月影

chapter 39


 十二時になった壁時計を確認し、意気揚々と倫子は立ち上がった。今朝は珍しくしっかりと食べてきたのだが、十一時を過ぎた頃から空腹感に襲われ続けていたのだ。ふと向かいを見ると、和葉が席でごそごそとやっているのが見えた。いつもならば同じように立ち上がる彼女が腰を上げる素振りも見せないことに疑問が浮かぶ。
「乙瀬さん、お昼よ?」
 チャイムが鳴るわけでもないのだが、まさか時間に気づいていないとも思わず、声を掛ける。
「はい。今日はお弁当持って来たんで」
 和葉はごそごそとバッグの中から巾着袋を取り出した。その中には小さな弁当箱が入っている。
「そうなんだ? 珍しいわね」
「引っ越したばかりなんで、今キツくて。作った方が安いかなと」
 倫子は和葉の答えに納得した。彼女が引っ越したことは恋人であり彼女と同期の大典から聞いていた。その理由までは聞かなかったし、大典も言わなかったけれど、何かあったのだろうというくらいの推測はしていた。急に大典から呼び出され、一晩和葉を泊めた日のことを問わなかった倫子だが、彼女なりに心配はしていたのだ。
「そうなの。じゃあ私はお昼に行ってくるわね」
「はい。行ってらっしゃい」
 和葉の言葉を背中で受けて、倫子は外へ出るためにロッカールームへと向かった。
 その途中で外回りから帰ってきたらしい大典と出くわした。珍しいことが続くものだ、と倫子は嬉しく思いながらも驚いて見せた。
「お疲れ、鴫野君」
 一応今は社内だということで、倫子は大典を名字で呼ぶ。それは大典とて同じことだった。
「お疲れ様です」
「乙瀬さん、今日はお弁当みたいなの。良かったらお昼、一緒にどう?」
「ああ、あいつ弁当なんですか」
 大典も和葉が弁当を持参していることは意外だったようだ。倫子はクスッと小さく笑う。そういえばこうしてお昼休憩を共に過ごしたことはまだ一度もなかった。
「荷物置いてくるんで、先に待っててもらえますか」
 ひょい、と手提げの鞄を持ち上げて大典が言う。倫子はそれもそうだ、と頷いた。
「分かった。駅下の喫茶店に行ってるから、近くに来たら連絡して」
 倫子が携帯電話をチラつかせると、心得たように大典は了承した。
 倫子と廊下で別れ、そういえば、と営業課を通り過ぎて企画課を覗いてみる。案の定、席に座る和葉の後姿が見えた。
 近づいていけば、和葉が小さな口をもぐもぐと動かしながら、真剣な表情で携帯電話を見つめているのが分かる。今日にでも高歩にメールをしてみる、と言った和葉のセリフが大典の脳裏を過ぎる。
「なに難しい顔してんだよ?」
 そっと声を掛けたつもりだったが、思った以上に和葉を驚かせたらしい。びくっと肩を揺らして和葉が振り返った。
「もう、急に声掛けないでよ。びっくりしたぁ!」
「前もって肩でも叩けば良かったか? どっちにしろ同じだと思うけど」
 意地悪く笑って見せた大典は、すぐにいつもの表情に戻して携帯電話へ視線をやった。
「筵井さんにメール?」
 大典が問えば、コクンと和葉は頷いた。
「ああは言ってみたけど、何て送ればいいか分かんなくて」
 会えなくなった分、メールだけでも続けたいと心底願っていた和葉だが、もともと筆不精なところがある。おまけに、高歩とは仕事も年齢も違いすぎて、共通の話題が見つからない。ほとほと困ったように眉根を寄せて、和葉は助けを求めるように大典を見上げた。
「そんな目で見るなよ……。今何してますかー、好きな映画ありますかー、とか。何でも良いじゃん」
「好きな映画ぁ? 観に行こうって誘ってるみたいじゃん。迷惑じゃない?」
「あぁ? 俺に無理矢理チケット手配させたのは誰だっけ?」
 大典が苦笑しつつ、軽く睨みつけると、和葉は不満そうに頬を膨らませて俯いた。確かに彼の言うことは真実だ。あの時は何も考えずに“お礼”に誘えたのに、意識した途端にできなくなった。でもそれは、和葉自身の問題というだけなのだ。
「まぁ、自分で考えてみたら」
「うん……」
 意を決したようにカチカチとキーを押し始める和葉を見て、大典はそろそろ倫子を待たせるな、と思い出した。自分の席へ戻ると急いで会社を出、待っているであろう倫子の番号を呼び出した。

