月影

chapter 30


 俯く知史に高歩が声を掛けてやれることなどない気がした。
「……叔父さんと何かあったのか?」
 出てきた言葉はそんな、あって意味のないようなものだけで。それでも他に言い様が思いつかなかった。
 知史は問われ、頬に触れてきた叔父の指の感触を思い出し、ゾワリと寒気が走った。腕を摩ると真夏の夜だというのに軽く鳥肌が立っている。
 思わず、気持ち悪さに表情を歪ませた。
「さわってきたんだ」
 叔父が撫でた跡を引っかくように爪を立てる。ちり、と痛みが走ったが、それだけの刺激でこの嫌悪感が拭えるとは思えなかった。
 全てを言ってしまえば、高歩はどう反応するだろうか。汚らわしいと軽蔑の目を向けるだろうか。いや……高歩は優しいから、あからさまな視線は向けてこないだろう。それでももう頭を撫でてくれることはなくなるかもしれない。
 高歩に触れられるのは嫌いではなかった。むしろその暖かさを実感するたびに嬉しかった。叔父のように性的な匂いを感じなかったからかもしれないし、そもそも高歩に対してそういう見方は知史自身が許さなかった。だからこれ以上言っていいものか、視線を迷わせる。しかしここまで来て、隠す方が可笑しい気がした。ちらりと視線を戻すと、先を促すように高歩がこちらを見ていた。
「触ってきたんだ。あいつ、俺と母さんを重ねて見てるんだ。俺の顔、すげぇ似てるから」
 それがどういう意味を持ってのことなのか、すぐには高歩は分からなかった。
 爪が食い込む程に頬を引っかく知史の手を止め、ゆっくりと下ろす。固く握られた掌は僅かに震えていた。
 高歩は、知史の家庭環境についてそれ程詳しく知っているわけではなかった。教育者という立場として、知史の両親が既に他界していること、本来は親戚である彼の叔父の養子になったことを簡単に把握しているだけで、知史が保護者である叔父のことを異常なまでに嫌っていること以外は知らなかった。
「触られただけ?」
 高歩は確かめるように言った。言いながらも半ば信じられない思いだった。だが知史はすぐにコクンと頷いた。
 手が頬に触れただけ。言葉にしてみれば些細な事かもしれない、と知史は気づき、途端に不安が押し寄せてきた。触れた“だけ”のことで、と呆れられただろうか。過剰反応しすぎだ、と一喝されれば、それまで抱えてきたものが全て意味のないものになってしまう。
「でも俺、すごく嫌で、気持ち悪くて」
 高歩に分かってほしくて、縋るような視線を向けてしまう。
「どんなふうに?」
「え?」
 真剣な声音で尋ねられたことがよく理解できず、知史は聞き返していた。
「叔父さんはどんなふうに触ってきた?」
 言って、高歩は中腰になるとテーブルを挟んで腕を伸ばし、右手で知史の左頬を包んだ。親指の腹でそっと撫でられる。
「先生……?」
 知史は目を見開いた。心臓が壊れるのではと思うほど激しく波打つ。高歩が何をしているのか分からなかった。次第に彼の手がするっと滑ったかと思えば、人差し指と中指で左耳を挟まれた。その仕草がくすぐったくて肩を震わせる。
「これは? 気持ち悪くないか?」
 知史の頬を撫でる手は確かに妖しいくらいの動きを見せているが、高歩の表情はいつになく真面目で、知史は困ったように彼を見上げる。
「気持ち悪くないよ」
「どうして? 叔父さんと同じことをしているだろう?」
「全然違うって」
 答えながら知史は苦笑して見せた。
 高歩は更に身を乗り出し、唇を知史の耳元に近づける。ふ、とかかる息が耳元を掠めた。
「どこが違う?」
 まるで口付けでもしてしまいそうなほどの近さで囁かれ、知史はぞわっと何かが背中を走る感覚に襲われる。悪寒、嫌悪、快感。そのどれに当てはまるのかは判断できなかったけれど。
