月影

chapter 31


 知史がマンションへ帰ると、エレベータの所で叔父と鉢合わせした。調度彼も仕事を終えて帰ってきたところらしい。数年一緒の部屋で暮らしてきたが、帰宅のタイミングが微妙に合うことはあっても、こうして実際に鉢合わせになることはなかった。
 お互いに一瞬驚いた表情を出した。先に視線を逸らしたのは知史だ。つい先ほどまで高歩と話していたところで、何となく気まずい雰囲気を作ってしまった。
「飯は食ってきたのか?」
 一昨日言い合いになったことは無かったかのように、いつもの調子で叔父が尋ねてきた。
 彼がちらり、と横目に知史へ視線をやるが、知史がこちらを向くことはない。
「……食べてない」
 小さいながらも返事を返してきた知史に、内心驚きながら、叔父は「そうか」とだけ呟き、頷く。おそらく家政婦が二人分の晩飯を用意してくれているだろう。久しぶりに食卓を囲めそうだと、僅かに頬を緩める。知史が家を飛び出してから二日、と数えて、最短記録だと思い至った。
 叔父が玄関のドアを開け、知史がそのドアを閉める。鍵を掛けて靴を脱ぐと、知史は真っ直ぐリビングまで後に続いた。
 ダイニングテーブルにはラップに掛かった皿が並べられている。本日のメニューは肉じゃががメインのようだ。
「先に食うか」
 スーツを脱ぎ、ソファの背に掛けた叔父は、そのまま席へ着いた。知史は叔父の言葉に返事はせず、黙って向かいの席に腰を下ろす。
 やはりいつもと違う様子の知史に驚きながら、しかし表情には出さず、淡々と手を動かしていく。皿に手を当ててみればまだほんのり温度を保っており、温め直す必要はなさそうだった。
 二人は黙って食事を進める。元より食卓で会話らしい会話を交わしたことはなかったが、今日ばかりはその静寂さが落ち着かない。時折知史へと目を向ける叔父は、この家に知史がやってきたばかりの頃を思い出す。あの時も似たような空気を感じた。自分は自分で甥として接してきた知史に対して養父らしく父親の顔をするべきか迷い、知史はこれまで行事ごとでしか顔を合わせなかった相手と暮らすことになったという状況把握で手一杯で、双方が相手に対して戸惑い、お互いの出方を見計らっている。ただ違うのは、今日は知史だけが当時のように他人行儀な態度を見せていることだ。数年共に暮らし、その成果として知史に遠慮は見られなくなったというのに。
 全てを平らげると、ようやく知史は一息入れた。叔父が入れてくれた麦茶をあっという間に飲み込む。
「今日は大人しいな」
 思わずそんなふうに口を付いた。ちらっ、と視線だけ寄越してきた知史に、「いや」と慌てて訂正する。
「普段お前が騒がしいという意味でなく、素直だなと思って」
 こちらが勝手に差し出したお茶を黙って受け取り、飲む、という行為の流れを見たのはいつ振りだろうか。
 しかし知史は気にしていないと言ったふうに、視線を落とすと、拳を作って己の膝の上に置いた。こうなれば早い方がいいだろう、と知史は結論付け、切り出した。
「今日は話をしようと思って」
「話?」
 叔父は目を見開き、驚きを隠さなかった。正確には隠せなかった。叔父自身、知史と話しをしなければならないと思うことは、山のようにあった。今まで分かっていながらも避けてきたことだ。まさか知史から突きつけられるとは思わなかった。
「俺達のことだよ」
 ゆるゆると顔を上げた知史は、今度は視線を逸らさなかった。そこに彼の本気を見た。
――とうとう、その“時”が来たらしい。
 もう逃げられない、と確信した。


