月影

chapter 33


 立ち止まったまま動こうとしない大典に、不思議に感じた和葉はゆるゆると重たい頭を上げる。目の前に立っていた人物を認めると、和葉は半分閉じていた目を大きく開けて小首を傾げた。
「筵井さん……?」
 彼女のアパートの前にいたのは見間違うわけもなく、スーツからラフな格好に着替えた高歩だった。彼は決まり悪そうな様子で苦笑を浮かべる。
「どうしたんですか?」
 驚いた和葉がそう尋ねるのは無理もない、と高歩自身も思う。自分で己の行動に呆れ、苦笑するくらいなのだ。
「いえ、ちょっと」
 本当のことをそのまま言うのも憚られ、高歩は曖昧に言葉を濁すと、和葉の体を支えるようにして歩いてきた大典へと視線を移した。彼のことは覚えていた。誤解からとはいえ初対面で突然殴ってきた相手だ。忘れようにも忘れられない。そして今日和葉からのメールに書いてあった同僚が大典であったことに安堵する。彼だと予想はしていたがあくまでも想像に過ぎず、何となく不安を覚えずにはいられなかった。
 再び視線を和葉に戻す。彼女のぼんやりとしている顔を改めて見ると、違う意味での苦笑を浮かべた。
「だいぶ飲まれたみたいですね」
 よくよく観察してみれば、ふらつく和葉の体を大典の腕が支えていると気づく。普段の彼女からは想像しにくいが、大典との出会いを思い出せば、和葉は弱い割りに酒を飲むことが好きなようだ。それとも雰囲気に呑まれて歯止めが利かなくなるのかもしれない。
「本当は少し話したいことがあったんですけど……。また改めます」
「あ、俺のことは気にしないでください。すぐに帰りますから」
 高歩が遠慮を見せると、慌てたように大典は言った。この時間まで待っていたということは、ただ心配で、というわけでもないのだろうと判断したからだ。話の内容は大典には分からないが、とりあえずこの場は和葉を高歩に任せた方がいいと思った。
 大典は腕を引っ張り、和葉を前へ歩かせようとした。唐突に体を動かされた和葉の足元はそれについていくことが出来ず、ふらつき、絡まったところで大典の胸に倒れこんだ。
「おい、大丈夫か?」
 何とか和葉を受け止めることに成功した大典が声を掛ける。和葉は大典の胸に手をあて、体を離すと、ようやく自分の力で立つ。
「うん、なんとか。ごめん」
 それでも大典の手が和葉の腕を掴んだまま、離されていなかった。
 不思議に思った和葉が見上げると、大典の視線は和葉に向かわず、その先の方へと注がれていた。
 この際だ、と大典は真っ直ぐに高歩を見やる。
「あの、筵井さん、一ついいですか」
 少し声の調子を落として放たれた言葉に、高歩は浮かべていた苦笑を止めた。
「乙瀬から大体のことを聞きました。乙瀬のことを心配してくれて、毎日送ってくださってるみたいですね」
 大典は一息吐くと、黙ったまま見つめ返してくる高歩へ、よりいっそうの強い視線を送る。獲物を狙い定める狩人のように鋭い視線だった。それを受けても物怖じしない高歩はじっと次の言葉を待つ。直接その視線を当てられていない和葉の方が異様な空気にオロオロとうろたえた。
「俺から言うのも変ですが、ありがとうございます。すごく気を遣ってくれているみたいで、友人として感謝しています。でも――」
 高歩には、大典の言いたいことが分かり、緩みそうになる口元を引き締めた。
「でも、どうしてそこまでしてくれるんですか?」
「どうして……か。難しい質問ですね。乙瀬さんが心配だから、というのでは理由になりませんか」
