月影

chapter 27


 水藤に知史からメールが入ったのは、履歴からすると午前8時を回った頃だった。しかし水藤自身がそれに気づいたのは、1時間目が終わった9時半だった。わざわざメールを送ってきた知史は、相変わらず学校を無断欠席している。
「あ、なぁ、おい!」
 慌てて水藤は後ろを振り返り、喋っていた友人達に声を掛けた。
「お前ら今日予定ある?」
 水藤に声を掛けられた二人は唐突に問われた意味を咄嗟に理解できなかった。呆然とした様子でメールを読んでいた水藤は、しばらく難しい顔をしていたかと思えば、急に思い立ったかのように体をねじってきた。
「何、急に?」
 一人がそう聞き返し、首を捻るのも無理はない。部活動に励むわけでもなく、だらだらと喋ったり、寄る所といえば駅近くのゲームセンターやカラオケ、ファーストフード店くらいしか思い当たらない行動範囲を、自分を含む3人は積極的に崩したことがなかった。おまけにそれぞれが恋人的な意味でもフリーであることは充分承知していることだ。改めて放課後の予定を聞く水藤の真意が分からなかった。
 怪訝そうな顔をする友人に、水藤は焦った様子で「いや、だからさ」と言葉を繋げる。滅多にないことに動揺しているのは水藤自身、自覚はあった。それでも縺れ気味の舌が邪魔をして噛んでしまうのは仕方の無いことだ。
「新居が今日遊べないかってメールしてきたからさ。ついでに話もあるみたいだし」
「へぇ、新居が?」
 思わず目を丸くして驚いた。二年近く知史とつるんできたが、彼から誘ってきたことは数えるほどしかない。
「つーか、話の方がついでってのが、新居らしいな」
 クス、と笑みを浮かべた友人に水藤もつられて笑い、確かに、と頷いた。
「あいつ、口は悪いけどカワイイとこがあるからなぁ」
 水藤達が知史を気に入っている理由は、初めこそ綺麗な顔立ちではあったが、その容姿に似合わない口の悪さであったり、猫のように何にも縛られない自由奔放なところであったり、けれど時々面倒臭いという表情をしながらも水藤たちに振り回されてくれたりする――そういうところが自分達にはない魅力があるからだ。
「でもやっとか、って感じではあるよ。正直言って俺、友達だと思ってるのは俺だけで、新居は俺たちのことそんなふうに思ってないのかもって、思うことがあるからさ」
 不意に、真面目な顔をして一人が言った。それは表立っては言えなかったけれど、水藤もどこかで感じていたことであった。
 自由奔放であるが故に、その本音を曝け出してくれないもどかしさは、ふとした瞬間に訪れる。例えばゲームセンターで一緒に遊びながらも、つまらなそうにしている時だ。あの時彼は何を思ってここにいるのか、気にならなかったとは言えない。
「それはオレらにも言えるんじゃないか?」
 水藤が頷きかけた時、もう一人が独り言のように呟いた。
「え?」
 どき、と鼓動が嫌な高鳴り方をした。
「新居ってさ、筵井にはすげぇ懐いてんじゃん。あれ、1年の時に暴力事件になりかけたのがあったろ、それがきっかけみたいなんだよ。でも俺らはそん時、あいつに何もしてあげれてない。話を聞くこともしなかったし、むしろ避けてたところもあるし。しょうがないよなと思ってた」
 視線を落としながらも話す彼に、二人は何も言えなかった。昨年、大変だったろう知史に関わろうとしなかったことは、その通りだったからだ。
 あの事件のことはよく覚えている。入学当初から不登校気味だった知史が喧嘩に巻き込まれ、数人の若者を病院送りにしたらしい。当事者でもなく、人伝に聞いただけの事件だったが、突然振って沸いたような非日常的な話題は強烈過ぎて、簡単には忘れないだろう。しかし1年経った今では誰もその話に触れることはない。
 言葉を無くし、難しい表情の水藤たちに、にこりと笑って肩を叩いた。そんな顔をさせたくて、昨年の話を蒸し返したのではない。
「だから、オレたちもちゃんと聞こうぜ。腹割って、話そうぜ」
「……ああ、そうだな!」
 力強く頷く友人に満足気な顔を浮かべる。
「なぁんか青春してるよな、俺たち!」
 照れくさくなった水藤はわざとらしく声を上げた。古い青春ドラマのように殴り合って抱き合って友情を確かめ合おうとは思わないけれど、そういうのも得てして悪くはない、と思う。

