月影

chapter 32


 企画書の整理を終えた和葉は、テーブルに置いてあったコップを持って立ち上がる。行く先は給湯室だ。個室と言うよりは一つの小さなキッチンになっている給湯室には性別や役職の関係なく、常に人が入れ替わり立ち代わりする。謂わばもう一つの休憩場でもあった。仕事がひと段落着いた和葉は一息入れようと来たのだが、やはりそこには既に先客が一人居た。
「おう、お疲れ」
「お疲れ様。シギも休憩?」
 先に気づいた大典が声を掛けると、和葉も笑みを浮かべて答えた。営業回りでほとんど社内にはいない彼と、こうして話すのは久しぶりのような気がする。ここ最近、昼食も一緒になることはなかった。
「ああ。今日は早く上がれそう。乙瀬は?」
「あたしも。でも各務さん達はもう少しかかるかも。撮影が8月に入ってからだから、そろそろ追い込みかも」
 テキパキとインスタントコーヒーを淹れながら和葉は言った。撮影と聞いて、大典は思い出したように「ああ」と相槌打った。
「エキュリアだっけ。順調らしいな」
 倫子から少しは聞いているのだろう。大典はこの件に関しては関わっていないものの、すぐに和葉の言葉を理解した。和葉はコクンと頷く。
「なぁ、そうだ。今夜久しぶりに飲まねぇ? 明日休みだし、最近時間合うことも少ないしさ」
 ミルクと砂糖を入れ、スプーンで掻き混ぜていた和葉は顔を上げ、大典の方へ向き直る。
「いいね! 久しぶりに飲みたい!」
 ニッコリと笑って賛成すれば、大典は早速待ち合わせする時間を決めた。
 和葉は酒は全般的に飲まないし、強くもないが、酒を飲む場所や雰囲気は楽しくて好きだった。今日は早めに終われるだろうから、高歩が駅に着く前に連絡を入れることは簡単だろう。

 定時より少し回った時間に片付け終えた和葉は、主任らに挨拶をした後、ロッカールームに入って携帯のメールを開く。送り先はもちろん高歩だ。同僚と飲みに行くので今日の送りは要らないと、遠慮がちながらも断りの文面を作り、何度か見直して送信した。返信はすぐにあった。
『了解しました。あまり飲み過ぎないように。彼にはアパートまでちゃんと送ってもらってくださいね』
 和葉を気遣うような返事に、思わず笑みを漏らしてしまう。教師という職業に就いていると分かっているからか、どことなく指導されているような気もしないではない。が、高歩の懸念も充分に分かっているので、照れくささも覚えた。
 それにしても、和葉は同僚と飲みに行くと書いたが、それが大典だとは言っていない。だというのに“彼”と断定してきたのが不思議だった。――と小首を傾げたところで、そういえば高歩と大典は一度会っているのだと思い出した。まだ也人が接触してくる前で、今日と同じように彼と仕事終わりに飲みへ行った帰りだ。酔った和葉を休ませようと寄った公園で偶然会ったのだった。
 それから毎日帰りを一緒にしている間、高歩との会話の中に何度か大典のことも話した。主に仕事や研修のことで、大した内容でもなかったが、まだ1年目の和葉が気軽に同僚と言えるのは同期の大典くらいなものだ。だから高歩はきっと、度々出てくる大典と、メールでの同僚を結びつけたのだろう。
 和葉が自己完結に浸っていると、新たなメールが届く。大典からの催促メールだ。
 慌てて身支度を整え、バッグを掴むと、ロッカールームを飛び出した。