 何でもないことのように言う高歩の口調は淡々としていて、けれどその表情は困ったような笑みを浮かべる。大典は高歩がどういう人間であるかを知らない。だからその様子を見て、どう解釈すればいいのか、その時には分からずにいた。ただ、表情の通り困っただけのようには思えなかった。社会人として高歩は、1年目の大典と比べれば経験はそれよりもずっとあるのだろうが、年齢で考えればそう変わらなさそうだ。だというのに、彼はひどく大人びて見えた。
「心配するといっても、家が近いだけというだけで毎日送るなんて、言葉にするほど簡単に、普通にできるようなもんじゃないと思います。それぞれの予定だってあるでしょう、今日乙瀬が俺と飲みに出るとか。でもそれを言い出したのがあなたである限り、あなたは何よりも優先して乙瀬を送るということを選んだんですよね。心配だからという理由だけでは釣り合いが取れていないように思うんですが」
 最後まで聞き終えた高歩は、ふむ、と顎に手を当てて考える仕草をする。
 けれどすぐに持ち上げられた手は下ろされ、斜め上を向いていた視線は大典の方に戻された。
「納得してもらえないかも知れなませんが、僕は本当に乙瀬さんが心配なだけです。実際に襲われた現場を見たわけではないですが、怯えきった彼女を見ていて本当に辛かったんです。だから自分に出来ることをしたいと思いました。人を心配することに、釣り合いなんてものを考えたことはありません。というか、人間なんてそんなもんじゃないですか。あなたは代償を求めて友人や恋人を心配したり、親切にしたりするんですか? 違いますよね」
 最後ににっこりと微笑まれ、大典は言葉に詰まった。やはり大人だ、と痛感せざるを得ない。元より高歩は教師だと聞いている。人を説得させる方法も身に付いているのだろう。言い始めたのは大典であるはずなのに、道徳的なことを言われれば返す言葉を見つけることも出来なかった。
 しかし大典とて大人である。引き際は知っている。
「そうですね。ちょっと疑問に思ったものですから。失礼かとも思いましたが聞いてみたかったんです」
 鋭くなっていた視線を意図的に和らげた大典は、見せ付けるように和葉の髪をくしゃっと掻き撫でた。乱れる髪に頬を膨らませる彼女を見て大典は笑い、再び高歩へと向き直る。
 大典の顔がこちらへ向くと、高歩も柔らかな笑みを作った。
「いいえ。あなたのような方が乙瀬さんの傍にいて良かったです。では、僕はこれで」
 高歩は言うと、軽く頭を下げて和葉と大典の横を通り過ぎて行く。大典が友人思いの男であることは、出会ったときから分かっていた。和葉が悲鳴を上げ、自分を殴ってきたのが何よりの証拠だろう。あの時はそこまで思い至ることが出来なかったが、今となってはあの時の痛みも悪いことばかりではなかったと思えた。
「あ、あの筵井さん! 話って……」
 辛うじて呼び止めることに成功した和葉はホッと安堵したのも束の間、振り返った高歩にそれ以上続けることが出来なかった。酔いのせいか思考回路が上手く回らない。そういえば高歩は、話はまた改めるといっていたのに、今それを聞いて自分はどうするのだろう。
「また月曜日に。お休みなさい」
 高歩にそう微笑まれては、和葉は頷くしかない。おやすみなさい、と小さな声で返事をした。
 それでも彼の背中を見ながら、和葉は高歩の姿が見えなくなるまで、ぼんやりと突っ立っていた。
「話って何だったんだろう」
 角を曲がって高歩の背中が見えなくなると、誰ともなしに和葉は呟いた。小さかったが横にいた大典の耳にはしっかりと聞こえた。
「さあな」
「悪いことしちゃったかな。せっかく待っててくれてたのに」
 残念そうに独り言を零す和葉の後頭部を見つめながら、大典は溜め息を吐く。言った和葉自身の方が落ち込んでいるように見えた。