 一週間と数日振りに登校して来た知史は、まずは教室へ向かわず、高歩の居る準備室へと足を運んだ。
 当然のようにノックもなく扉を開けた知史に、高歩は呆れつつも苦笑を零し、ソファへ座るよう促した。その顔を見れば養父との話し合いが行なわれたことは一目瞭然だった。
「いやぁ、まさかこの年になって両親の馴れ初めを知ることになるとは思わなかったなぁ。しかも当人はもう居ないのにさ。なかなか複雑だったよ、息子としては。ああ、でも、顔を合わすことはないから、その辺は気楽なのかな」
 照れくさそうに頬を掻きながら話す知史は、それでも心なしか嬉しそうだった。きっと話し合いは上手く行ったのだろう。安堵しつつ高歩は彼の言葉を聞いていた。
「襲われなかったか?」
 高歩が冗談めかして言えば、途端にムッと眉根を寄せて嫌そうな表情を作る。
 しかし不快そうな顔もすぐに真剣な色を見せた。
「襲われなかったよ。っていうか、先生の言うとおりだった」
「何が?」
 分かっていて、高歩は尋ねた。
「……あいつ。本当に母さんのことが好きだったみたい。でも、俺を母さんみたいに見たことはないって、言ってた。俺が勝手にそう思ってただけで」
 そこで一呼吸置いた知史は、困ったように高歩を見上げる。
「けど、あいつ謝ってくれたんだ。そんなふうに思わせて悪かったって、頭下げてきてさ……」
 高歩はふっと笑みを浮かべた。知史の困惑した表情は喜ばしいことだと思う。謝られて困る、ということは、少なからず知史は養父に対して好意を示しているということだ。それだけで大きな成果と言える。高歩は嬉しく思った。
「それで、新居はどうしたんだ?」
「どうしたって、別に。ただ俺を見ながら母さんのことを呼ぶのは止せって言った」
「ふふ。そうか」
 良かったな、と高歩はガシガシと知史の頭を撫でてやる。髪が乱れようと構わず、高歩はくしゃくしゃに掻き回す。知史は首を竦め激しい賞賛の行為に耐えながらも、それを振り切ることはしなかった。やはり何だかんだと言っても、高歩に撫でられるのは好きだった。
 笑みを浮かべた知史は、高歩が手を離すと、そっと乱れた髪を正す。
「結局さ、先生の言うとおり、俺がまだ子どもだったってことなんだよな」
 知史は前髪を撫で付けながら、照れくさそうに言った。高歩は「少しは大人になれ」と言った自分の言動を思い返す。
「両親が死んだのって俺が小学生の時だろ。でも俺、あんまその時の事って覚えてないんだよなぁ。ショックなことだったから、覚えてない方が良いって、あいつは言ったけど。それじゃあダメだって思った。ちゃんと受け入れないとダメだって。……だってさ、俺があいつのこと誤解してたのも、本を正せば俺が両親の死を受け入れてなかったからじゃないか、って。そう思うんだよ。二人のことを受け入れられたら、あいつの俺を見る気持ちも少しは分かるかなって。そんな気がしたんだ」
 全部先生の言ったとおりだったよ、と知史は笑った。
 高歩は、とても綺麗な笑みを浮かべる彼を見て、曖昧に微笑む。何も掛ける言葉が思い浮かばなかった。
 本当はあの後、高歩は少しだけ後悔をしたのだ。知史がこれほど素直な性格ではなく、もう少し捻くれた人間だったなら、ああ言った時点で反発か拒否反応を起こしていたに違いなかった。「大人になれ」と言われて腹を立てたり嫌がる人間はいくらでもおり、事実、高歩自身が思春期の頃はそうだったからだ。その点、既に知史はいくらか大人だったと言える。
 だから晴々とした笑みを浮かべる知史を見て心底安堵したのと同時に、これだから生徒達の面倒を見るのを止められないのだと実感する。
 高歩はもう一度手を伸ばし、更に激しく高歩の髪をぐちゃぐちゃに撫で回し、ついに目を回した知史が制止の声を上げた。

「あ、そうだ」
 予鈴のチャイムが鳴り、知史をソファから立ち上がらせた高歩は、ふと思い出したように言った。
「新居、ちゃんと乙瀬さんにも礼を言っておくんだぞ」
 真剣な声で言われたその名に、思わず知史は怪訝な表情を見せた。
「乙瀬さんのところに家出しに行ったんだろ。女性の一人暮らしの所に上がり込むなんて、彼女に迷惑を掛けたんだ、当たり前じゃないか」
 今までにないほど強い口調で言われ、渋々頷くことにした知史だが、一つだけ問題がある。
「俺、あの人の連絡先知らないけど」
「直接言えばいいだろう。都合があれば俺が伝えてもいい」
 知史は益々険しい顔をした。
「ケー番教えてくんねーの?」
「又聞きは好きじゃない。泊まらせてもらった時に聞かなかったのか?」
「必要ないと思ったから聞いてない」
 彼の言葉に今度は高歩が表情を険しくする。それではまるで和葉が“都合の良い女”ではないか。そう思った瞬間、高歩は考えるより先に口が開いた。
「……お前、乙瀬さんを何だと思ってるんだ」
 思いのほか低い声だったことに、誰より驚いたのは高歩本人だった。が、表情に現れたのは知史の方だ。
 知史には今までの会話で、どうしてそれほどまで高歩が怒ったのか分からなかった。
「何だよ、ケー番聞かなかったくらいで。先生おかしいよ」
 イタリア人じゃあるまいし、出会った女性全ての携帯番号やメールアドレスを聞くほど、知史は女性に不自由をしたことはない。高校生という身分である以上行動は制限されるが、恵まれた容姿のおかげで今は自粛しているくらいだ。
 高歩も自分の放った言葉は行き過ぎたと反省する。
「いや、悪い。でも礼はちゃんとしておけよ」
 そこで本鈴のチャイムが鳴り響く。高歩は話は終わったとばかりに知史を廊下へ放り投げた。
「なんだよ……、先生。あんなに怒んなくたっていいのに」
 知史は不満気に、ピシャリと閉まったドアに向かって呟く。その声を聞いているのは自分だけだと分かっていても、何も応えてくれないことに腹が立った。ここへ来た時はすっきりとした、良い気分だったのに、今は最悪だ。
 それもこれも彼女のせいだ。
 今回の一件で和葉に好感を抱いた知史だったが、すぐにその思いは書き換えられた。一度僅かながらでも印象が良い方へ変わった分、今の彼女への思いは、和葉を知らなかった時よりも酷い。高歩を怒らせた。その意味はとても大きいのだ。
 知史は今まで、高歩に叱られたり説教されたことはあっても、怒られたことはなかった。感情に任せて説き伏せられたことは皆無だったのだ。それなのに――。和葉はその存在だけで、いとも簡単に高歩の感情を動かす。
 それが羨ましい。そう思うと同時に憎らしくもあった。
 知史は考える。どうすれば高歩と和葉を離すことができるだろうか?