月影

chapter 28


 知史は、和葉に急かされるまま水藤にメールを送った。その間に彼女も携帯電話を手にしていたが、知史には何をしていたのかまでは分からなかった。「連絡した」と告げれば、和葉は安堵したように笑みを見せ、ならばと学校へ行くように最後の釘を刺した後に駅で別れた。
 一緒に改札を通った後、知史は和葉と別の路線に向かった。彼女は高歩がどこの学校へ勤めているのかは知らないらしく、和葉と違うホームへ向かっても咎められなかった。知史には和葉と高歩の関係が今一つ掴みきれないでいる。頭を掻く。
 とりあえず、和葉には悪いと若干の罪悪感を覚えつつも、元より学校へ行くつもりはなかった。しかしこれといった予定も立てていないため、一度マンションへ戻ることにする。この時間なら既に叔父は仕事へ行った後だろうし、顔を合わせることはないだろう。しばらくは顔を合わせたくなかった。
 通勤ラッシュに揉まれながら、普段とは逆の電車に乗ってマンションへ帰る。案の定、家の中には誰も居なかった。家政婦もまだ来ていないようだ。知史は急いでシャワーを浴びた。朝は和葉が作ってくれたトーストとサラダを食べたので、着替えればすぐにマンションを出られる。熱いお湯を全身に浴びながら、体中に出来ていた傷がひりひりと痛むのを感じた。

 授業が終わる時間まではファミレスや漫画喫茶で暇を潰した。放課後になる時間を見計らって、水藤がメールで指定してきた通り、馴染みのファーストフード店へ待ち合わせのため入る。店に入るとナンパ目的に声を掛けられることもなく、一人で考える時間が思いのほかできてた。それが果たして良いことなのかは分からないが、知史は良い機会かもしれないと思うことにする。
 そもそもが、和葉に言われるままにメールを送ったのだけれど、その実、水藤たちに何を話せばいいのか分からないでいた。彼らは自分にとって有益でも無益でもない、曖昧な存在だ。人間社会で生きていく上で必要な「つるむ」仲間であり、それが本来の意味での「友人」として位置づけるものなのか、知史には分からない。
 彼女は何の目的でメールを送れと、あんなにもしつこく言ってきたのだろう? ……ああ、そういえば最初は「先生に」ってことだったっけ。
 注文したコーラをストローで吸い上げながら、その炭酸を喉に当てて飲み込む。甘ったるい味が口の中で広がった。窓辺の席を取ったので、そこからは外の景色がよく見える。半分は曇りガラスになっているが、少し首を伸ばせば丸見えだ。平日の昼間だというのに人が忙しく動き回っている。知史は頬杖をつきながら「いや、違う」と首を振り、平日の昼間だからこその光景なのか、と思い直した。
 そうしてぼんやりしながらも、頭の中は先ほどと変わらず、さて自分は彼らに何を話すつもりなのだろう、ということに尽きる。本当に困った。何も浮かばない。勢いだけでやってしまったのだから仕方ないのだが、態々呼び出したのは紛れもなく知史自身だ。答えを知っているはずの和葉は勿論ここにはおらず、そしてまたそこから逃避するように外を眺める。ストローに口付ける。
「新居!」
 声がして知史はハッと顔を上げた。振り返れば入り口付近で「よっ」と片手を上げている水藤達が見えた。知史も軽く右手を上げ返した。どうやらタイムオーバーらしい。腹を括るか、とストローから口を離した。
 各々トレイを持って来たため、知史は自分の分を端にずらした。三人は、今日の授業はどうだったかというどうでもいい話を挟みながら、四人席を全て埋めていく。
「んで、まずはどうする? やっぱゲーセンかな」
 ポテトを摘みながら水藤が言った。話はついでだというメールだったので、念のためにそんなふうに切り出したのだが、やはり知史以外の二人に軽く睨まれる。
「ばか。今週もう3日も行ってんだぞ。いい加減金欠だっつの!」
「だよなぁ。オレとしてはカラオケが良いんだけど」
 そう言いつつ二人は知史の方へ視線を向けた。頬杖をついたまま、知史はその視線に小首を傾げて返す。
「いいんじゃね、カラオケで」
 知史が言えば「じゃあ決まりだな」と頷きあった二人は、ハンバーガーに齧りついた。
 水藤は自分だけが蚊帳の外のようで不満気に唇を尖らす。常から思っていたが、二人の態度は明らかに酷すぎやしないだろうか。