「だって、先生だし……」
 言い訳とも付かない理由を口にしながら、だんだんと知史は混乱してきた。どうして高歩相手ではあれ程の吐き気は襲ってこないのだろう? 確かに触れてきたという意味で、されていることは同じはずなのに。
 知史が戸惑いの視線を向けた時、高歩は体を離した。頬に触れていた手も離れ、知らずほっと安堵の息を漏らす。
 気づかない内に固まっていた体の力が抜けていく。そうして、ようやく心臓の高鳴りは緊張のせいだったと思い当たった。
「俺も叔父さんと同じ男だ。男に迫られて、叔父さんと俺とじゃ感じ方が違うのはどうしてだと思う?」
 知史は謎掛けのような問いかけだと思った。思い切り眉根を寄せた。高歩の言葉に感じたのは不快だとはっきり分かる。
「違う! 先生とあいつとじゃ、全然違う」
 高歩と養父を同じ扱いにして欲しくなくて、知史は声を上げた。知史にとって二人は同等ではない。例え同じ性別というだけにしても、知史の中でそこには格としてはっきりと線引きがされていた。
「何が違う?」
 それでも頑なに尋ねてくる高歩に、知史は苛立ち始める。「何が」というのは愚問すぎる。何もかもが違うのだ。
 キッと睨む知史の目を見て、高歩は冷たく笑った。
「俺は新居が思っているほど聖人君主じゃないぞ。例えば今、この場でお前にキスすることも抱くことも簡単にできる。俺がそんな目で見ていると知っても、違うと言い切れるか?」
「嘘だ! 先生はそんなことしない!」
 いつもの優しい、穏やかな笑みを浮かべる高歩はどこにもいなくて、知史は焦ったように声を張り上げた。その叫びは希望であっただけかもしれない。それでも今目の前にいる冷めた表情の男が高歩だとは信じ難く、早く元の高歩に戻って欲しくて、知史は声を上げた。
「俺自身が言っているんだ。嘘じゃない」
――どうして。
 なぜ高歩がこんなことを言い出すのか、知史には理解できなかった。揶揄するような色を持たない声で告げられ、裏切られた気分になる。絶望とはこういうことだろうか、と唇を噛む。違う、としか言えない自分が悔しい。
「なんで、そんなこと言い出すんだよ……」
 泣きそうになった知史は、力なく項垂れる。急に襲うと脅されたところで、今までの高歩が嘘だったなんて、誰が信じられるだろう。
「わけ分かんねぇ……」
「俺はさ、お前が性的虐待をされているとは思えない」
 高歩は静かな口調で言った。もうそこには先ほどのような冷徹さは無かったが、知史は怪訝さを隠さず顔を上げた。
「なんだよ、それ」
 信じられないものを見たかのように歪められる知史の顔を見て、高歩は知史がよく知る笑みを浮かべた。柔らかな雰囲気を作り上げる、穏やかな笑みだ。
「新居の話を信じてないわけじゃない。触られたのは事実だろうし、叔父さんが新居を亡くなったお前のお母さんと重ねて見ていることも本当のことなんだろうと思う。でも、新居には悪いけど、俺は叔父さんの心情の方が理解できる。最愛の人がいなくなって、その人にそっくりな人が現れたら、嫌でも意識してしまうのは当然だろうって。俺はそう思うよ」
 知史は、高歩が何を言っているのか、よく分からなかった。声は音として届いていても、言葉として上手く脳まで伝わっていない気がした。
 目を細くして睨みつけるように見つめる知史に、高歩は構わず続ける。
「最愛の人が残したお前を大事に思うのは当然のことじゃないかな。だから新居をただ引き取るだけでなく、養子にまでしたんだろう。叔父さんはお前を大切にしている。それはお前の言う間違った愛情じゃないと思う。もしその愛情が新居の言うとおり歪んでいたなら、とっくに新居は叔父さんを殴り倒しているんじゃないか? お前、見た目を裏切って喧嘩は強かったじゃないか」
