月影

chapter 38


 誰かの携帯電話が震えている。
 ぼんやりとする頭で和葉は体を起こし、振動元を捜した。床に転がっている空き缶の数々と男が一人、視界に入る。見慣れない部屋に、酔い潰れたとわかる状況の中で、ようやく和葉はここが大典の部屋であることを思い出した。再び聞こえたバイブの音に、和葉は隣で寝転がっている寺崎を跨ぎ、テーブルの上に無造作に置かれてあった携帯電話を手に取った。
 時刻は5時になる5分前。もうすぐ始発電車が動き出す頃合だ。先ほどの振動は、こうなることを見越して設定していたアラームが鳴っていたのだった。
「ねえ、あたし帰るけど」
 和葉はしゃがみこみ、一向に起きる気配の見せない寺崎の肩を揺すった。しかし寺崎は「う〜ん……」と唸っただけで、目を開けることもなく再び寝息を立て始める。彼はまだ休暇中なので無理に起こさなくても問題はない。和葉はさっさと諦めると、隣の寝室で寝ているであろう部屋の主、大典に声を掛けてから帰ろう、と立ち上がった。閉じているドアの前に立ち、静かにノックをする。
 返事はなかったが、そっとドアを開ける。思っていたとおり、大典もまだベッドの中で眠りこけていた。
「ね、シギ。あたし帰るよ。シギ」
 和葉は寺崎にしたのと同様、屈んで大典の肩を揺する。大典はしばらくして重たそうに瞼を上げた。
「うん? 帰る?」
 寝起きの彼の声は掠れていて、その低音の声を聞いた和葉は咄嗟に、大典も男なのだと思い出す。三人の間に色っぽい雰囲気など皆無なのだが、よくよく客観的に見てみれば、安易に泊まっていい状況でもなかった気がした。
 ――とは思うものの、過ぎてしまったことをどうこうするつもりはなく、起き上がる大典に帰る旨を伝えた。
「うん、帰る。シャワーも浴びたいし。シギも出張でしょ?」
「あー……、じゃあ駅まで送る。ちょっと待ってて」
 大典はベッドから出ると、寝癖の付いた髪を掻きながら寝室を出て行った。あとを追ってみれば、洗面台へと向かったようだ。僅か数分で戻ってくると、大典はさっぱりした顔になってた。早朝だからか、周りに気を遣う必要を感じなかった大典はジャージ姿のまま、送るよと告げた。
 気持ち良さそうに寝息を立てる寺崎をそのままにして、二人はアパートを後にした。
 うすぼんやりとした外の空気は少し冷たく心地よい。
「寺崎は良いよなぁ、休みで。調子乗って飲むのはいいけど、俺まで巻き込むなっつの」
 きっと駅から戻ってきてもまだ眠っているであろう寺崎を思い出し、大典は恨めしそうに不満をぶつけた。目の前で気持ちよさげに寝られると腹立たしさも余計なのだろう。和葉は思わず笑った。その気持ちは良く分かる。和葉とて今日も仕事なのだ。
「シギはお盆休み、いつぐらから取れそう?」
「主任からは、1年目で4日も休めると思うなって脅されたけど。課長から3日間の許しが出たからな。それでも18からだけど。乙瀬は?」
「こっちは営業みたくシビアじゃないから。14から4日間」
「じゃあ完全にすれ違いだな。飲みにも行けないのかぁ」
 残念そうに呟く大典に、そうだね、と和葉も相槌を打つ。夜遅くまで付き合う、ということはできなさそうだ。無理をすれば今日みたいなことになるのが目に見えている。
「んで、乙瀬と筵井さんって実際どういう関係?」
「……へ?」
 すぐには反応ができなかった。
 大典があまりに自然な口調で言ってきたことは、あまりに突然の話題転換で、和葉の胸になんとなくわだかまっていたことだった。驚いて彼の方を見上げれば、大典は他意はないような顔でこちらを見ている。
「筵井さんは偶々近くに住んでて、乙瀬が危ない目に遭ってるからって送ってくれてたんだろう? 引っ越したらそれもなくなるだろうし、だから乙瀬は寂しくなっちゃったんだもんな。その後どうすんのかなって、フツウに疑問に思ったんだ」
