月影

chapter 37


 何もないと思っていた部屋でも、片付けてみれば意外にも荷物はあるものだった。食器や衣服など嵩張る大体の荷物や家電製品は既に運送会社に任せて、あとは細々としたものをダンボールへ詰め込んでいく。ガムテープでしっかりと止めると、和葉は立ち上がり、部屋の掃除を手伝ってくれている二人の方へ体を向けた。
「シギ、こっちは終わったよ。車に運んでくれる?」
 自分達で運べるものは運んでやる、と手伝いを申し出てくれた内の一人である大典が、和葉の声に雑巾掛けの手を止めて腰を上げた。
「分かった。それで最後か?」
「うん」
 和葉が頷いて答える。大典は手にしていた雑巾を和葉に渡すと、ダンボールを持ち上げて外に止めてある車へと運び出す。車の持ち主は、手伝いを申し出た残りの一人、同期入社した寺崎という男だ。現在有給消化のため、勤務地関西から帰郷していた。和葉達の勤める会社の規定では、本来新入社員の有給は10ヶ月目からなのだが、夏季休暇の期間だけ特別に最大4日の有給が与えられる。寺崎は休日である本日を含め、早めの有給消化期間を4日間貰っていた。それを知った大典が彼に声を掛けた、という経緯が実はあったのだが。
「おーい、換気扇終わったぞ」
 キッチンから顔を出した寺崎が掃除の終了を告げる。これで掃除は全て終わった。立会いは明日なので、荷物を新居へ運べば、今日の作業は全て終わる。
「ありがとう。雑巾貸して。一緒に洗うから」
「ん。ていうかもう捨てればいいじゃん」
 和葉が片手を伸ばすと、寺崎は持っていた雑巾とゴム手袋を一緒に渡した。彼自身は洗剤をまとめて持ち上げる。
「そういえば鴫野は?」
 いつの間にか姿が見えなくなった大典に気づいた寺崎はそう尋ねる。
「荷物運んでもらってる」
「そうか。じゃああとはあっち行って終わりだな。その後飯でも行かないか」
「ああ、そういえばお腹空いたぁ」
 寺崎の言葉に気づいて腕時計を見れば、昼はとうに過ぎていた。昼飯にしては遅いが、何も言わず手伝ってくれた二人にはめいいっぱい食べて欲しいと思う。
「駅前に安くて大盛りの中華料理の店があるんだよね」
 和葉が提案してみれば、特に食に関して拘りのない寺崎は“安くて”“大盛り”という言葉に「良いねぇ」と食いついてきた。
 掃除道具を片付けた二人は車を止めてあるアパートの裏へ向かう。大典はそこで待っていた。
「お待たせ。この後飯食いに行こうって話してたんだけど、鴫野もそれでいいよな」
 掃除道具を車の後ろへ入れながら、寺崎が言った。同じく昼を抜いた大典もその提案に異論はない。
「ああ。どうせなら飲めるところがいいけど」
「それは俺への当て付けか?」
 運転席へ乗り込む寺崎が睨めば、大典は笑って助手席へ座った。和葉は後部座席へ着く。
「時間的に飲むのはまだ早いよ。中華にしよ、中華!」
 後ろの座席から身を乗り出して、和葉が運転席の寺崎へ行き先を促した。寺崎は和葉を横目で見ると、微笑んで頷いた。大典がそうであるように、同期入社した年下の彼女を、寺崎もまた友人であると同時に妹のように可愛く思っているのだ。
「よしよし。乙瀬のご希望通り中華にしよう。駅前のところで良いのか?」
「うん、駅前の! シギ、知ってるの?」
「まぁな」
「じゃあ道案内頼むぜ、鴫野」
 寺崎は言って、ドアのロックを確認するとアクセルを踏んだ。
 和葉のリクエストした店は、地元に数店舗構える人気チェーン店だ。だがその味は店独自に任せられているらしく、メニューは同じものの、その味は店ごとに若干異なる。和葉は各店食べ比べたことはないが、駅前のその店の味は充分満足できるもので、たまの外食の際はよく行っていた。
 休日ということもあって店内は混み合っていた。数分待って席に着く。和葉の新居はここから車で数十分という近さで、特に急ぐ必要もないのだが、昼を抜いたという空腹感から三人とも手早くメニューを決めていった。
「今日は二人ともありがとう。すごく助かった」
 店員が下がった後に和葉が寺崎と大典を交互に見ながら軽く頭を下げた。気にするな、と二人は笑う。
「それにしても急だったよなぁ。今のところも会社から近いのに、なんで引越し?」
 何も知らない寺崎が当然の疑問を口にする。大典はある程度事情を知っていたが、何と答えて良いか分からず、ただ和葉の表情を窺う。
「んー、まぁ、なんとなく」
 和葉は上手い言い訳が思い浮かばず、困ったように小首を傾げた。本当のことを言えば心配をかけるだけであるし、何よりつまらない長話をしようとは思わなかった。「ふぅん」と呟く寺崎がその答えをどう思ったのか、和葉は内心不安になる。
「学生の頃からだっけ、今のとこ」
「うん。専門の頃からだよ。学校も近かったし……」
 言って和葉は語尾を濁した。一人暮らしのきっかけは高校を卒業したというのも理由の一つだが、最大の要因は父親の他界にあったからだ。
 そんな彼女の態度をどう捉えたのか、寺崎はそれ以上突っ込んだことは聞かなかった。