                □ □ □ □

 高歩が学校を出たと同時に、鞄の中の携帯電話が鳴った。昼間に和葉からのメールがあることに気づいたのが帰り支度の準備をしている時で、その場ですぐに返信をしたから、きっとその返事だろう。高歩は自然と浮かぶ笑みを隠せず、早速鞄から取り出した。思ったとおり、和葉からだ。気を遣ってか、やけに丁寧な文章に苦笑する。けれどこうして文字だけの会話というのもなかなか面白いと思う。思い返せば、和葉とのそういったやり取りは極端に少なかった。
 何度かメールのやり取りを楽しんでいるうちに駅に着いた。時間を見れば、いつもよりだいぶ時間をかけて駅に着いたのだと気づく。
 改札を通った時、メールではなく着信を知らせるメロディが鳴った。一瞬和葉かと思い慌てたが、サディスプレイに表示された名前に何となく溜め息を吐く。それは安堵か落胆か、自分でも判断できなかった。
「もしもし」
 いつまでも着信を放っておくのも躊躇われ、高歩はホームに出たところで通話ボタンを押した。
『遅い!』
 途端に聞き慣れた男の声が耳に届いた。煩そうに高歩は一瞬顔を顰めたが、気を取り直して再度電話を耳元に当てる。
「悪かったよ。今駅に着いたばかりなんだ」
『駅ってどこ? オレもうすぐ店に着くけど』
「店?」
 男の言っていることが分からず、咄嗟に聞き返していた。すると相手はしばらく沈黙し、次に不満気な口調でその答えを言う。
『高歩テメェ、約束忘れてんじゃないよな? まさか本気で帰ろうとしてたわけじゃねぇよな?』
 約束、というワードで高歩は、はたと思い出した。そういえば数週間前にこの男に飲みに誘われていたのだ。
「悪い。忘れてた」
 高歩は悪びれた風でもなく返すと、相手が騒ぎ出す前に切ろうと急いで言葉を繋ぐ。
「すぐ行くから先に飲んどいて」
『早く来いよな! オレが酒に弱いの知ってるだろ』
「はいはい。健(たける)が飲み潰れないうちに行くよ」
『絶対だぞ! あ、忍足で店予約してっから』
「分かった。サンキュ」
 そこでちょうど電車が入ってきたため、短めに締めくくり、携帯電話を鞄に仕舞った。何年経っても人というのは変わらないものだな、と先ほどの会話を思い返してつくづく思う。高歩と健が大学で知り合ってから、既に10年の時が過ぎていた。
 高歩と健が初めて会ったのは大学の入学式だ。まだ着慣れないスーツを着て、生真面目な顔をして列に並んでいた。高歩は実家を初めて出た年でもあったのもあり、まさに不安と緊張をごちゃ混ぜにした心地で挑んだ入学式だった。
 大学の学籍番号はあってないようなもので、こういった式典で使われることは皆無だ。だからその列で偶々横に並んだ高歩と健が、こうして10年以上も付き合いを続けているというのは、今にして思えば尚更、不思議な縁としか言いようのないものだ。その10年の間に自分は、どれだけの成長をしてきたというのだろう。高歩はたまに、ふと、そう思うことがある。
 高歩がその大学を選んだのは教職に就くためという理由の他に、当時高歩が慕っていた教師の母校だと知ったから、というのもある。高歩がそもそも教職を目指したのも、以前和葉にも言った通り、彼女が自分に教師という職業を勧めてくれたからだった。尊敬する彼女に一歩でも近づきたくて、どうせならばとその大学に決めたのである。
 今にして思えば、それも何かの運命だったのかもしれない。そこで10年来の友人となる健と出会い、彼の紹介で“彼女”に出会った。厳密に言えば健が誘ったサークルに“彼女”が居たというだけなのだが、出会いとはそういうものだ。
――そこまで思い出して、高歩は首を大きく振った。
 そろそろ目的の駅に到着する。動くには早いと分かっていたが、高歩は立ち上がってドアの前まで進んでみる。流れる景色と共に、ガラスに映る己の顔が見えた。10年前より皺が増え、髭も濃くなったし、少しだけ太った。果たしてあの頃、自分を教師と言う職業を提示してくれた彼女のような教師に、眩しいとすら感じた彼女と同じ存在に、自分はなれているだろうか。思えば既に、当時の彼女の年齢を自分は越してしまっている。
 久しぶりに健の声を聞いたからだろうか。最近思い出さずに済んでいた“彼女”のことまで記憶を掘り起こしてしまった。ナーバスになっていく己を叱咤するように、高歩はガラスに映る自身に向かって睨みつける。
 やがて電車はゆっくりと停止し、ドアが開く。ガラスに映った自分が消え、高歩は押されるようにしてホームに下りた。