月影

chapter 29


――なんで先生がこんなとこにいるんだよ……!
 高歩の姿を見るなり踵を返し、逃げ出した知史は想像だにしていなかった事態に、完全にパニックになっていた。
「新居っ、待て!」
 すぐ後ろから声が聞こえる。振り切れていなかったのか、と後ろを確認しようとした時、不意に右手首を掴まれた。驚いて足を止めれば、同じように息を切らした高歩がすぐそこにいた。距離にすればそれほど離れていないところで呆気なく捕まってしまったのだ。
「どうして逃げるんだ」
 緊張と動揺で息が上がっている知史に比べ、大して走ってもない高歩の声は低く、その冷静さが更に知史を追い込む。単純に叱られるということだけならばそれはそれで良しとしたが、今は誰にも会いたくなかった。顔を逸らして視線を合わせないようにした。
「答えたくないのか」
「……」
 高歩は一向に口を開こうとしない知史に溜め息を吐く。最近では学校をサボっていた日だとしても、街で会えば気軽に声を掛けてくるようになってきた。こんなふうに無視され、逃げ出すようなことは、あの日を境になくなっていたのに。
 本当ならば場所を変えてでもじっくりと話をしたかったが、ちらりと腕時計に目をやった高歩は、それを諦めて知史の手首を掴んだまま歩き出した。
「! ちょっ……?」
 突然足を進めた高歩に驚いた知史は、引っ張られる腕を振りほどこうともがく。しかし大人と子どもの差なのか、握られた手はびくりともしない。前を歩く高歩は一度もこちらを見ないので、その表情も分からず、知史は先ほどとは違った緊張を覚えた。恐怖と名づけた方がしっくりとくるような感情が背中を走る。顔を顰め、何度も高歩を呼ぶ。
「先生、痛いって。離せよ! 先生!」
 しかし高歩が振り向くことも、その手を離すこともなく、ただ知史に対して怒りを表していることは確かだ。
 痛みを伴うほどに握られた手首は、どれほど知史が喚いても離されることはなく、知史は黙ってそれを見ているしかできなかった。

――まさか、こんなところで会うとは……。
 高歩はいつ逃げ出すか分からない知史の手首を掴んだまま、さてこれからどうするべきか、無意識に駅へ向かう足元を見ながら逡巡する。
 高歩が普段降りない駅で足を止めたのは、単純に引越し先を探すためだ。和葉と話し合ったとおり、今までと変わらない場所で探すだけよりも選択肢は数あった方がいいということで、当たる物件の分母を増やすために色々な場所を検討しようとした。その結果、偶然であるが知史を見つけられたのは、果たして幸運だったのだろうか。後ろを振り返ることをしなかったのは、手を掴んでいる限り知史は逃げないだろうという判断と、目を見てしまえば説教じみた発言をしてしまうという確信からだ。
 不安そうな視線は背中で感じている。それでもこれ以上のんびりしていられない焦燥に駆られ、知史へのフォローが充分出来ていないと理解しつつも、和葉との待ち合わせに遅れてしまうという現実が高歩の全ての行動を支配していた。知史との話は彼がいればいつでもできるが、和葉をアパートへ送り届ける義務を果たせるのは、この時間でしかないのだ。
 彼女を驚かせてしまうな、と眉根を寄せた高歩は、一度だけ知史を振り返った。
「新居」
 不貞腐れていた知史は不意に呼ばれたことに驚いた。ハッとして高歩を見上げれば、ちらりと前方へ視線をやり、もう一度知史を見た。
「ちょっと寄ってもらうぞ。切符買ってこい」
「え……」
 ぐいぐいと腕を引っ張られ、切符購入販売機の前に連れてこられた。戸惑いつつも高歩に言われるまま、指定された金額の切符を買うと、すぐに改札を抜け、ホームへと出る。なんとなくではあるが、知史は朝来た道を戻るのだろう、と理解した。

