは気が引ける。それに考えれば、どうして知史が自分の帰りを待っていたのか、その理由は明白だった。傷の手当だけが目的だったはずもないのだ。
「わかった。布団はないから、廊下では寝ないでね」
 和葉が言うと、知史はホッと安堵した表情を浮かべた。
 来客がほとんどないこの部屋には二人分の食器も何もかも揃っていなかったので、使う食器を最小限に抑えようと考えたところ、今日のメニューを丼に決めた。鶏肉もあることだし、親子丼で良いだろう。ほうれん草が余っていたから、小皿で済むお浸しを加える。
 ある程度手を抜いたとはいえ、知史が文句も言わずに食べてくれたことにホッとした。意外にもお浸しは「美味しい」と言ってくれて調子に乗った。
 二人して、テレビを付けることもなく、かと言って会話を楽しむわけでもなく黙々と食べた。
 食器を片付けると、和葉はシャワーを浴びることにする。着替えのない知史には申し訳ないが、知史自身、一晩くらい風呂に入らないことはどうでも良いという感じだ。そのことに少しだけ申し訳なさが軽くなった。
 和葉がシャワーを浴び終え、髪を乾かして出てくると、知史は既に渡しておいたタオルケットを腹に掛けて横になっていた。
 もう寝てしまっているのだろうか。
 足音に気をつけながら、ベッドに上がりこみ、電気を消した。
「……なぁ」
 てっきり眠っていたとばかり思っていた知史が突然声を掛けてきた。驚いてベッドから見下ろすと、知史は背を向けたまま横になっており、その表情は全くもって見えない。けれど、その方が知史にとっては都合が良いのだろう。
「アンタは何も聞かないんだな」
 呟くようなそれに、和葉は答えていいものか迷った。
 尋ねているようでもなかったのだが、しばらく黙っていても知史は何も言ってこなかったので、和葉は見えていないと分かりつつも頷いた。
「聞いて欲しければ聞くよ」
 答えてから、そういえば高歩も大典も倫子も、和葉の周りの人達は何があったのかを真っ先に聞きだしていたことを思い出した。半ば強引ではあったけれど、そのことで不快に感じたり嫌悪したことはない。もしかしたら知史もそれを望んでいたのだろうか。
「あたしはこういうの、上手くないんだ。聞いて欲しいって思ってても、ちゃんと言ってくれないとあたしには分からないから」
 アパートの前に座り込んでいた時も、手当てをしていた時も、食事の時も、和葉は何があったのかとは口にしなかった。知史にはそれが不思議で仕方なかったが、和葉の言葉を聞いて自分がいかに他人に甘えていたのかを痛感した。本当は聞いて欲しかったんだ、と自分で自分の気持ちにようやく気づき、恥ずかしく思った。だからといって、もう彼女に何かを言う気はなくなっていた。気づかれていないのなら、これ以上自ら恥を晒さなくてもいいのだと思い直した。
「それにね」
 知史が自分のことに没頭し始めていると、更に和葉の言葉が重なっていく。
「あたしを助けてくれた時、新居くん、何も聞かなかったから」
 だからっていうのもあるんだよ、と和葉が言ったので、知史は驚いた。あの時は知史もただのストーカーに変わりはなく、和葉の後をついていっただけの結果だ。それをまるで感謝していると言わんばかりの口調で和葉が言ったから、知史は戸惑った。
「俺……」
 知史は何と言っていいか分からず、困った。
「俺、アンタのこと嫌いだった」
 困った結果、唐突に切り出した言葉に、今度は和葉が困った。好きだと告白されたことはあったけれど、嫌いだと告白されたことはなかった。そういう場合は大抵無視されることから始まり、自然と関わらなくなっていく場合が多かったからだ。知史にも背中越しで和葉が息を飲み込んだのが分かった。
「先生に関わる人は皆嫌いだったけど、アンタは女だから、一番嫌いになった」
 それは幼稚で我侭な独占欲だ。和葉にも経験があった。
「今は少し、嫌いじゃなくなった」
「どうして?」
「……飯、美味かったし」
 和葉が期待していたような答えではなかったけれど、褒められたことは嬉しかった。和葉は思わずクスッと笑い、それだけ? と聞いてみた。
「俺を追い返さないでいてくれたし、無理に詮索してこないし」
「都合の良い女だね、あたし」
 わざとらしく冗談っぽく言ってみても、知史は背を向けたまま、クスリとも笑わなかった。
「うん。だから、少しだけ嫌いじゃなくなった」
「そっか」
 和葉は寝返りを打って、知史に背を向ける。目を閉じて、今日はこれ以上言うのを最後にしようと決めた。
「明日はちゃんと学校に行った方がいいよ。筵井さんに、心配かけないであげて」
 知史から返事はなかった。
 いつまで待っても言葉は返ってこなかったから、和葉はそれが知史の答えだと思い、眠ることにした。
 そうだ、明日は、高歩にこのことを報告しなくては――。それだけを決めた。