月影

chapter 34


「また来たのか」
 仕事場として借りているアパートの前に佇む知史に気づき、杉浦は苦笑を浮かべた。知史は常に気まぐれで、来る日が続いたかと思えばぱったりと来なくなる。それでも杉浦には何となく、彼がここに来るのは何か理由があるんだろうと思えた。それは知史の視線や仕草や態度から窺えるほんの僅かな推測でしかないが、それでもその姿を見ると、知らず苦笑が浮かんでくるのだ。
 知史は杉浦の言葉に答えることはなく、じっとドアの鍵を開ける彼の手を眺めていた。
 カチリと鍵の開く音がする。キーを鍵穴から引き抜いてノブに手を掛け、手前に引くとドアが開く。知史は杉浦の後に続いて部屋に入った。
 玄関から入ってすぐ左は風呂場になっており、杉浦は暗室として使用している。知史は決してそこに入ることはなく、この部屋にやってきてはただひたすらに無造作に並べられた写真を眺めたり、カメラを手にして遊ぶ。今日はどうやら前者のようだ。勝手に棚に積まれたファイルを引っ張り出して開いていた。杉浦は特に見られて困るようなものは置いていないので、知史の好きなようにさせ、自分はさっさと風呂場へと足を踏み入れた。
 知史が最初に取り出したアルバムには主に風景を写したものばかりが入ってあった。それはどこかの国の外壁だったり街並みだったり橋だったりする。そこには特にメモはなく、写真が並べてあるだけなので知史にはどこの国かは分からなかったが、ヨーロッパのどこかだろうと想像した。時々現地の人が写り込んだりしているものの、基本的には風景写真のようだ。旅行記のようにページが進むうちに街並みの雰囲気が変わって行き、面白かった。前半はヨーロッパの歴史的建造物の街並みが続き、近代的な建物が中盤の方になって現れると、すぐに東南アジアらしい独特の乾いた雰囲気がする風景へとなった。
 小さな世界旅行を疑似体験し終えた知史は満足気な吐息をつき、アルバムを棚へ戻した。そしてまた、古そうなアルバムに手を伸ばす。今度は打って変わって杉浦のプライベート写真らしかった。1ページ目には〔京都合宿にて〕とのメモが貼ってあった。日付を見れば10年程前だ。おそらく彼の大学時代の写真だろう。知史は先ほどとは種類の違う興味を持ち、ページを進めていく。他人のプライベートな過去をこうして覗くことはどうして罪悪感を背負いながらも止められないのだろうか。杉浦は特に何も言ってこなかったので、知史はそれを良いことにパラパラと捲っていく。
 最初は今よりも随分と若い杉浦と、その友人達だろう人物の他愛のない写真が続き、思い出したように京都の古めかしい街並みや並木通りや河川敷の風景写真が入る。杉浦は撮る側の方が多いのかその姿はほとんどなかったが、たまに写りこんでいる時に一緒にいるのは決まった人物だということに気づいた。一人は短髪の男で、杉浦と並んでも引けを取らないくらいには長身のようだった。もう一人は小柄な女で、化粧っ気のあまりしない素朴な顔をしていた。よほど仲の良い3人だったのか、いつも彼らは笑顔だった。
 京都合宿の写真は数ページで終わりを告げ、それ程日を空けずして〔花火大会にて〕へのメモが貼られていた。それからイベントごとのタイトルが続いていき、最後は〔映研・撮影の裏側〕と題したメモだった。タイトルから察するに、映画研究会が自主映画の撮影をしている、その光景を写真撮影したものなのだろう。生き生きと映画撮影に取り組む学生達の姿が印象的だった。カメラに向かう学生や演技をしている学生、中には食事風景もあり、どういう状況だったのかがよく分かる。そして最後の一枚は、杉浦の友人の女性のドレス姿だった。京都合宿の時に写っていた素朴な顔とは全く違っており、しっかり化粧もした彼女は、知史から見ても美人だ。
「それ、かなり古いヤツだろう。面白いか?」
 いつの間にか部屋に戻ってきていた杉浦が声を掛けてきた。知史はその声に驚いたが、すぐに平常心を取り戻し、一つ頷いた。
「前から思ってたけどさ、ここにあるのって人より風景を撮ったもののが多いよな」
「まぁ、そうだな。仕事だと人を撮ることが多いから、その反動かもしれない。仕事で撮ったやつはこっちの棚にある。見るか?」
 そう言って知史が立っている反対側の壁に並べてある棚を指差した。なるほど、知史が見ていたものは全てプライベートで撮ったものということだ。