「なぁ、新居。俺ってこいつらに嫌われてんのかな? 今日もさ、筵井に廊下走るなって注意されたの、俺のせいになってたんだけど。こいつらも一緒に走ってたのにさぁ」
 思わず隣の知史に問いかけてみれば、改めて見ても綺麗だと思わせる顔をちらりと向け、しらっと答えられた。
「むしろ愛されてんじゃねーの。いじられキャラって必要だろ」
「それって必要なの? 全然嬉しくないんだけど」
 心底嫌そうに表情を歪める水藤に、それこそ心外だと抗議をしたのは当の二人だ。
「あん? オレらの愛が分かんないのかよ。だったらもっと激しく愛さねぇとな」
 フッと笑む友人を見て、水藤はぞわわっと背筋が凍るのを感じた。これが悪寒というやつだろう。それが分かったところで何一つ喜ばしくない。
「はっ!? やだよ、いらねーよ、そんな愛!」
 眉根を寄せて叫ぶ水藤に、思わず二人は噴出して笑った。だから水藤をからかいたくなるのだろう、と横目で見ていた知史も、僅かの口の端を上げて笑う。普段は鬱陶しいくらいの彼のテンションは、今の知史には都合良く思えた。このまま「話」が逸れてくれたらいいのに、と頭の隅で考える。
「ってか、俺のことはどうでもいいんだよ! 今日は新居の話だろ」
 ああ、やはりダメか。ズズッとコーラを啜って知史は視線を落とした。
 知史は腹を括った先ほどの決意を思い出して、素直に打ち明けることにする。三人がどんな反応をするか予想を立てるのは、もうしないことにした。
「実はさ……」
 それほど溜めることはないのだけれど、思いのほか三人が真剣な表情をしたので、思わず引いてしまった。
「これと言って話すことはないんだ」
「え?」
 キョトンとした三人の顔を見ると、さすがの知史も申し訳なくなった。自分の話しに何を期待されていたのかは分からないが、落胆されたのは間違いなく、それに納得していないことも分かる。
「ないことはないだろ。つかあるだろ。色々あるだろう?」
 畳み掛けるように言われ、知史はキョトンとした。その言い草からして、単に期待されていたのではなく、その目的も彼らには分かっているようだ。和葉に促されて従ったものの、見つけられなかった答えが、彼らには分かっているのだ。
「え。ごめん。まじで思い浮かばない」
 目を丸くして告げる知史はふざけているようにも見えず、まじかよ、と誰ともなく呟く声が聞こえた。驚き、というよりはショックに近い。はぐらかされるよりも精神的にきつかった。メールが着た時点で覚悟し、期待していた分、予想だにしなかった現実に鈍器で殴られたような衝撃を受けた。水藤は乗り出しそうになった体を何とか耐え、まじまじと知史を見つめる。
「俺らはてっきり……」
 ふと零れた水藤の言葉を知史は拾い上げた。いつもなら無視するが、それは自分が辿り着けなかったものだと確信している。その続きを聞きたかった。
「てっきり、何?」
「あ、じゃあさ、オレ達が質問するからそれに答えてってよ」
 水藤が答える前に、知史の前の席の彼が提案してきた。それは話す内容が見当もついていなかった知史にとっては有り難かった。割り込まれた水藤も「いいな、それ」と賛同する。
「その前に確認したいんだけど」
 少し改まって彼は声音を変えた。
「新居にとってオレ達って何?」
 まるで恋人にされる質問だな、と思った。知史は思わず顔を顰める。確認、と称したその質問の意図が掴めない。
「何って?」
「オレ達のこと、新居はどう思ってんのかなって思ってさ」
「どうって……」
 知史は瞬時に浮かんできた言葉を、そのまま言っていいものかどうか迷った。それが彼らの期待している“正解”かどうか、自信が持てなかったからだ。もし“不正解”であれば、彼らもまた態度を変えるのだろうか。不安というよりも、それは恐れに近い。不本意に関係が崩れるのは、耐えられることだとしても知史の望むものではない。少なくとも今の知史にとっては――。
 不安げな心情が知史の瞳から読み取れたのだろう。問いかけた彼は、苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「オレ達はダチと思ってるんだけど?」
 確かめるように言われ、知史は眉根を寄せる。
「そんなの、当たり前だろ」