 昨夜のように「寂しかったんだもんな」とあやすように頭を撫でられる。優しくされても、その後のことなど、和葉の方が知りたいくらいだ。
「分かんないよ。多分一緒に帰ることはなくなると思うけど……」
 だんだんと小さくなっていく声に和葉の不安が表れているようだった。
「まさか、これを機に縁を切るつもりじゃないだろう? あんなに良い人、他にはいないぞ」
「それはそうだけど」
 咄嗟とはいえ間髪入れずに答えた和葉だったが、正直なところ離れても縁を切れないようにする自信はない。中学、高校、専門学校と、幾度となく友人と呼べる関係を結んできたが、今現在まで連絡を取り合っている人数と言えば片手で足りるくらいしかいない。それもメールで少し話すくらいだ。頻繁に言葉を交わしたり、ましてや会ったりすることは本当に稀である。
 そんな自分の人間関係を見てみれば、親切心だけで付き合ってくれている高歩と、理由もなしに連絡を取るなど到底難しいだろう。まさか高歩から連絡をくれることもないに違いない。和葉が安全な地に引越し、己の心配事がなくなることが高歩にとっては負担も責務もなくなる重要事項なのだ。引越しを勧めてくれた事実が何よりもそれを物語っている。
「……こんなこと、俺が言うのもアレなんだけど」
 俯きながら歩く和葉を見つめながら大典は、困ったように眉根を寄せながら言った。何だろう、と和葉は視線だけを大典へ向ける。
「乙瀬さぁ、筵井さんのこと好きなんじゃないか?」
 その言葉に和葉は目を丸くした。
「え?」
 まさかそれを大典の口から聞くとは思わなかったのだ。知史から何度か仄めかされた質問ではあるけれど、それを何となくはぐらかし続けた和葉は、今、痛くなるほど心臓を締め付けられた感覚に襲われた。どういう意味の“好き”かなんて、痛いほど分かる。
「恋してるってこと。違うか?」
 尋ねられて、和葉は答えられなかった。
 大典は言葉を続けた。
「だったらここはもっと積極的に行かないとダメなんじゃないか。まぁ、俺が言うことでもないんだろうけどさ」
 確かに大典が言うべきことではない。だからと言って、そうだと頷けるほど和葉は大人でも子どもでもなかった。
「筵井さんも毎日送ってくれるくらいだし、嫌な気はしないと思うんだよな」
「……本当にそう思う?」
 念のために確認してみれば、大典は軽く肩を竦めて苦笑を浮かべた。
「俺は筵井さんじゃないから本当のところはどうかなんて分からないけど、好意を持ってくれる人間に対して嫌な気はしないだろ、誰だって。直接確かめてみれば良いじゃん」
 呆気なく突き放されて和葉は落胆した。しかし大典から「絶対大丈夫!」と自信を持って言われても、それはそれで疑ってしまうだろうという気もした。なぜそう言い切れるのか、と詰めてかかったかもしれない。そう思えば、一言だけ伝えてみるのも良いかもしれないと思えたのだ。

 酒が抜けきらないまま重い体に鞭打って仕事をこなした和葉は、何度か倫子に注意を受けつつも大きなミスもなく退社する時刻を迎えた。
「お待たせしました!」
 いつもより少し遅れて和葉は駅に着いた。高歩はいつものようににこやかに微笑んで待っていた。
「いえ。お仕事お疲れ様です」
 焦った和葉が可笑しかったのか、クスクスと小さく笑って高歩が歩き出す。和葉は慌てて髪を撫でつけ、彼に続いた。
「そういえば今日が最後ですね、こうして送っていくのも」
「そうですね……」
 高歩がさらりと言ったので、和葉は今朝大典に愚痴った自分を恥ずかしく思った。寂しい、なんて言ってしまった自分がひどく弱く、情けなく思う。
「良かったですよね、気に入った部屋が見つかって」
「筵井さんのおかげです。本当に何から何まで……ありがとうございます」
「いや、僕がやりたくてやったことです」