 納得した知史は、けれど首を振って仕事の写真は見ないと言った。今興味あるのは手にしているアルバムだからだ。
「カメラ始めたのっていつから?」
 知史の何気ない口調で問われたその言葉に、杉浦は驚いた。知史が杉浦自身に興味を示したのはこれが初めてだった。何がそうさせたのだろうか、と杉浦は逆に知史が手にしている自分のアルバムの中を確かめたくなった。タイトルも書いていない背表紙からは何も情報が得られず、杉浦自身、自分で整理したアルバムをしっかりと覚えているわけでもなかった。
「興味があったのは小さい頃からずっとさ。父親がよく写真を撮る人で、ことあるごとに撮ってたなぁ。誕生日、運動会、クリスマス会……。本格的にカメラを持ったのは大学からだ。高校時代にバイトした金で結構上等なものを買ってさ、自慢だった」
「……へぇ」
 知史は嘆息し、手元のアルバムへと視線を戻した。ということは、この写真の頃から本格的に撮り始めたということだ。今の知史に置き換えれば、既に今の段階で杉浦はやりたいことを見つけ、そのために動いていた。
「でも、まぁ、本格的にと言ってもやっぱり趣味の域は出なかったけど」
 肩を竦めて見せた杉浦だったが、知史には何も届かなかったに違いない。杉浦は諦めて彼に近寄った。
 アルバムを覗いてみると学生時代のものだとすぐに分かる。ただ楽しいだけで撮った写真だ。懐かしいな、とつい呟く。
「この人と仲良かったんだ?」
 正面に立った杉浦に気づいた知史は、アルバムを覗き込む杉浦を窺うように上目遣いに見上げた。今開いているのはアルバムの最後のページ――衣装を着た女性の写真があるページだ。
「うん? ああ、そうだな」
 そう言って杉浦はページを戻し、何人かが弁当を頬張っている写真を指差し、京都合宿でも写っていた短髪の男を指差した。
「こいつと合わせてよく3人で行動してたよ。さっきの写真のが風戸(かざと)っていうんだけど、風戸が写真部に誘ってきたんだ。女だけど全然女って思ってなかったな、当時は」
「こんなに美人なのに?」
 思わずといったふうに知史が言うと、おかしそうに杉浦は笑った。
「化粧したら、な。これ撮った時、すげぇびっくりしたよ。大学生にもなって碌に化粧しないやつだったから忘れてたんだ。考え方も妙に俺たちと同調するし」
「でも、忘れるってひどくね?」
「いやいや、マジで。風戸も女友達といるより俺らといた方が気楽みたいでさ、合宿に行っても平気で同じ部屋に泊まるようなやつだったよ。さすがにその時はこいつは女だって思い出して、別の部屋を取ったけど」
 当時を思い出したのか、杉浦はフッと笑い声を堪えるように息を漏らした。見た目は大人しそうな容姿だが、意外に豪快な人だったんだな、と知史はまじまじと写真を見つめた。だが写真の彼女からは想像できなかった。
「今でも仲良いの?」
「いや……、男の方――忍足(おしたり)とはたまに連絡取るけど」
 妙に口篭る杉浦に知史は怪訝に顔を上げたが、得てして男女間の友情などそんなものなのだろうと思った。どれだけ男同士のように気を遣わない関係だったからといって、所詮は男と女だ。時が過ぎるように彼らにも何らかの変化があったのだろうというのは簡単に想像ができた。それこそ彼女が男2人と同室で寝泊りする場面を想像するよりも容易いことだった。
「知史もいるだろ、友達くらいは」
 どことなく俯く彼の顔が切なそうな表情に見え、杉浦はそんなことを口にしていた。
「俺はそう思ってたけど。なんか怒らせたっぽいし、向こうはもうそんなふうに思ってないかも」
 淡々と話す知史だが、杉浦はその裏の感情が少しだけ見えた。だからここに来たのかもしれない、などと要らぬ推測もしたりする。嫌な大人になったな、と胸の内で自嘲しつつ、杉浦は知史を見た。
「『なんか』ってのは何だ? 原因も分からず相手は怒ったのか」
 コクンと頷く知史を見て杉浦は眉根を寄せる。
「ダチってのはゲーセン行ったり買い物付き合ったりカラオケ行ったり、他愛無い冗談言ったりするヤツだろ。たまに真面目に話すこともあるけど、基本的には“一緒に居て楽しい奴ら”のことだろ。……俺はそう思ってたんだ」
――どうしてこんな話をしているのだろう?