――どういうことだろう、これは。
「あれ……?」
 和葉は驚きをそのまま表情に出した。
 ゆっくりと確かめるように一度瞬きをするが、どうやっても目の前にあるのは現実だ。
 そこに、朝別れたばかりの筈の知史が、不貞腐れた表情で高歩と共にやって来ていた。
「どうして新居くんが?」
 思わず人差し指を向けてしまったが、高歩はそんな和葉を咎めることはなく、肩を竦めて見せた。
「偶然ですけど、捕獲してきました。乙瀬さんを送ってから新居も帰します」
 高歩の答えに和葉は視線を知史へ戻した。知史はそっぽを向いたまま、一度もこちらを見ようとはしなかった。
「捕獲って……学校に行かなかったの?」
「……」
「言ったのに」
 黙ったままの知史を見て、和葉は不満気に睨んでみせる。顔を上げない知史に効果があるとは思えなかったけれど。
 小さく呟いた和葉の最後の言葉に、高歩は僅かな反応を見せた。メールで昨夜、知史が和葉の部屋に泊まっていたことを思い出したのだ。ただ思い出しただけで、この場では何も言わないことにし、開きかけた口を閉じた。
 知史はどうしたって答えそうもなかったので、高歩は和葉に視線で促し、足を動かすことにした。知史の手首は相変わらず高歩に掴まれたままだ。
 三人で並ぶ帰り道は、高歩と二人で歩くいつもより、なんだか少しだけ新鮮に思えた。昨日までなら二人の会話は専ら引越しのことだったが、知史がいる手前、どちらともなく敢えて避けるように会社のことや学校のことを話題に出した。
 そんなところも可笑しく、ふと会話が途切れた合間に、和葉は空を見上げる。
 月が出ていた。端が少し欠けた月だ。
 星は街灯でそれほど見えないが、月だけは見上げるたびにその存在感を確認できた。高歩とこの道を一緒に歩くようになった時も、確かこんなふうに思ったかもしれない。