 どうして今更そんなことを聞くのだろう。知史は答えながら、安堵した。己の中の答えは間違っていなかった。改めて聞かれるから、違うのかと疑ったが、よくよく考えればむしろ疑われていた方なのだ。
「なんでそんなこと聞くんだよ?」
 知史は彼らの質問の意図を理解すると、だんだんと腹が立ってきた。知史は自分でも愛想の良い人間ではないと自覚している。放課後まで付き合ってゲームセンターやらカラオケやらに行くのは、彼らが友人だからだ。
「いや、悪かったよ。ただ確かめたかったんだ。だってお前、俺らには何も話してくれないからさ。筵井には色々相談してるみたいだけど」
「はぁ? 先生とお前らとは違うだろ。先生とはゲーセンにもカラオケにも行かないし」
 知史の機嫌が下降していくのが三人には目に見えて分かる。
「そういうこと言ってるんじゃねーよ」
「何が。違ってないだろ。先生は友達じゃない」
「全然違う。新居の言うダチって何だよ? つるんで遊ぶだけがダチかよ?」
 彼は努めて冷静に話そうとするが、それでも口調が鋭くなってしまうのは仕方がなかった。どうしようもなかった。言っていて悲しくなり、堪らない。
 もしかしたら知史と自分達の間には言葉の定義として大きな相違があるのかもしれない。認めたくなかったそれが現実として突きつけられそうで怖かった。だから違うと否定して欲しくて、投げかけた言葉だったのに。
「他に何があるんだ」
 あっさりと肯定された。
「お前らに話せることは全部話してる。それに何の文句があんだよ?」
 決定的な言葉を放たれた。
 全部、という中に昨年の事件が含まれていないということは明白で、つまりはそういうことなのだ。
 三人は何も言えなくなった。腹を割って話そうと思って来たのに、知史とは最初からすれ違っていた。知史との間にあるのは小さな溝だと思っていたけれど、その先にある大きな壁に気づいていなかっただけで、本当は知史の姿すらこちらに見えていなかった。
「……もう、いいよ」
 違う。知史が壁を作ってその姿を見せていなかったのだ。それなのに目の前にある幻想を自分達は本物だと信じて疑わなかった。ほんの少し疑ったけれど、信じたくて見なかった振りをしていた。
 黙りこんだ三人に、知史はどうしようもない居心地の悪さを覚えた。
「意味分かんねぇ」
 吐き出すように呟いた声は、果たして三人に届いたのだろうか。
 だが知史にはどうでも良かった。
 崩したくなかった彼らとの関係が、音を立てて壊れていくような錯覚に陥りながら、どうでもいいと諦める。諦めることには慣れている。
「呼び出して悪かったな。最近学校行ってないし、お前らと会ってないから久しぶりに遊ぼうかと思ってたけど。俺、行くわ」
 諦めるには開き直るのが一番だということはとっくに知っている。不快でしかないこの行為は、しかしそれも一時だけのものだ。
 席を立つ知史に、水藤は声を掛けようとし、やめた。知史が店を出た後も、何も言葉が浮かばなかった。

 不快感を抱いたまま、知史は街を歩く。目的もなく道を彷徨っていれば、いつのまにか足は駅に向かっていたらしい。一段と人混みが激しくなっていることに気づき、周囲を見渡せば見慣れた駅の前だった。手前のホームに行けばマンションがある方面だ。もしかしたら高歩と鉢合わせになるかもしれない。
 今は高歩にも会いたくなかった。だから学校へ行く方面のホームへ入り、滅多に使わない普通電車に乗った。
 いつもより長く揺られながら、一駅目で降りる。今までこの駅を使ったことはない。近くに何があるのかを確かめようと、電車の中から見えた寂れた商店街へ向かうことにした。人通りはそれなりにあるが、地元の駅前ほど賑やかな場所ではないようだ。
「……新居?」
 不意に名前を呼ばれた。こんな場所で呼ばれるはずのない自分の名前を言われ、聞き間違いかと思ったが、振り返ってみて知史は固まった。
 どうして。
 そこに居たのは高歩だった。どうして、という疑問はお互いに抱いたはずなのだが、それをどちらかが口に出す前に、知史は逃げた。
「新居!」
 後ろから名前を叫ばれる。だが知史は振り返らなかった。
 高歩から逃げたのはあの日以来だ、と脳裏にかつての風景が過ぎる。それを振り払うかのように知史は走った。