                □ □ □ □

 水藤が寝坊したため全速力で駅からの階段を駆け下りている午前8時頃、高歩は準備室でメールを知らせる着信を聞いた。携帯を開ければ和葉からだ。昨夜和葉に知史のことを話したばかりのタイミングで連絡が来たことに対し、きっと彼のことだと予感がし、思わず顔を険しく歪めた。
 読む前に時間を気にして部屋にある壁時計に目をやる。これから朝練を見に行くつもりだったが、読めばそれができなくなりそうな気がした。しかし無視したとして、気にせず部活動の指導に集中できるとも思えなかった。高歩は諦めて準備室にあるソファに腰を落とし、メールを開いた。案の定、内容は知史に関することだった。険しかった表情が更に深くなる。
 そこに書かれていたのは、知史が和葉のアパートに来たことから始まり、1泊させたことまでを簡潔にまとめたものだった。知史が傷を負っていたので、簡単な消毒はしました、と書かれていたことには驚きを隠せなかった。1年前のことが過ぎり、喧嘩はやめたのではなかったのか、と顔つきを厳しくさせる。
 ただ高歩にとって唯一救われたことは、和葉の淡々とした文章の中からでも、知史を気遣う言葉が含まれているということだった。高歩にとっては、彼女が知史を部屋に入れることに抵抗があっただろうということは、すぐに予想できた。ストーカーまがいのことをされ、散々な恐怖を味わっているのだから、それは当然のことだ。だからその和葉が男である知史を泊まらせることができた、ということにある意味では安堵したのだ。まだあれから言うほど月日は経っていないけれど、立ち直りつつある彼女に肩の荷が下りるようだった。
 皮肉なものだと思う。知史の心配をしつつも、和葉の安定した状態が間接的に分かり、ほっとしている。