 大典が誘い出した場所は駅前にある小さな居酒屋だった。彼はここへはよく来ているらしく、慣れた足取りで2階席へと上がっていく。一見して2階へ上がれる造りになっているようには見えなかったので、隠れ家的な要素に和葉は心を惹かれた。
「よく来るの?」
 個々に仕切られた席へ着くなり、和葉は遠慮は無しにと尋ねてみた。
「まぁな。主任や部長達と打ち合わせがてら食べたりする時とか。あとは彼女とも来たことあるし」
 大典が彼女と称するのは一人しか居らず、心得た和葉は「ああ」と頷いただけで特に言及することもしなかった。そこに特に含みはなく、確かに個室に似た形態を取っている造りだから、仕事やカップルで来るにも良いかも知れないと納得しただけである。
 注文はタッチパネル式になっていて、大典はさっさと生ビールを選んだ。アルコールに弱い和葉は無難にウーロン茶を選択する。
「最近はどう?」
 前置きもなく大典が口を開く。その唐突さに和葉は思わず笑った。
「どうって?」
「仕事でも何でも。あれからほとんど顔合わせてなかったし」
 大典の言う“あれから”が、也人に襲われてからのことを言っているのは間違いなかった。けれどそれを具体的にしない大典に、和葉は困ったように笑みを見せた。大典にはあの日、泊まらせてもらうため少なからず事情は説明していた。それ以来その話題が上ることはなかったが、やはり心配してくれていたのだろう。
「仕事は大丈夫。何とかやれてるよ」
「そうか」
「プライベートもね、大丈夫。筵井さん、覚えてる?」
 和葉が窺うように尋ねてきた名前を、大典はすぐに思い出せなった。口篭った様子を見せれば、和葉がヒントをくれた。
「前に公園で会った人なんだけど」
 そこでようやく、やけに正端な顔つきの、丁寧な口調だった男の姿が脳裏に浮かんできた。
「ああ、乙瀬が勘違いしてくれたおかげで俺が突き飛ばしちゃった人だな」
 あの時は参ったぜ、と恨みがましく言えば、和葉は情けない声で勘弁して、と呟いた。和葉も自分に非があることは認めているので、これ以上責められるのは本意ではない。眉根を寄せて顔を歪ませている彼女を見て、大典は笑って「悪かった」と簡単に謝っておく。からかって和葉の機嫌を損ねるのも彼の本意ではなかった。
「その人がどうかした?」
 大典が話の先を促せば、表情を元に戻した和葉は一つ頷いた。
「うん、筵井さんがね、あれから毎日一緒に帰ってくれてる」
「毎日!?」
 思わず大典は声を上げた。職種も職場も違う二人が毎日――少なくとも一ヶ月程度は――一緒に帰路を共にするという事実に驚きを隠せない。いくら和葉が可哀想だと思っても、よほどのお人好しか下心でもなければ、そんなにも面倒を見てくれるものだろうか。嬉しそうに話す和葉を見れば、彼女は高歩に全幅の信頼を寄せているようだが、大典は要らぬ疑問を抱えてしまう。
「勿論、お互い仕事をしているわけだから、時間がずれることもあるけど。大抵の場合はあたしが遅れるんだけどね、時間潰して合わせてくれるの」
 和葉の言い方では、相手は規則的な仕事をしているようで、残業もほぼないように思えた。だからほぼ毎日時間を合わせることも可能だということなのかもしれない。それでも大変な事に変わりはないはずだ。
「その人……筵井さんは何してる人なんだ?」
「高校の先生だよ。世界史担当だって。新居くんに教えてもらった」
 大典はなるほどと頷いた。教師と言えば立派な公務員だ。残業もないわけではないだろうが、一般企業に比べれば業務時間は規則的だろう。
 そして新居という名前は聞いたことがあった。倫子が熱心にモデルにならないかと誘っていた、あの時の少年だ。結局彼は倫子の誘いを断り、しかし彼女のアイデアは受けたらしく、プロのモデルではあるがエキュリアの宣伝には男性を使うことで決まった。
 そうか、あの子は公園で出会った男の生徒か、と人間関係が明らかになったところで、ではどうして彼の生徒があの場に居たのかと疑問が浮かぶ。しかしタイミング良く、先に頼んでいたビールとウーロン茶がやって来たため、結局その疑問が和葉へ向けられることはなかった。食べ物はその後すぐに運んでくると店員は言い、下がっていく。
「とりあえず、先に乾杯だな。仕事お疲れ〜」
 二人だけだが、大典はそう言ってグラスを上げる。和葉もそれに倣ってコップをカツンと合わせ、音を鳴らした。
「お疲れ〜」
 和葉は一口だけ含んだだけでコップを置く。大典は気持ちよく喉を鳴らして一気に半分ほどまで飲んだ。未だビールを初め、酒類の美味さが分からない和葉は、いつ見ても美味しそうに飲む彼を見て、少しだけ羨ましく思う。
「まぁでも、その筵井さんが一緒だったら安心だろう」
 グラスを置いて一息つくと、大典は言った。同じ男からしてみれば、その教師も充分送り狼になり得るが、そう言ってしまっては和葉に余計な不安を抱かせるだけだろう。それに彼女の様子を見れば、その心配も必要ないだろうと思えた。大典の考えを肯定するように、和葉は躊躇うことなく首を縦に振る。
「すごく気を遣ってくれてるのが分かるし。実は引越しをしたらどうだって提案もしてくれたんだ」
 いずれ決まれば総務にも言わなければならないし、隠すこともないだろう、と和葉は判断した。予想通り驚かれたが、大典もその提案には賛成のようだ。
「それがいいかもな。いつまでも筵井さんと一緒に帰るわけにもいかないし。もう決まってるのか?」
 何気ない口調で聞いてきた大典に、和葉は一瞬落ち込んだように項垂れ、首を横に振った。
「ううん、まだ。なかなか、ココだ! ってところが見つからなくて。お金もないしさ」
 社会人1年目の給料など、部署は違えど多寡が知れている。金銭部分がネックになることは痛いほど理解できる。
「でも理由が理由だからなぁ。早い方が良いんじゃないか」
「それはそうなんだけどね……。お盆までには決めようとは思ってる」
 広告業界ではお盆と言ってもカレンダー上のことで、実質はほとんど関係ない状態だ。その中で引越しというのはなかなかに大変な事ではあるが、和葉は一つの区切りとして送ってもらうのもその時期まではと考えていた。長引いてもあと1ヶ月もない。それを高歩にはまだ言っていないが、言っていない内は甘えていても許されるような気がして、言えないでいるのだ。
「お盆で思い出した。盆休み、寺崎がこっちに帰ってくるって言ってたぜ」
 寺崎は和葉と大典の同期で、もともと地元はこちらだったが、本人の希望で関西支社へ配属された男だ。同じ営業部として、連絡は比較的取り合っているらしい。
「そうなんだ。お盆に?」
「ああ。関西の方は割りとしっかり休み貰えてるみたいでさ、不公平だよなぁ」
 大典の顔にははっきりと「羨ましい」と書いてある。和葉は同意しつつ頷いた。
「そっか。戻ってきたら皆で食べに行きたいね」
 大典とは違い、和葉は4月の新人研修以来だ。期待しながら言ってみれば、大典は分かっていたように笑った。
「言っとくよ。決まったらまた知らせる」
「うん」
 同期との再会できる思わぬ機会に、和葉は嬉しそうに笑みを浮かべる。お盆辺りはいくつかの撮影が重なることもあり、企画部としては忙しさ極まりないだろうが、まだそれを経験していない和葉は早くも来月が待ち遠しく、未定であるその日を楽しみにした。