 腹一杯に食べ、少しだけ他愛のない話をしてから、寺崎の車で新居まで送られる。運送会社に頼んだものは全て、和葉達が着いた時には既に運び込まれていたので、大典と寺崎に配置だけ手伝ってもらった。それも終わると彼らは帰っていった。本当はもう少し話していたかったが、夜は男二人で飲み明かすらしい。寺崎はまだこちらにいるのだが、大典が明日から出張のため、仲間外れにされた疎外感は無視して和葉は二人を見送ることにした。
 今まで賑やかだった分、まだ馴染みのない新居の夜は普段以上に静かで寂しく感じた。帰る実家がない自分にはホームシックという言葉は当てはまらない気がしたが、今抱いている気持ちは言い表すならまさにそれだろうと思った。
 テレビを付けてベッドの上に横になる。天井を見つめていると、先ほど別れたばかりの寺崎と大典の後姿の記憶が脳裏に過ぎる。不意に、もう誰からもああして送られることはないのだろう、という実感が襲ってくる。誰からも、というのはただ一人――高歩以外には居ないのだが。……寂しい。
 キュッ、と胸の奥が痛い。
 高歩のことを思うなら、毎日送ってもらえることの方が特例なのだ。だから引越しをすることは彼のためにも良かったことだ。それは分かっているのに、もう会えることもないのだと考えると、途端に寂しさが募る。メールアドレスも電話番号も知っているが、気軽に遊びに誘える相手でもない。
 そこまで考えてハッとした。高歩とは別に“友人”でも何でもないということに気づいてしまった。彼との関係を表す言葉など考えたこともなかった。その事実に驚愕し、愕然とする。それでは、自分にとって高歩は“何”であるのか……? あるいは、無意識の内に二人の関係を決めてしまうことを避けていたのだろうか。
 高歩は優しいから、きっと何も言わなかったのかもしれない。和葉はつくづく己の行動を省みて、いかに高歩にとって迷惑な行為を強いていたのかを理解する。けれどこれできっと、彼も清々としただろう。無理して時間を割くこともなくなるのだから。
 それに知史が言っていた。高歩には忘れられない恋人らしき美女の存在があるのだと――。
 ギュッ、と胸の上に持って来た手を握り締める。
 知史は詳しく言わなかったが、彼の言い方を思い出せば、未練は高歩の方にあるらしい。それは痛いほどに和葉の胸を締め付ける。どうしてかは分からないけれど、高歩ほどに大人な男性ならば恋人の一人でもいるのは当然であるのだけれど、和葉は言い知れぬショックを受けていた。
 和葉は考えるのをやめ、ベッドから勢いをつけて起き上がった。携帯電話を探り寄せ、別れたばかりである大典の番号を呼び出す。どうしようもなく自分の感情を持て余していた。
「ごめん、シギ。やっぱりあたしも一緒に飲みたい」
 すぐに止んだコールにホッとした和葉は、裏返りそうな声を抑えて言った。
『なんだ? もう恋しくなっちゃったのか?』
 大典の笑い声に、けれど和葉は真剣に頷いた。それ以外の何物でもなかった。
「うん」
 素直に答える和葉に大典は苦笑を漏らし、しょうがないな、と呟いた。やはり妹分は可愛い。
『今、俺んちだから、来いよ。駅まで寺崎が迎えに行くから』
 大典の後ろから寺崎が何やら文句を言っている声が聞こえるが、大典はそれを無視して最寄の駅名を伝える。呆気ないほど近い所に住んでいるんだな、と和葉は安堵した。

 早速向かうと、寺崎ではなく大典が待っていた。既に酒は飲んでいたらしく、僅かに顔を赤くして徒歩でやってきたと言う。寺崎は和葉が来るということで、酒の追加分を調達に行っているようだ。そんなに飲まないのに、と和葉は苦笑する。
「ごめんね。男同士の話もあったのに」
「まぁ、いいけどさ。乙瀬がムサイ中で構わないって言うんなら」
「全然構わないよ。ちょっと、寂しくなっちゃっただけだし」
 俯き加減の和葉の頭を、大典は軽く撫でる。何が彼女をこんなふうにさせているのかは分からないが、我侭を言って突然やって来る、という行動はしない子だと分かっていて、突き放すことはできなかった。
「二人で何の話してたの?」
 少し元気になったような明るい声で和葉が尋ねる。大典は彼女の頭に触れていた手をジーンズのポケットに入れると、何でもないように笑った。
「前にも言っただろ。オンナノコには聞かせられない話」
 ちらり、と和葉を横目で見て、大典はニヤリと笑う。
「――の前に乙瀬が電話してきたからな。まぁフツウに仕事の話してたよ」
「そっか……」
 やっぱり迷惑だったかな、と和葉は今更なあら心配になり、視線を足元に落とす。
「あたし邪魔だよね。帰ろうか……?」
「バカ。ここまで来て何言ってんだよ。せっかくだし、乙瀬も話せよ、パァッと」
「でも……」
「俺も寺崎も気にしてないからさ」
 珍しく弱気になっている和葉は見ていられなかった。大典は努めて明るく言って、彼女の少し先を歩く。2,3歩後ろを着いてくる彼女は、小さく頷く気配を見せる。今はそれでいい、と大典は思う。
「どうせ筵井さんのことじゃねーの、寂しいって」
 からかう口調で言えば、思いのほか図星だった和葉は僅かに言葉に詰まる。が、すぐに大典の横に並んで彼の脇腹を軽く叩いた。
「どうせ筵井さんのことですよっ」
「痛っ」
 大げさに痛がる大典を見て少しすっきりした和葉は、ふふ、と笑って大典の2歩先前に歩く。今日は大典の部屋でとことん飲むのだ、と決めた。その後ろを、大典が呆れたように笑みを浮かべながら続いた。――夜はまだ長い。