「でも筵井さんだって乙瀬の帰りが遅くなることは知ってたんだから、待たせたことを気にする必要はないんじゃないか。それに改めるってことは、それほど急な用事でもないんだろうし」
 そう言って歩き始める大典に、和葉は慌てて着いて行く。確かに大典の言うとおりだ、と納得することにした。必要ならば月曜日にでも話してくれるだろうと結論付ける。ぐるぐると考えるのは得意ではなかった。

 そしてそれは正しく、高歩は月曜日、駅からアパートまでの道の途中で話を切り出した。
「実は良い物件が見つかったんです。僕が見つけたわけではなくて、友人の紹介なんですけど」
 そう言って高歩は鞄から一枚のFAXを取り出した。高校時代の友人に頼んで送ってもらったものだ。高歩の知り合いにはなぜか手に職を持った者が多いのだが、その友人は大学で専攻した分野とは全く関係のない不動産会社へ就職したサラリーマンである。
 和葉は渡された紙を覗き込めば、なるほど高歩が勧めてくるのも納得なほどの好条件が並べられていた。ただ闇雲に不動産屋を回ったりフリーペーパーを集めるよりも、相談した方が確実で早いということなのだろう。そんなふうに動いてくれた高歩に、和葉は、ただただ感謝するばかりだった。
「ありがとうございます! 8畳の1Kでオートロック、ベランダ付き、セパレートで駅まで徒歩5分、駐車場完備、月5万……。すごいですね! しかも最寄駅ってこの辺で一番大きなところですよ」
 和葉の様子で彼女が気に入ってくれたことが分かる。高歩は自然と笑みが零れた。
「ええ。築年数はあまり新しくなく、そこは目をつぶって欲しいと言われました。でもそれだけ揃っていれば充分かと思いまして」
 高歩の補足説明に和葉はコクコクと頭を縦に振る。
「充分です! 写真ありますけど、見る限りそんなに古臭いって感じでもなさそうだし」
「一度見に行ってみますか?」
 そう尋ねられ、和葉はふと顔を上げた。高歩の笑みを見て、先日アパートの前で待っていた高歩を思い出した。
「実はそれ、人気の高い物件みたいなんです。もし見学するなら遅くても今週中には返事が欲しいって言われてるんですよね」
 確かに最寄駅が各線と連絡している大きな駅で、そこから5分圏内の上、安い物件ともなれば、人気が高いのも頷ける。和葉は考える間もなく首を縦に振っていた。
「ここが良いです!」
 既に決めてしまったかのような物言いに高歩は思わず笑う。
「決めるのは、せめて見た後にしましょう」
「あ……そうですよね。気が早かったですね。へへっ」
 恥ずかしそうに耳を赤くする和葉が可愛らしく思え、高歩も一緒に声を出して笑った。
 以前和葉に、自分は高歩にとってどんな存在かと尋ねられ、彼女を妹のようだと答えたが、今になって果たしてそうだろうかと思う。少なくとも実の妹は和葉ほど可愛い性格ではなかった。確かに大切で、愛しい妹には違いなかったが、その可愛らしさは和葉の持つそれとは明らかに種類が異なるものだ。
「それで、見に行くならいつが良いですか? 水曜は定休日らしいので、水曜日以外ならいつでもいいと言ってましたよ。遅い時間になるなら僕も着いていきますが」
「あっ、いえ、それは大丈夫です!」
 そこまで高歩に迷惑は掛けられないと思い、和葉は慌てて首を横に振った。
「え、と……じゃあ、日曜日のお昼頃でお願いしてもいいですか」
 遠慮がちに高歩の顔を窺う和葉に、高歩は笑顔で快諾した。友人の勤める不動産会社の場所と友人の名前を伝えると、和葉は一生懸命覚えるように真剣な表情を浮かべた。本当は高歩自身が着いて行っても構わなかったのだが、さすがにそこまですると、ますます彼女の同僚である先日の彼に怪しまれそうだと思い直したのだ。どうも昔から、自分の親切は度が過ぎるらしい。高歩は知らず自嘲の笑みを零してしまった。