月影

chapter 36


 再び水藤達の輪の中に知史が加わるようになって数日も経たない内に、彼らの高校も例に漏れず試験期間へと突入した。
「新居、このあとどうする?」
 まだ試験期間は続くというのに、本日の教科が全て終わった午前中、水藤が知史の方へ声を掛けた。午後が丸々空くのは今日だけで、彼らはその時間を勉学へ使おうという気はさらさらないようだった。かつて知史もそのうちの一人であった。
「んー……、今日はやめとく」
 少しだけ考えて知史はそう答えた。それが水藤には意外な返事だったのか、目を丸くしてまじまじと知史を見つめた。
「まじで? 勉強すんの?」
 学校に通う身にはあるまじき発言を真剣な顔で口にする彼に苦笑しつつ、まあね、と知史は軽く頷いた。
「ただでさえ出席日数ヤバイからさぁ。センセんとこ寄って、今日はそのまま帰るわ」
 日数のことを持ち出されれば水藤も無理に誘うことはできない。一緒に遊べないことよりも、一緒に進級できなくなる方が問題だということは、小学生でも分かる。残念ではあるが、ここは一つ知史に頑張ってもらわなければなるまい。
「分かった。息抜きするんだったら連絡しろよ。俺らが付き合ってやるから」
「つーか、お前らも勉強しとけよ」
 軽口を言って、知史は教室を出た。
 慣れた足取りで高歩のいる科目準備室へ向かう。授業をサボリ過ぎた知史はこうして赴き、試験前日から高歩に全教科の復習を手伝ってもらっていた。それでも今までの遅れを取り戻せるはずはないのだが、やらないよりはマシだろうと、珍しくやる気になった知史を高歩も全力で以って受け入れていた。
 準備室のドアを開けると、高歩はまだ戻っていないようで無人だった。知史はそれを何でもないことのように足を踏み入れ、バサバサと大雑把に勉強道具を広げる。だいたい試験が終わった直後にやってくる知史より早く高歩がここへ来ることはない。
 昨日高歩が用意してくれたプリントを解き始める。それは真剣に試験勉強をすると意気込んだ知史を見て、高歩が各教科担当の教師に頼んで貰った、今までの復習用教材だ。知史はそれらを有り難くいただいたわけである。
 おかげで詰め込み作業をしただけでも、何とか赤点は避けられそうな程度には、手応えを感じることが出来た。もともと知史は特に頭が悪いわけでも、記憶力が低いわけでもない。普通に授業を出てさえいれば、そうそう追試を受けるような点を取る生徒ではなかった。
「ああ、もう来てたのか」
 プリントを半分ほど解いたくらいに、のんびりとした声が後ろからかかった。ハッとして顔を上げ、振り向けば高歩が入ってくるところだった。
「明日は日本史、化学、現国か」
 机に広げられたプリントを見て高歩は呟いた。高歩は知史の学年の担当ではあるものの、案外教師と言うものは試験の順番などきっちりと覚えていないものだ。学校によって異なるのだろうが、この高校では各教科担当が準備した試験用紙は封筒に入れられ、日付と時間が書かれており、それが職員室の固定場所に準備されている。だから教師一人ひとりが試験の時間割を全て把握している必要はないのである。
「うん。先生、化学分かる?」
 教師に対して「分かるか」との問いは愚問かもしれないが、社会科の教師である高歩にとって、苦笑を浮かべるしかないものだった。高歩は、理数系は得意でない。
「化学はちょっとなぁ。化学を教えてもらいたいなら、呼んでくるよ」
 確か2年の化学の教師は――、と頭部の寂しくなった男性教諭を思い浮かべたところで、知史の慌てた声が高歩の思考を遮った。
「いや、別にいい! 化学は家でやってくるから。それより日本史を教えてよ」
 知史も理数系は得意でなかったが、高歩が相手をしてくれないなら無理を言って苦手な化学をここでやろうとは思わない。高歩もそれくらいの簡単な思考回路は読めていたのか、そうか、と頷いて向かいのソファに腰を下ろした。ちょうど知史とは正面から向き合う形になる。手元を見られていると思うと、途端に知史は気恥ずかしくなる。字が汚いのは自覚していた。
「教えるといっても、日本史なんて覚えるだけだと思うんだが」
 社会科教師にあるまじき、元も子もないことを平気で言ってのける高歩に、知史は不満気に頬を膨らませて抗議した。その面相が面白く、つい高歩は笑ってしまった。
「ま、質問に答えられるくらいはできるから、分からなかったら聞いて」
「うん」
 そうして知史は再びプリントに向かう。
 穴埋め式になっているプリントに教科書を覗きながら書き込む知史の姿を見ていて、そういえば、と高歩は今日の予定を思い出した。いつもならば少し早めの下校時間ギリギリまで付き合うのだが、今日はそうもいかないかった。