 そう思いながらも知史は己の口を止めることができなかった。放たれた言葉は返ってこない。ずっと疑問に思っていたのだ。杉浦が与えてくれた機会に心の中に溜まっていたものを吐き出そうとしているようだ。
「『俺は思ってた』ってことは、向こうはそう思ってなかったってことだな?」
 確認するように杉浦が問えば、知史は「うん」と頷いた。
「もう少し詳しくその時の事を聞かせてくれないか」
 杉浦の要望に知史は僅かに躊躇したが、このままモヤモヤとしたものを抱えているのも嫌なので、素直に話すことにした。と言っても数日前のことでもあり、頭にきていたのも手伝ってか知史自身も詳しいことはうろ覚えだった。それでも思い出せる限りの詳細を話して聞かせると、杉浦は何とも言えない複雑そうな顔を作ったのだった。


 翌日、杉浦から答えを貰った知史は早速学校へ向かうことにした。朝の学校は昼間よりずっと静かだ。登校している生徒も教師も疎らで、当然水藤達の姿もない。本来の目的は彼らに会って“話す”ことだったが、明らかに早めに来たのは高歩に会うためだ。
 高歩に会うことに意味はない。目的もない。ただ他愛無いことを話せればそれだけで良い。それから少しだけ水藤達のことを話して、杉浦の答えが正しいのか聞ければラッキーだ。
 準備室の鍵は開いていた。知史は取っ手に手を掛けると遠慮もなくガラッと開ける。
 中は無人だった。
「居ないのかよ」
 胸の内で舌打ちし、しかし知史は躊躇もせずに中へ入る。一度高歩もここへ来たのか、彼の鞄や手帳が机の上に乗せてあった。暫くすれば職員室からでも戻ってくるだろう。部屋にある小さなソファに腰を下ろした。
 しかし何もしないでいる1分はひどく長く、知史はおもむろに立ち上がった。
 立ち上がったところで何もないのだが、突っ立っていてもしょうがないのでぐるりと部屋を回る。そこで何気なく、机に置かれていた手帳に目が行った。閉じてあるページから1枚、紙の端が覗いていた。普段なら気にも留めないようなものでも、暇を持て余した知史には興味を抱くには充分で、悪いと思いつつもそれをそっと引き抜く。紙の感触から写真だということにはすぐ分かった。
「!」
 表を返して驚いた。声も出ないほどに驚いたのは、そこに写っていた人物のせいだ。
 古いものだと分かるほどに若干色褪せた写真に写っていたのは、高歩と、昨日見たばかりの風戸という名の女性だった。
 なぜ二人で写っている写真を高歩が持っているのか。言い知れぬ何かが知史の脳裏を過ぎり、鼓動が激しくなる。写真を持つ手が震えた。
 慌てて写真を手帳に戻すと、ふらふらとソファに体を沈める。何だか嫌な予感がした。
 こういう時の予感はよく当たる。……誰かが言っていたセリフだ。天井に向けて息を吐く。
 そして、その時に思い浮かんだ顔は和葉だった。
「あれ、もう来てたのか?」
 不意にドアが開いて高歩が姿を見せる。ソファで寛いだ格好をしていた知史は、高歩が急に現れたことに驚いたものの、特に反応を見せずに迎えた。
「おはよ。先生どこ行ってたんだよ」
「グランドと職員室だ。それよりもうすぐチャイムが鳴るぞ」
 それは暗に教室へ行けと言ってるのだと理解している知史は少し不機嫌な表情を浮かべた。何も来て早々に追い返さなくてもいいじゃないかと拗ねてみせる。しかし真面目な高歩に何を言っても無駄な事も分かっているので、表情に出すだけにしたのだ。
「はいはい。また放課後に来る」
 そう言って立ち上がる知史に高歩は「そうか」と頷いた。聞き訳が良い返事は、これまでの彼の行動から考えればむず痒い感情を覚えた。しかし教師としては当然として受け止めるべきなのだろう。
「分かった」
「昼休みは水藤達と話してくる」
「そうか」
 知史の前触れもない報告に、高歩はそれもまたごく自然に受け入れる返事をした。本当は分かっていないのに、それでも受け止める言葉をくれたことに知史は安堵する。高歩はいつだって欲しい言葉をくれた。
「喧嘩でもしてたのか?」
「そんなんじゃないよ」
 子どもを宥めるように頭を撫でる高歩の手を感じながら、喧嘩だったら手っ取り早かったのかもしれないな、と思った。