月影

chapter 35


 昼休みになり、知史は早速水藤の元へ近づいた。先週にファーストフード店で別れてから碌に目も合わさなかった知史が、自らこちらに来るとは思わなかった水藤は驚き、呆然と彼を見上げる。
「……なに?」
 睨み付けられるように見下ろされた水藤は引きつり気味に笑みを浮かべる。こんな時でも笑みを作ってしまうのは八方美人な自分の性格からだと水藤は自覚している。それでも気まずい雰囲気を払拭できるわけもなく、知史は目を細めたまま元の低い声で告げた。
「ちょっと体育館裏まで来てくんね?」
「え……」
 今度は明らかに水藤の顔が強張る。この間のこともある。“体育館裏”というワードは、彼らが生まれる前から何かしらに使われてきたものだ。知史の持つ空気や水藤に向ける視線で、徒事ではないことは明らかだ。瞬時に最悪の事態が頭を過ぎった。まさか現実にはならないだろうが。思わず少し離れた二人の姿へ目を向ける。
「あいつらも、だよな」
「ああ」
 当然だとばかりに答える知史にホッと安堵し、分かったと頷いた。
 水藤の席から離れ、先に教室を出た知史も、内心はほっと息を吐いた。久しぶりに緊張した。思わず喧嘩腰になってしまったけれど、水藤なら無理矢理にでも3人で来てくれるだろう。階段を下りながら、これで良かったんだ、と自分に言い聞かせる。
 踵を踏み潰した上靴はパコパコと音を鳴らしている。そんな己の足元を見つめつつ、昨日杉浦から言われた言葉を思い返した。

「俺は別に、知史の抱えてることに突っ込む気はサラサラ無いさ。冷たい言い方すれば、お前が家出して野宿してようと、知らなきゃ何とも思わないだろう。さすがに野垂れ死にされちゃ、多少は気に病むだろうけど」
 知史が水藤達とのやり取りを掻い摘んで説明した直後、苦笑を浮かべた杉浦は淡々とした口調でそう言った。
「多少かよ」
 コーヒーでも淹れるか、とキッチンへ立つ背中に不貞腐れた声を上げれば、杉浦の肩が僅かに揺れた。小さく笑われたのだろう。
「少なからず、でもいいぞ」
 杉浦の声が明らかに笑いを堪えている。知史は不愉快そうに眉根を寄せるが、当の本人は背中を向けてそれに気づかない。
「けどさ――」
 漸く笑い声を止めた杉浦は、言いながら、カップにコーヒーを注ぎ終えてリビングに戻ってくる。手に持っているのはカップ一つだ。杉浦はそういう点で知史に気を遣ってくることは一度も無かった。知史は最初こそ戸惑ったものの、自分から持て成してもらいに来た客の扱いをしろとは言い難く、努めて何も思っていないように無表情を貫いた。
「俺の立場とお前のダチとは違うだろう?」
 杉浦はテーブルにカップを置いて腰をかける。訳が分からない、という顔の知史に再びクスリと笑みを浮かべた。
「俺はさっきも言ったとおり、知史がどこで何しようと検索するつもりもなし、気にすることもない。けどお前のダチはそういうわけにもいかないだろうよ。敢えて検索してくることはないだろうが、お前が影でコソコソと動いてりゃ気になるし、心配するし、頼まれてもない世話も焼きたくなるだろう」
 知史が尚も顔を顰めるので、杉浦は少し考えるようにコーヒーを一口飲み込んだ。
「そういうもんだろ、トモダチってのは」
 そう言って顔を上げた杉浦は、真面目な顔をして知史を見上げた。
「思いやってくれる人間がいるのは幸せなんだ。もう少しそいつらに関わってやれば? そういう奴らってのは大切にしなきゃならない」
「……関わるって、何」
「それくらい自分で考えろ」
 冷たく突き放され、ぐ、と喉を詰まらせる。ここまで言ったのだから最後まで言ってくれても良いのに、とも思うが、ここで食い下がっても杉浦は絶対に答えてくれないだろう。知史は考え込むように視線を落とし、今までの杉浦の言葉を頭の中で反復した。全ては綺麗事のようにも聞こえる。
「一緒に居て楽しい、遊んで楽しい、それだけじゃダメってことか?」
 杉浦の言いたいことは知史にも最初から分かっていた。友達になら相談事の一つでもしろってことだろう。けれど知史は、水藤達にそんなことを望んではいなかった。彼らの小さな悩みは話のタネにはなっていたが、それ以上掘り下げることがなかったし、誰も知史の悩みに興味などなさそうだった。第一に、知史には高歩という存在が居て、それで充分だった。家族のことも学校のことも全て高歩に話して、どうして水藤達にも話さなければならないのか?
 知史は本気で言っているのだろう。それが分かった杉浦は、いや、と小さく首を振った。
「別にそれでもいいさ。お前が本当にそう思ってるんだったとしたら、お前とそいつらとの溝の原因はそれだな。お前らは温度差が違いすぎたんだ」
 温度差。確かにその通りかもしれない、と知史は納得した。知史が彼らに求めていなかったものを、彼らは知史に求めていた。それはあのファーストフード店で感じたすれ違いの原因だったのだろう。
 けれど、だからと言ってすぐに素直に打ち明けられるものでもない。今更言ったところで、彼らにはどうしようもないのだ。知史は腑に落ちない、と表情で杉浦に訴える。
 杉浦は静かにコーヒーを口に含んだ。ちらりと視線を知史へ向けるが、それ以上の答えはくれなかった。