「悪いが新居、今日はそんなに長く見てやれないんだ」
「え?」
 まさか、と驚いて知史が顔を上げると、高歩の申し訳なさそうに眉の下がった表情がそこにある。冗談ではないようだ。
「なんで? 用事?」
「ああ、そうなんだ。悪いけど」
「もしかしてあの人?」
 知史の脳裏にすぐに浮かんだの和葉だった。高歩が急に用事を作ることは今までなかった。あったとしても知史に影響の与えることのない就業時間後がほとんどだっただろう。面と向かってこんなふうに言われたのは初めてだった。だから原因があるとすれば、最近知り合った彼女以外に、知史には思い浮かばなかった。
 高歩も、彼女を頼るくせに自分が絡むとなぜか快く思っていない素振りを見せる知史に、素直に和葉との約束があるとも言えず、曖昧な表情で応えるほかなかった。それが更に知史の機嫌を損ねると分かっているのだが、他の態度の見せ方も分からなかった。
「とにかく、今日は早めに切り上げるから」
 苦笑しつつ告げる高歩に、知史は何も言わず視線をプリントへ戻す。
「……」
 仕方のないことだ。高歩はそっと立ち上がって席へと移動した。生徒の前でするのはどうかとも思ったが、知史を信頼している高歩だったから、何事もないように本日集めた解答用紙を広げ採点を始めた。その様子を知史も気配だけで窺っていた。

 いつからそうだったのか、知史は既に覚えていない。気づけば高歩はスッと知史の中へ入り込んでいた。きっかけはたぶん、1年のときに起こした傷害事件未遂の時だったと思う。警察に補導された時、叔父よりも先に来てくれたのが高歩だった。そうして保護者である叔父が来るまでずっと知史に付き添ってくれていた。教師である使命感によって高歩は動いていただけなのだろうが、ただ叱り付けるだけではない彼の態度に、知史は来てくれたのが高歩で良かったと心底思ったのだった。
 いつからかそんな彼に執着していることは自覚していた。けれどなぜそうなのかと理由を考えたことはなかった。とにかく嫌なものは嫌だ。それだけの感情で知史は行動していた。高歩たちの後をつけたり、和葉を結果的に助ける形になったのも、要因とすべき根底にあるものは子ども染みた嫉妬の他でもない。勝手で幼稚な己に嫌気が差しながらも、和葉が高歩の傍に居ることを許すことは出来なかった。
 しかし水藤達と話してみて、杉浦に促され、叔父と面と向かってみて、少しは考えるようになった。
 果たして高歩だけに執着していて良いものだろうか、と。
 以前はそんなこと、構いはしなかった。それで良いと決め付け、深く考えることもなかった。ある意味開き直っていたのだろう。高歩を信頼し、好意を持っているのだから当然のことだ。執着して何が悪い、と批判の眼を向けるのが誰であろうと無視していた。それこそ心地良いタオルを離そうとしない、駄々を捏ねている幼児と変わらない態度だったように思う。
 和葉が現れてからだ。全てがゆっくりと、確実に形を変えて、知史自身にも変化を与えようとしている。それがひどく心地の悪いもので、そんな自分に気づくたびに知史は戸惑った。
 周りが変化していくのが恐い。それに伴って自身が変わっていくのが恐い。
 気づけば、知史は耳を塞いで目を閉じ、世界の全てから己を遮断したくなる衝動に駆られる。何の意味もなさないのに。
 だから和葉が憎らしい。今から思えば、高歩の後ろに女の気配を感じたときの胸騒ぎは、いずれ彼女が己に恐怖を抱かせる存在だと予知していたようだ。ただの思い過ごしと頭で理解していても、そう思わずにはいられない。
 変わるのは恐い。変化した後のことが想像できないからだ。未知のことに恐怖を抱くのはヒトの本能だ。
 それでも変化は否応なく訪れる。
 ならば。
――壊すしかないじゃないか。
 自ら変化を齎(もたら)すしかない。自然とその時を待つよりも、自ら手を出し、いずれやってくるその変化を違う形へと壊す以外、何ができるというのだろう。
 知史はそれ以外の方法がないといわんばかりに、それが妙案に思えた。
 壊し方は、自らを変えるよりも簡単だ。

 知史はマンションへ戻り、高歩へ言った通りに化学のプリントを教科書と資料集を見ながら解いていき、頃合を見計らって外へと出た。夜遊びは当分止めていたが、禁止されたわけではなかった。だから家政婦にも叔父にも何も言ってこなかった。もとより長引かせるつもりは毛頭なく、用が済めばさっさと帰ってくるつもりだったから、伝言を残すという発想自体がなかった。
 急ぎ足で知史がやって来たのは和葉の住むアパートだ。彼女が既に戻っているかどうかは判断できなかったが、なぜか漠然とまだ戻っていないような気がした。一時間ほどして姿を現さなければ、とりあえず今日は帰ろう。そう決めて知史は以前と同じように玄関前の階段に座り込んだ。
