月影

chapter 40


 健が指定した居酒屋は、駅から少し離れた雑居ビルの地下一階にある。表立った看板もなく、いかにも隠れ家的な店構えに、常連客は主に年齢層が高めだ。学生のようにわいわいと賑わった雰囲気で飲むのも嫌いではないが、年を取るとどうも落ち着いたものを好むようになるらしい。決して静かと言うわけではないが、常連客で固定されたような店を使うことが多くなった。
 店のドアを開けると女性店員が笑顔で迎えてくれた。忍足の名を告げれば、すぐに席へと案内される。そこで待ち構えていた健がややぁと手を振ってきた。
「おぉ、やっと来たな」
「言うほど遅れてないだろう。まだ一杯目か?」
 尋ねながら高歩はざっとテーブルの上に並べられたグラスを見る。軟骨や串カツ、枝豆といったつまみ以外はビールの中ジョッキが一つだけある。中身は既にほとんど残っていない。
「次で二杯目だ。お前も中生でいいよな」
 健は、高歩が頷けば、すかさず店員に声を掛けた。高歩は先に渡されたお絞りで両手を拭い、汗が浮かぶ首周りも一緒に拭いた。
「会うのってどれぐらい振りだっけ。先月も先々月も予定合わなかったよなぁ」
 彼の顔を見るのがひどく久しぶりな気がして、高歩が言うと、健は首をかしげて指を折りながら数え始めた。
「んー? 先月はマナが熱出しただろ。先々月はお前が研修でダメだったし。その前はオレが出張で、その前が……」
 指を折るたびに健は、いい加減数えるのがバカらしく思えてきた。顔を歪ませて「まーいいじゃん」と投げた。
 高歩は小さく笑ってしまう。そういうところは学生時代からずっと変わらない。
「そういやマナミちゃんは元気? もう小学生だっけ」
「ああ、元気も元気。誰に似たんだか口が達者になってさぁ。いや、もともと達者だったけど、学校に入ると色々覚えてくるんだよね。もう口じゃあ勝つ自信ねーよ」
 心底うんざり、というふうに項垂れる健は、まだ20代とは思えないほど哀愁漂う父親を思わせた。高歩は苦笑を浮かべる。まだ結婚すらしていない高歩にはその心境は理解しがたいが、同情はできる。
「それはすごいな。俺が会ったのはまだ1歳にもなってなかったけど」
「そうだっけ? んじゃあ今度ウチに来いよ。すげーぞ? 女は生まれた時から女なんだなって思うぜ。高歩なんか良いエサになるだろうな」
「エサって……」
「いや、まじまじ! マナの好きな男のタイプにお前当てはまるもん。顔がイイのは前提としてさ、長身で細い目の醤油顔」
 高歩は思わず苦笑を深めた。
 健は反応に困っている高歩に気づいているのか否か、そのまま顔をしかめて話を続けた。
「なんだっけ。ジャニーズでさ、そういう奴がいるんだけど。もう二人してスゲェの」
 そこへちょうどジョッキが二つ並べられた。健はすぐに二杯目に口を付ける。乾杯も無しなのはいつものことだ。
「二人っていうと」
「そ。カヨコも一緒になって騒いでんだよねー。寝室なんてポスターだらけ。面倒だから文句は言ってないけどさぁ」
 カヨコは健の妻だ。高歩も彼女はよく知っている。二人は高校の頃からの付き合いだと聞いていた。卒業を控えた大学4年の時、カヨコがマナミを妊娠し、学生結婚をしたのである。でき婚は離婚率も高いと聞くが、その点、この忍足夫妻は仲良くやっている方だろう。飲み会と称して健が高歩を呼ぶのは、大半が家での愚痴を言うためだ。捌け口を用意することで彼らが幸せにやっていけるのなら、高歩は苦笑を浮かべつつも嫌な顔をせず、甘んじて聞き役に徹する。
「んで、高歩はどうなわけ?」
 不意に顔を上げた健が高歩に話を振った。何が? と高歩は首を傾げる。
「カノジョだよ、カ・ノ・ジョ。そういう話全然聞かねーし。もう来年三十路だし。どうなんだよ、その辺」
 ああ、と高歩は納得して頷いた。30代を迎える一歩手前まで来て、浮ついた話を一切しない高歩を心配しているのだろう。しかし残念ながら、今のところ高歩に恋人を作る気はなかった。教師という職場上、土日もあってないようなものなので、恋人を作る暇も場もない、というのも要因かもしれない。
「どうもこうも、出会いすらないからね」
 肩を竦める高歩に、健は疑うような眼差しを向ける。その視線を受けて、一瞬、高歩の脳裏に和葉の存在が浮かんだ。が、すぐに消した。
「じゃあさ、オレがセッティングしようか? そういうの得意な奴、同僚にいるからさ」
「いいよ。それに今は仕事の方が楽しい」
 高歩は言って、否定の意味で手を横にひらひらと振った。
 健は、高歩は柔らかい雰囲気を持つ反面、頑なな意思を持っていることも知っている。だから彼が否と答えれば、誰がなんと言おうと、高歩の答えは否でしかないのだ。そっと小さく溜め息を吐く。
「仕事……ね。ああ、そういや去年、お前警察に行ったんだよな。あの非行少年はどうしてる?」
 健は唐突にそのことを思い出した。健としては大した興味もなかったが、話のタネとしては良いものに思えた。
「うん? 元気にやってるよ。俺によく懐いてくれてる。喧嘩もしなくなったしな」
 そう言って高歩が柔らかく微笑んだから、健は素直に「良かったな」と声を掛けることが出来た。
「高歩も先生らしくなったじゃん」
「そうか? まだまだだよ」