 和葉を送り届けた高歩は、そのまま知史を自分の部屋へ入れる。玄関のドアを閉めると、高歩はそこでようやく彼の手首を離した。
 真っ直ぐに見下ろす高歩を見上げて、知史はうろたえた。
 知史が高歩の家へ来たのは初めてだった。
「話をしようか、新居」
 部屋へ通した高歩は静かな声で言った。
 知史はコクンと頷いた。高歩に続いてリビングへ足を踏み入れる。一人暮らしの部屋だとしても、物が無さすぎる印象を受けた。案外一人暮らしの部屋というのはこういうものなのか、それとも高歩が普通よりも片付け上手なのか、知史には分からない。
 広くはないリビングにソファというものはなく、ダイニングテーブルもなく、あるのはちゃぶ台サイズの小さな折りたたみ式のテーブルが中央に鎮座しているくらいだ。1DKなので寝室は別にある。それでもこの部屋で寛ぐことが多いのか、クッションは1人暮らしの男性の部屋にしては充実していた。
 その一つを取って知史は何も言われず座った。ちょうどテレビを背にした形で、高歩も腰を下ろす。話をしようか、と持ちかけたのは高歩であるはずなのに、座ってからも口を開かない彼に、知史はちらりと視線をやった。手持ち無沙汰で近くにあったもう一個のクッションを引き寄せると、膝の上でコロコロと転がしてみる。それ事態に意味はないが、この沈黙を耐えるには必要なことだった。
「昨日のことは乙瀬さんから聞いてる」
 暫くして唐突に、高歩が言った。知史は落としていた視線を再び持ち上げ、高歩の顔を窺う。怒っては……いないのだろうか。真剣な表情ではあるが、特に激しい感情をそこから読み取ることは出来なかった。
「怪我は大丈夫なのか?」
「……うん」
 高歩が見る限り、半袖から露出されてる腕に絆創膏がちらほらと見えるだけで、大した怪我ではなさそうだ。顔に付いている痣はかなり腫れて酷いようだが、見た目よりは痛みを伴っていないのようだった。先に和葉から連絡があって良かったと思う。そうでなければ、彼を見た瞬間に問いただしてしまっていたに違いなく、すんなりとここまで連れて来られなかっただろう。
「どうしてそうなったのか教えてくれないか」
 刹那、高歩は知史の瞳が揺れたのを見逃さなかった。
「見たら分かるだろ」
 言い難そうに吐き捨てる知史の声は、耳をすませば微妙に分かるほどには、震えていた。知史は居心地悪く視線を彷徨わせるが、声の震えに高歩が気づいたのか分からない。
「新居の口から聞きたいんだ」
 高歩は先ほどと変わらない調子の声だ。知史は忙しなく手に持ったクッションを握ったり離したりを繰り返しながら、どう答えるべきか考えあぐねていた。素直に言って、説教をされるのは嫌だ。和葉に求めたような甘えを、高歩にもまた求めていた。
 けれど、どこかで「そうじゃないだろう」と囁く声がする。知史だけに聞こえる声だ。
 暫く答えることに躊躇していたが、一向に高歩が視線も逸らさず黙っているので、知史は根負けしたように息を吐いた。
「喧嘩」
「そうか」
 呟くように答えた知史に、高歩はあっさりと頷いた。
 それだけの反応に戸惑ったのは知史だ。
「怒らねぇの?」
 思わず聞いてしまった自分に知史はすぐに後悔する。言わなければそれだけで済んだかもしれない。
「怒られたいのか?」
「そういうわけじゃ……」
 口篭る知史を見て高歩は苦笑を浮かべる。あの時よりも随分と素直になったものだと感心した。
「怒るのは後で、だ。それよりもまだ全部は聞いてない。どうして喧嘩になった? 前はやめたと言っただろう」
「やりたくてやったんじゃない! 向こうが2人で来るからっ……仕方なかったんだ……」
 高歩の淡々とした口調が責めているように感じて、思わず知史は声を上げていた。しかし“仕方がなかった”という言い訳が通用することなどない、ということをあの時に分かっていたはずなのに、またそれを口にしてしまう自分が情けなく、張り上げた声は弱々しく萎んでいった。
 俯く知史に、高歩はそっと手を伸ばし、肩に触れた。
 すぐに離れた温もりを追う様に知史は顔を上げる。高歩の表情は穏やかだった。
「分かった。昨日のことはもういい」
「……」
「この1週間、学校に来ないで何してた?」
「……」
「最近は真面目に来てただろう。急に来なくなったのはどうしてだ?」
 高歩が言った1週間前が、叔父と言い争った日だと言うことはすぐに気づいた。叔父とは最悪な関係であったけれど、関わらないようにしていたからこれまでの日々としてはいたって平穏なものだったのだ。だから学校にも行こうと思えた。
 高歩は叔父とのことを知っている。あの日に全て話した。
 知史は、けれど、やはりまだ己の奥底までを曝け出そうとは思わなかった。
「急にじゃない。前までだって行かない日はたくさんあった」
「それでも3日と空けたことはなかったじゃないか」
 すかさず高歩が反論してきたことは、知史自身気づいていなかったことだった。果たしてそうだったか、今は思い出せない。
 押し黙る知史に、高歩は出来る限りの穏やかな口調で、言った。
「叔父さんと何かあったのか?」
 知史の肩が揺れる。高歩は目を細め、厳しくなりそうな己の顔の筋肉を無理矢理抑えた。
「俺は……」
 震える声を、今度は隠しきれなかった。知史は固く拳を握り締める。くしゃっと大きくクッションに皺が寄ったが、そんなことはどうだってよかった。
 あの時を思い出す。
『先生は、誰かを亡くしたこと、ある?』
『俺もあるんだ。父親と母親。あんま、覚えてないけど』
『覚えてないからかな。実感なくて。でもアイツは今でもずっと覚えてて――。似てるらしいよ、俺と母親』
 あの時に返した言葉を、高歩は忘れてしまった。
 しかし知史の話は記憶に刻み付けた。それが彼と関わるための重要事項だと分かっていたからだ。あまりに重過ぎて忘れられないというのもある。
「俺……。先生、もう、分かんねぇよ」
 知史の泣きそうな声はひどく幼い。
「新居」
 高歩は思わず、彼の名を呼ばずにいられなかった。