 こんな会話をしていると、これで高歩との別れだという意識が嫌でも高まってくる。今日で“最後”はやはり寂しい。情けない弱音だけれど、そう思うのを止められない。隣にいるのが高歩だというのに、見上げる月もどことなく霞んで見えた。
「今日は部屋の引渡しなんですよね。そのあともまた、駅まで送って行きます」
「え!?」
 高歩の申し出は思っても見なかったことだ。和葉は勢いよく顔を上げ、高歩を見た。
 彼は変わらず優しげな笑みを浮かべている。
「だってアパートまで送って、駅までの道は送らない方が変じゃないですか?」
 当然のことだと言ってのける高歩に和葉はどう返事をしていいものか迷ったが、せっかくの申し出を断るのも勿体無い気がして、それじゃあと甘えることにした。和葉とてできれば高歩とすぐに別れるようなことはしたくない。
 アパートまでの道はあっという間だった。也人のことがあったときはとてつもなく長い道のりだったのに、高歩との帰りはいつも早かった。今日は特に短く感じた。
 まだ不動産と管理人は着いていないようだ。それを確かめると、どうせそう長くは掛からないだろう、と高歩は終わるまで待つと言ってくれた。和葉としても、何もない部屋に一人でいるよりはずっといいので、断る言葉も浮かばず、二人でアパートの前で待つことにした。
 かくして、部屋の引渡しはそれから数分もせずに終わり、和葉はアパートの鍵を返した。
 書類上の手続きは全て終わっていたので、これで本当にこのアパートへ帰ることはなくなった。全てを見届け、高歩は再び和葉の横に並ぶ。
「あの、図々しいとは思うんですけど」
 駅まで戻る途中、和葉は意を決して口を開いた。
「これからもメールしても良いですか?」
 思いつめたように真剣な表情で見上げてくる和葉に、高歩は僅かに驚きを見せた。が、すぐにふわりと微笑み、頷く。高歩にとってもそれは願ってもないことだった。これからは頻繁に会えなくなるが、彼女が困っていれば今までどおり力になりたいと思っていた。
「もちろんですよ」
 高歩の快諾に和葉は心の底から安堵した。
 これでまだ高歩との糸は切れなくて済んだ。そう思うと胸の奥が熱くなる。
――先生には恋人がいたんだ。今でもきっと忘れてない。
 不意に過ぎった知史の言葉に、緩みそうになった顔を引き締めた。
 そうだ。高歩の好意に甘えすぎてはいけない。期待してはいけない。寄りかかりそうになる気持を立て直して、和葉はおずおずと言葉を続けた。
「それでよかったら、新居くんにも新しい住所、伝えてもらってもいいですか。引っ越すことは言ってるんですけど。もしかしたらまた、あたしを頼って来てくれるかもしれないし」
「新居に、ですか。……分かりました。伝えておきます」
 和葉の頼みは意外なものでしかなかったが、とにかく伝えるくらいなら大丈夫だろう、と高歩は承諾した。彼は和葉にあまり良い感情を持っていないようだから、なるべく二人にはしたくないというのが高歩の本音だが、それを和葉に言うつもりはない。
 高歩が頷いたの見て、和葉は胸を撫で下ろした。
 しばらくして二人は再び駅前にやって来た。
 これでもう、会うことはないのかもしれない。メールはするが、よっぽどの偶然が重ならない限り、約束を取り付けてまで会うということはないように思う。そんな悲しい別れを想像しながら、和葉は笑顔を向けて改めて頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「いいえ。本当に。これからも気をつけてくださいね」
「はい」
 和葉は短く返事をして背を向けた。そういえばまだ定期が残っていたんだ、と関係ないことを思う。
「お休みなさい、乙瀬さん」
 後ろから聞こえてきた声に、和葉は驚いて振り向いた。
「お休みなさい」
 これが永遠の別れだとは決まっていないのに。
 これだけの挨拶で涙が出そうになった。