 変化を壊すことに戸惑いや躊躇いはなかった。その結果がどうなろうと、知ったことではない。とにかく和葉が憎い、とその感情だけが知史にあった。確かに彼女には助けてもらったことはあるが、自分だって彼女を危険から救ったのだ。それを考えれば罪悪感など微塵もなかった。つくづく自分は歪んでいると思う。無論、そんな己を否定する気もないのだが。
「――新居くん?」
 つらつらと思いをめぐらせているうちに和葉が帰ってきたようだ。知史は座ってた階段から立ち上がり、和葉の前まで降りた。
 どうしたのだろうと不思議そうにこちらを見つめる彼女の目はいつも澄んでいて、濡らしたくなる。
「この間、泊めてもらって、礼も言ってなかったから」
「え……? ああ、そんなの全然良いのに」
 あまりに知史が真剣な顔つきだったから何事かと思っていたのだろう。知史から出た言葉に安堵の表情を浮かべた和葉は、屈託なく小さく笑った。
「あん時は助かった。でも、礼も言ってないのかって先生に怒られた」
 だからここへ来たのだと暗にそう告げて、知史は和葉の様子を僅かに窺ってみる。気にしなくていいよ、と無邪気に微笑む彼女が、高歩の隣にいたのかと思えばそれだけで憎くなるのだから不思議だ。きっと高歩を介してではなく出会っていたら、きっと高歩と同じくらいに好意を持てたかもしれない。
「あんたって先生のこと好きなの?」
 唐突な問いに、和葉は驚いてまじまじと知史を見る。彼は何でもないことのように変わらない表情で和葉の答えを待っていた。
 どうしてそんなことを聞くのだろう、と思いつつ、和葉は素直に答える。
「好きだよ。良い人だもの」
 だがそれは知史の期待していたものと違ったようで、彼の眉根が僅かに中央へ寄せられた。自然ときつくなる視線に和葉は少しだけ間を開けて、もう一度口を開く。
「好きか嫌いかって言ったら、間違いなく好き。恋愛感情かって聞かれたら……よく分からない」
 よく分からない。――なんともずるい答え方だと思う。
 それでも和葉はそれ以上の言葉が見つからなかった。高歩を思うときの感情は、確かに友人として大典と向かい合っている時とは違う。けれどかつての恋人だった也人に対して持っていた甘く苦い感情とも全く違っていた。
 それはとても穏やかで優しい。まるで高歩の雰囲気と同じものが和葉の中へ入ってくるような。そんな曖昧で表現しにくい感情を、和葉はずっと抱いている。その感情をなんと呼ぶか、和葉は知らない。
 和葉が言った言葉の意味を吟味するように知史は暫く考え込む仕草を見せると、分かった、と一つ頷いた。
「よく分からないなら、一つだけ言っとく。先生を好きになるな」
「え?」
「先生を好きになっても無駄だよ。先生には恋人がいたんだ。今でもきっと忘れてない」
 和葉は混乱する。知史の言っていることがすぐに理解できなかった。
「俺、見たんだ。先生が恋人の写真を今もずっと持ち歩いているの。直接恋人って聞いたわけじゃないけど、きっと恋人だ。すげぇ美人だった」
「……」
 口を噤んでしまった和葉を見やり、知史は胸の内で満足した。彼女を思っている振りをして、本音は表情に出さない。
「だから好きになったらダメだ。ていうか、分からないってことは、好きになりそうって思ってるんだろ。だったら先生から離れた方が良いんじゃないかな」
 淡々と告げられるそのセリフは、和葉の脳裏に響いて、けれど確かな足跡も残さずに耳から耳へと通り抜けていく。なぜ彼は突然、そんなことを言ってくるのだろうか。その疑問ばかりが浮かんでくる。
「それはあたしが傷つくって、分かるから?」
「そうだよ」
 嘘だ。小さな嘘だから、平然と言える。
「じゃあ、大丈夫だよ」
「何が?」
 寂しそうに小さく笑う和葉に、知史が小首を傾げる。大丈夫、と言う彼女の答えの意味が掴めない。
「だってあたし、引っ越しするの。1ヶ月もしたらここを離れるから」
 和葉は、だから大丈夫だ、と言う。知史は目を丸くした。
「先生は知ってるの?」
「うん。物件を紹介してくれたのも筵井さんだし。今日も下見に付き合ってくれたの。一応断ったけど、どうせ暇だからって」
 暇なわけがない。今日だって本当はもっと勉強を見てくれるはずだったのだ。
 そう言おうとして、知史は開けた口を閉じた。言って何になるというのか。自分よりも和葉を選んだのは他でもない高歩なのだ。
「……ふぅん、そっか」
 呟いた知史は、他に言葉も見つからずに俯いた。
 壊すまでもなかった。高歩から和葉を遠ざけて乱してやろうと思っていたのに、知史が手を下すまでもなくその変化は目の前までやってきていた。
 顔を上げ、泣きそうな顔をする和葉を見て、知史は自嘲した。
 バカじゃねーの。