 水藤達を呼び出した体育館裏は、学校を囲む壁との間が十メートルもなく、間に埋め込まれた桜の木からは数メートルも離れず体育館と接近している。そんな狭い空間だから人が訪れることは無いが、だからこそ隠れてここへ呼び出す人間も少なからずいた。知史がそれを目撃したことはないが、そういう秘密事はどこかしらから漏れ、真実を誰も知らないからこそ噂になるものだ。
 まだ来ない3人を待つ間、知史は杉浦が言った答えを何度となく思い返す。はっきりと言ってくれなかったことが、彼の答えだと思う。きっと誰も教えてくれないことだ。自分で気づき、見つけなければならない。それが億劫だと避け続けてきた結果がこの状態なのだと思えば、溜め息は出るものの、話さなければならないという答えに行き着く。
 何を話すのか、杉浦と別れて散々考えたが、最終的には大した話はないのではないかと思い始めた。高歩に話したことを水藤達にも一から話さなければならないとは、やはりどうしても思えなかった。だからと言って言葉を濁せば繰り返すだけで意味はない。つまりは、そういうことだ。
「新居」
 呼ばれて顔を上げる。ややあ、と水藤達3人が姿を現した。どういう表情を作ればいいのか迷った笑顔で水藤が手を上げた。
「話って何だよ? 俺らには何も話すことなんて無いんじゃないのか」
 後ろの二人は挑戦的に睨むような視線で言った。それはファーストフード店で知史が彼らに言ったことだ。
「ダチだと思ってたのは俺らだけで、新居はそうじゃなかったんだよな。そんな俺らに何の話があんの?」
「別にお前らをダチじゃないとは思ってない」
 きっぱりと言い放つ知史に、咄嗟に言葉を詰まらす。が、次に湧き上がってきたのは怒りだった。だったらなぜ、と腹の底から静かに沸々と混みあがってくるものを感じた。
「だったら! じゃあなんで俺らには話してくれないんだ! 俺らってそんなに信用ないのかよ!」
 急に大声を上げた友人に知史は驚いた。そんなに怒りを表す彼を見たのは初めてだった。
「信用って……」
 思わず出た呟き声は、何となく乾いて聞こえた。
「そういうことじゃない」
「何がっ? そういうことだろ! そりゃあ俺らは頭も良くないしガキだけどさ、新居が学校に来てなくてフラフラしてるって聞いたら心配するし、家に泊まりに来てくれたって全然構わなかったんだ。何もかも話してくれなくてもいいけど、少しは頼ってくれたって良かったんじゃないか」
「そんなこと俺は求めてない」
 知史が言った瞬間、それまでハラハラと見守っていた水藤はカッとなった。それでも水藤ができたのは食って掛かりそうになった己の拳を握り締め、耐えることだった。ここで手を出しても知史には軽くあしらわれるだけだと経験上知っている。
「俺はただお前らと何も無いことに笑ったり、ゲームで遊んだり、そういうことができたら良かったんだ。そういう時は何も考えずに楽しいから。そういう空間っていうか、居場所があったから俺は救われてたんだ……。確かに先生には色々相談したり助けてもらったりしたけどさ。違うんだよ、全然。……なんて言っていいか分からないけど、とにかく、どっちも俺にとっては大事なんだ。先生とお前らを比べられても困る」
「何がどう違うのか、俺らには分かんねーよ」
 水藤が荒げそうになる声音を抑えながら聞いた。けれど知史には答えられないことを分かっていた。それはとても感覚的なことで、言葉にするのはひどく難しいことだからだ。“大切”なものは水藤にだってたくさんある。それを一つ一つ分類していくことはできないだろう。
 案の定、眉根を額に寄せ、知史は綺麗な顔を歪ませる。そして何度か口を開いては閉じる仕草を繰り返した。それを見て水藤は少しだけ安堵した。知史が正面から向き合ってくれていると分かったからだ。思えば彼は最初から何も誤魔化したりはしなかった。本当に自分達に話すことなど無かったのだろう。――だからこそショックを受けたのだが。
「けど新居にとって俺たちは大事なんだよな。居なくちゃ困るんだよな。寂しくなっちゃうんだよなぁ?」
 茶化すように水藤が言えば、知史は途端に嫌そうな顔をして視線を逸らした。そんな彼が堪らなく可笑しかった。
「そこまで言ってねぇ」
「またまた、否定しなくたっていいじゃん。俺だって寂しかったんだぜ」
 わざとらしく笑って、水藤は知史の肩を組んでみる。覗き込むように視線を合わせようとすれば、知史は更に顔を背けて水藤の視線から逃げる。けれど組まれた肩はそのままであることに、知史の本音を見たような気がした。意外に可愛いところがあるもんだ、と水藤は可笑しくなり、嬉しかった。
 ちらり、と後ろに居た二人を見れば、彼らもまた呆れたように水藤を見ていた。その顔に先ほどまでの怒りや恨みは浮かんでいない。
 これでハッピーエンドかな、と調子に乗った水藤は、内緒話でもするかのように知史の耳に口を寄せた。
「なぁ、新居」
「あん?」
 耳元で喋られ、知史はムッと不機嫌な声のまま応える。視線だけで水藤の方を見上げれば、ニヤリと笑う顔が見えた。
「俺らってソウシソウアイってやつだよな」
 言った水藤は、瞬間、腹に言い難いほどの痛みを覚えた。
「いってぇぇぇ!」
 痛みに蹲る水藤に知史は冷めたい視線で見下ろす。
「キモイ」
「それは水藤が悪い」
「確かに水藤が悪い」
 冷ややかな三人の声が揃う。水藤は涙目になりながらも、こういうのも久しぶりだな、と頭の隅で思った。けれどやはり、こういう役目は全然嬉しくないとも思う。
「こういう愛の形はいらないんだけどなぁ」