 高歩はぐいっと口いっぱいにビールを飲み込んだ。
「いやいや、よくやってるって。非行少年を更生させたんだろ。すげぇよ、まじで」
 健が真剣に言ってくれていることが分かって、高歩は戸惑ったような笑みを浮かべた。そんな立派なものではない、と高歩は思っている。
 手加減をせずに殴ったため相手を病院送りにしてしまい、警察沙汰になったのは事実である。しかし、知史が喧嘩をしていたのは相手から絡まれた場合だけだし、今はそういった街へ行くこともなくなったと言っていた。すべては知史が考えて行動しているのであって、高歩がどうにかしたわけでもない。何を言ったわけでもない。
「高歩さぁ、まだ“先生”に拘ってんのか?」
 頑なに謙遜する高歩に、健はそれが謙遜ではなく高歩の本心からの言葉だと気づいた。そしてそれがどこから来る言葉かということに、少しだけ眉根を寄せる。健は実際に高歩の高校時代を見ていたわけではないが、高歩からは一度だけその話を聞いたことがある。10年経った今もはっきりと覚えていた。それほど、当時の高歩の“先生”に対する思いは強かった。
「別に拘ってるつもりはないけど……。いや、拘ってるのかもな。あの人は俺の目標だから」
 高歩は今も彼女の影を追い続けている。健にはそれがなぜか痛々しく見えた。もういない人の影を追うのは果てしなく、いずれ高歩が疲れて壊れてしまうのではないか、と漠然と不安になるのだ。
 だからと言って高歩に「もういいじゃないか」とは言えない。高歩がそうであるように、健もまた10年来の友人の性格をよく分かっている。
 健はもうこの話は続けるべきではないと判断した。
「あ、そうそう、聞いたか? 風戸さんの話」
 咄嗟に思い浮かんだのは、つい最近人伝に聞いた噂話だ。本当かどうかは分からないが、きっとこれは高歩にも興味深い話に違いない。塞いだ傷口を抉るようなものかもしれないが、悪い話ではないはずだ。
「ん? 優比(ゆい)さんがどうかしたのか?」
 思ってもいなかった名前が挙がり、高歩は素直に驚いてみせた。風戸優比は学生時代、健に誘われて入ったサークルの先輩だった。色々とあって高歩と恋人という関係にもなったが、彼女が卒業と同時に呆気ないほど簡単にその関係はなくなった。
「あの人さ、一時期音信不通で軽く行方不明だったじゃん」
「ああ、そうだな。杉浦さんから俺の所に連絡来てたくらいだしな」
 健の言う“行方不明”という言葉は大げさでも何でもなかった。彼女が行方を晦ました、と彼女と同級生だった杉浦から高歩のところへ連絡が来たのは、高歩らが卒業した翌年だった。元恋人だった高歩なら居場所を知っていると踏んだらしい杉浦だったが、生憎高歩は彼女が音信不通になっているということすら知らなかった。それから5年以上誰も彼女とは連絡が取れないでいた。
「それが最近、こっちに帰ってきてたみたいなんだよな」
 意味もなく声を潜めて健が打ち明けた。
「帰ってきてた、って?」
 引っかかった言葉に高歩は首を捻る。それには健も同意し、一つ頷いた。
「いや、なんでも海外に行ってたらしいんだよ。どこかまでは分からないんだけど、とにかく5年くらい向こうで暮らしてたみたいだって話だぜ」
「海外……」
 それは突拍子もない話だとは思うが、しかし彼女の話として聞けば、それほど驚くようなことでもないと思えた。何しろ学生時代から彼女の逸話はいくつもある。誰にも何も言わず“行方不明”になるくらいなのだ。
「そう、海外。そりゃあ音信不通にもなるって話しだろ? けど風戸さん、英語も碌に話せてなかったのに、あの人の行動力ってどこから来るんだろうな」
「さぁ。優比さんの考えてることは、俺には全然分からなかったよ」
 当時を思い出しながら、高歩はジョッキに口を付ける。それこそ、なぜ優比と自分が恋人になったのかも未だに分からない。そういえば初めに付き合おうと言ってきたのは優比の方からだ。あの時は流されるまま関係を持ってしまったけれど、別れるときも唐突で呆気なかった。彼女はどういうつもりだったのだろうか。
「それで、優比さんは今も日本に?」
「ああ。しばらくはこっちにいるらしいって話。まっ、どこまでが本当か分からないけど」
「ふぅん」
 僅かに興味を示した高歩に、にやりと健は笑みを作る。
「もし偶然に会ったりしたらさ、元鞘に収まったりして?」
 健の発想に高歩は肩を竦めるしかない。ことごとく彼の期待を裏切るようで申し訳ない気もする。
「それはないよ」
 彼女のことだ。きっと再会しても当時を懐かしむだけで、関係を戻すことなどあり得ない。彼女は一度離したものは二度と手にしない人だった。壊れたカメラを捨てた時も、買い換える際に同じ機種のものは初めから候補に挙げなかった。おそらく自分もそのカメラと同じだろう。その潔さは彼女の魅力の一つであったかもしれないが、高歩には理解できないでいた。
「でも美人だったよなぁ、風戸さん」
 うっとりと呟く健に高歩は呆れつつ、それは事実だったので頷いた。
「オレのもろタイプだったんだよなぁ」
「それでカヨコちゃんと何度別れ話になったんだっけ?」
「うっ……それはもう言うなよ……」
 顔を歪めて睨んでくる健に高歩は笑い返し、二杯目のビールを頼むために店員を呼んだ。