 以前酔っ払った和葉が痴漢と間違え、大典が高歩を突き飛ばす引き金になったという過去があったにも関わらず、店を出る頃には和葉はしっかりと酔いを回していた。
「おい〜、歩けるかぁ?」
 自分が飲ませたという自覚はあるので、大典は足元がふらつく彼女を放っておくわけにもいかず、腕を自分の肩に回し無理矢理に立たせる。
「だぁいじょーぶ!」
 瞬時にその言葉の信憑性は皆無だと悟った。大典は諦め、今にも転がりそうな和葉の腰をしっかり抱く。
 幸いラッシュ時は過ぎたようで、駅は閑散としていた。覚束ない足取りの和葉を何とか電車の座席に座らせる。各駅停車であるから、ここまで来れば暫くは休める、と大典はほっと息を吐く。力の抜けた人間は、小柄な女性といえども重いものだ。それ程飲んだわけでもなかったが、明らかに和葉よりはアルコールを摂取していた大典は、少なからず汗を掻いた為かすっかり酒が抜けたようにすっきりとしていた。
 それにしても、と隣で目を閉じている和葉を見る。
 今日飲みに誘ったのは、偶然時間が合ったというのもあるが、やはり彼女の近況が知りたかったからだ。詳細までは聞いていないが、突然夜に呼び出された日のことはずっと気になっていた。倫子の話では、その夜はなかなか寝付けなかったようだから、受けたショックの強さは見た目ほど弱いものではなかったのだろう。だが、和葉が人前で簡単に弱音を吐く性格ではないことは充分承知しているし、不快な記憶を蘇らせることを考えればその話題を振ることも躊躇われ、聞くに聞けなかったのも事実だ。
 だからこうして和葉の笑顔を見れたことは大典にとってひどく安心させた。和葉を支えたのが自分ではないことに少し不満もあるが、傍にいたのが高歩で良かった。和葉の話を聞く限り、彼はとても誠実で親切な人間のようだ。最初に抱いた大典が危惧するような邪な態度は一切ないようだ、というのも彼女の態度から容易に知ることが出来た。
 それでも少しくらいは、相談してくれても良かっただろうに。そう思うのはエゴだろうか。
 大典は和葉の食ってしまっている髪をそっと払ってやりながら、苦笑を浮かべた。
 目的の駅に着くと、大典は和葉を揺り起こす。意識がはっきりと上らないうちに電車から引っ張り出し、無理矢理歩かせて改札を出る。
「いい加減にしっかり歩け!」
 和葉の腰を抱きながら立たせるのも限界がある。大典が声を上げてようやく、和葉は目を覚ましたようだ。
「ん〜」
 それでも足元が心許ないのは仕方がないのだろう。時折離れて道路に飛び出しそうになる和葉の腕を引っ張りながら、なんとか彼女のアパートの前までやって来た。
 そこに出迎える人間はいないはずだったのだが、動いた人影に大典は足を止めた。