「……何が言いたんだよ」
 高歩の話が読めず、苛立ちを露にしながら知史が唸る。
「もう少し大人になれ」
 はっきりとした口調で言い放たれたそれに、は、と知史は口を開けて呟いた。
「叔父さんに触られたら気持ち悪くなったのに、俺が触っても平気だったのは、お前の先入観から来る偏見だ。自分を最愛の人と重ねてるから、自分を見る目が全て欲情で溢れているように見えるし、俺は安全だという意識が前提としてあるから、俺が触っても気持ち悪くなかった――。俺はそんなふうにしか見えなかったけど?」
 その突き放されたような言い方に、知史はショックを受けた。けれど高歩は一度も視線を逸らさなかったし、口調はあくまでも真剣みを帯びている。高歩は真面目に言っているのだ、と理解できるから、知史はその言葉を何としても受け入れ難かった。
 言葉を失った知史に、高歩は更に続けた。
「新居、俺の言っていることが間違っていると思うなら、一度ちゃんとぶつかって来い。それで本当に襲われそうになったら、急所でも何でも攻撃して、ここに来い。そん時はちゃんと守ってやる」
 簡単だろ、と自信ありげに言い切られた。
 子どもをあやすようにポンポンと掌が頭に置かれる。知史の大好きな行為だった。
 今それをするなど、ずるい、と思った。知史は唇を突き上げて、不満気にして見せる。それでも頭上の手を振り払うことはできない。
 結局は知っているからだ。その手の温もりにある優しさを。髪を撫でる指先の感触がどれほどの安らぎを与えるかを。知史は既に知ってしまっていた。


「駅まで送る」
 高歩はそう言って知史と共に部屋から出た。駅までの道は歩いて10分程であるし、人通りの少ない道だといっても知史は男で、それ程心配することはない。そう思うのに、知史は「うん」と頷いただけでその言葉に甘えた。
「先生、本当に俺が襲われたら、守ってくれるの?」
 並んで歩き始めた高歩に、知史はふと浮かんだ疑問を口にしてみる。高歩の言葉を信じないわけではないけれど、何となく確かめるように尋ねてしまった。
 高歩は僅かに笑って、そうだなぁ、と呟く。
「殴り合いになったら負けるかもしれないなぁ」
「なんだよ、それぇ。頼りねーなぁ!」
 知史は、けれどちゃんと立ち向かってくれるのだと暗に伝えてくれたことに気づき、しょうがねぇか、と笑う。暴力的な高歩はなかなか想像できなかった。以前和葉のストーカーを抑えた時も、力ずくで捻じ伏せたのは知史自身だった。
「じゃあさ、俺が先生に迫ったら、先生は俺を抱くの?」
 知史は自分でも変な質問だと思いつつ、恐る恐る聞いてみた。それはただの好奇心だけだったのだけれど。
「んー、それは無理な相談だなぁ」
 呆気なく一蹴りされる。簡単に否定してきた高歩に、なぜだか知史は驚いた。さっきは簡単にキスも抱くこともできると言っていたのは高歩自身だ。
「そんなことしたら警察に捕まっちまうだろ。それ以前に、俺には男を相手にする趣味は無い」
「言ってること違くね?」
 高歩は横目で睨んでくる知史の視線に振り向き、はは、と小さく笑った。小ばかにされているようで、知史はその笑いが好きではなかった。
 コツン、と二本の指で額を弾かれる。
「あんなの例え話に決まってるだろ。期待に添えられなくて悪いが、本気に取るな」
 痛ッ、と額を押さえながら知史は、やっぱりずるい、と高歩を見上げる。
「別に期待なんてしてねぇし! つか俺だってそんな趣味持ってねーっつの!」
「はいはい」
 また声を漏らして笑う高歩に、知史は不貞腐れたように頬を膨らませる。
 それでもこの帰り道は穏やかで、心地良い風に包まれているような気がした。