 6時間目の授業を終え、高歩は職員室へ戻った。担任するクラスを持っていない高歩はSHRに出る義務はなく、自分の席に着いた途端ほうっと息を吐いた。最後のクラスは遅れ気味のペースだったのだが、プリントを宿題にすることで何とか期末の試験までには間に合いそうだ、と頭の隅で反省しつつ、大半の部分は引越しのことで思考は埋まっていた。
「あら、筵井先生が職員室なんて、珍しいじゃないですか」
 声を掛けてきたのは家庭科担当の女性教諭だ。高歩よりも一回り以上年上の彼女は、しかしまるで少女のように可愛らしい仕草で小首を傾げている。いつも準備室に入り浸り、職員室には朝礼の時か早朝会議くらいでしか顔を出さない高歩が、会議でもないのに職員室へ戻ってきたことにひどく驚いた様子だ。
「たまにはマジメに仕事しているところを見せないと。まぁ、すぐにいつもの所へ戻りますよ」
 高歩が苦笑しつつ答えると、家庭科教諭は可笑しそうにクツクツと声を上げ、隣の席に腰を下ろした。ちなみに彼女が座ったのは、保健体育担当の男性教諭の席である。どうやら話し込む態勢になったようで、内心高歩はSHRの終わりを告げるチャイムが待ち遠しくなった。
「そんなことを言って。筵井先生が真面目なのは皆さん知ってますよ。陸上部だって頻繁に顔を出しているでしょう」
 陸上部は高歩が副顧問をしているクラブだ。正顧問もいるが、経験者でもないそのベテラン教師は事実上名前だけの顧問で、滅多に部活動には顔を出していない。高歩も経験者ではないが、せめて生徒達が練習に集中できるよう、フォローは惜しみなくするつもりで、時間があれば部活に参加するようにはしていた。
 まさかそこまで見られていたとは思わず、高歩は肩を竦ませて見せた。
「部活は自己満足みたいなものです。練習メニューとかは部長に任せきりですし」
 一応部長である生徒からはミーティングの際に練習内容などの報告は受けている。しかしそこで高歩が言えるのは、健康面や衛生管理の面から見たアドバイスしかない。彼らのスキルアップのためのアドバイスなどできるはずがなかった。そのことをいつも歯痒く思っており、思わず目の前の彼女に対しても不満気な表情を浮かべてしまう。
「ほら、そういうところが真面目なんですよ、筵井先生は」
 そう言って笑われれば、高歩は何も言えなかった。困ったように前髪を掻き上げ、はは、と愛想笑いを浮かべた。
「真面目と言えば2年の新居くん。あの子も根は真面目な子なんですけどねぇ」
 不意に出てきた知史の名前に思わず高歩の鼓動が速くなった。
「新居……ですか」
 よりにもよってどうして彼の名前が挙げられたのだろうか。高歩はまじまじと彼女の顔を見つめた。
「ええ。今週からまた休みだしてるみたいですけど、ここ最近はサボることもなかったでしょう。だから調理実習の時に聞いてみたんですよ、授業にはついてこれてるかって」
 そういえば家庭科の担当は2人しかおらず、全学年を2人で請け負っているのだと、今更ながらに思い出した。元々副教科担当の教師は少ないのだ。
「それで、新居は?」
 もったいぶって話を区切った彼女に、高歩は先を促した。彼女は満足そうににっこりと微笑んだ。
「調理実習なら気楽にできるから問題ないと言ってましたよ。料理は家でもよくするみたいで、わたし、びっくりしちゃいました。だって今時、女の子でもそう答える子、少ないですもの。ただ被服は苦手みたいで、嫌そうな顔をしたのは、男の子だなぁと思いましたけど」
 高歩は、楽しそうな表情を浮かべる彼女を横目に見ながら、昨年会った知史の保護者を思い浮かべた。彼は知史の叔父にあたり、養父でもある。会って話したのは1度だけだが、独り身の男性らしく多忙そうな生活ぶりだった。そのせいで知史が料理をするのに迫られる様は容易に想像できる。それを苦に思っていないことは確かに意外であった。
 そこまで話していると、ちょうどチャイムが鳴った。女性教諭は慌てて立ち上がる。もうすぐこの席の持ち主が戻ってくるからだろう。どことなく高歩はほっとした。
 高歩も腰を上げ、準備室へ向かおうと立ち上がる。何気なく隣の席を見やれば、綺麗に片付けられた机の上に、似合わず無造作に置かれた一冊の古い文庫が置かれているのに気づく。先ほどまで女性教諭が座っていたその席は、読書とは程遠そうな保健体育担当の教師のもので、当然その本も彼のものなのだろう、とは察しがつく。それでも体育大学出身の彼とは結びつかなかった。
 あの先生でも夏目漱石には惹かれるものなのだろうか? 知らず、本人に聞かれれば失礼でしかない疑問が浮かび上がる。何となく見たタイトルは有名なもので、内容は知らない高歩でも聞いたことのあるものだった。

 職員室を出て準備室へ戻る廊下を歩いていると、バタバタと騒がしい足音が前から近づいてきた。ふと顔を上げた高歩は思わず眉間に皺を寄せた。
「こら! 廊下を走るんじゃない!」
 高歩が声を上げれば、慌てた様子の3人の生徒はピタリと走るのを止めた。それでもかなり急いでいるらしく、お互いに注意されたことを罵りあいながら早歩きで通り過ぎようとする。高校生相手にこんな注意をするとは、と呆れながら高歩はその3人に目をやる。
「気をつけて帰れよ」
 彼らとすれ違う際にそんなふうに声を掛けてやれば、3人とも「はぁい」とやる気の無い返事をする。
「ったく水藤のせいで」
「俺かよ!?」
「あたりまえだろー」
「2人してひどくね?」
 そんな彼らの声を背中で聞きながら、思わず苦笑した。いつまでたっても生徒は生徒のまま、子どもなのだと思う時だ。
 知史もその内の一人だ。不器用で、意地っ張りで、けれど可愛く思える生徒だ。
 そういえば、と高歩は振り返った。すでにあの3人の姿は見えない。彼らは知史と仲の良いクラスメイトだった、と思い出したのだ。ここ最近の様子を彼らに聞けば良かったな、と小さく後悔してみたけれど、居なくなった彼らを追いかけるまでの気力は持っていなかった。
 まぁ、いいか。高歩は溜め息を一つ吐き出して、頭を掻いた。