月影

chapter 41


『僕の学校もやっと夏休みに入りました。生徒達は休みでも教師は研修やら新学期の準備やらで忙しいです』
 高歩からのメールに思わず和葉は頬を緩めた。些細な事でも自分に興味を示してくれる内容を見ると嬉しくなる。和葉はいそいそと高校時分のことを思い出しながら返信ボタンを押した。
 父子家庭で育った和葉は、高校に上がってすぐにまず、料理を覚えた。中学までは学校給食があったため、父が惣菜を夕食に買ってくる日々を送っていた。父も当然、それでは成長のために良くないと分かっていたのか、休日には野菜炒めや鍋など、簡単なものは極力作るようにしてくれていた。それでもさすがに弁当を作るまでの力量はなかった。
 仕事が忙しい父のために料理を覚えるべく、さして興味も示さなかった家庭科部へと入部した。文化系部によくある緩い部活内容で、調理、裁縫の他に、女子がほとんどの部だというのに日曜大工のようなことまでやった。考えてみれば進路を決定したのも、そういった中で経験した“作る”ということに興味を覚えていったからだと思う。料理よりも裁縫よりも物を組み立てる日曜大工が、和葉は一番好きな部活内容だった。
 他に好きなことは何だったろう、と考えて思いついたものは、古典の授業だ。高校1年の時に習った『竹取物語』の授業が一番記憶に残っている。『竹取物語』の冒頭部分は中学時代にも覚えさせられたものだが、やはり和葉が古典と聞いて思い出すのはなぜか、高校の時に習ったそれである。中でも、月の仕えが来てかぐや姫が心を失くす場面が印象的だった。
 月は人を惑わす存在だったのかもしれない。――場面の解説でそう言った当時の教師の言葉が忘れられない。
 今では地球の周りを回る衛星の一つでしかないのに……。
『夏休みは先生も休みだと思ってた普通の女子高校生でしたよ^□^ そういえば顧問の先生が田植えの時期で忙しいからって部活が中止になったことがありました(笑)』
 結局、色々思い返してみたものの、碌な思い出はなかった。毎日をなんとなく過ごし、誰かを好きになったりすることもなかった。無気力な高校生活だったなぁ、と今更ながら後悔してみる。その点では知史は積極的なタイプだ。彼が羨ましくなった。知史ならこういう時、高歩にたくさんの話ができるだろう。
「顔がニヤけてんぞー」
 不意に声がして驚いた。和葉が顔を上げれば、目の前には缶コーヒーを手にした大典が立っている。休憩がてら自動販売機でコーヒーを買いに来たようだ。自販機は社内では休憩室であるここにしかない。高歩からのメールに締まらない顔をしていたところをばっちりと見られたらしいと分かると、和葉は思わず頬を赤く染めて照れたように睨みつけた。
「う、うるさいなぁ」
 和葉が邪険にするような口調で言えば、大典はさらにニヤニヤと意地悪く笑う。
「上手くいってるみたいじゃん。良かったな」
「何が……」
 素直に「うん」と頷くのも尚更照れくさく思え、和葉はらしくなく口篭った。そういった彼女の反応は可笑しく、大典の笑みを深めるだけだったが、彼は何も言わなかった。
 突然手に持っていた携帯が振るえ、和葉が大げさに慌てる。誰から、なんて聞かなくとも大典には想像ができた。
 案の定それは高歩からの返信で、珍しく早い反応に和葉は胸が高鳴る。おそらく夏休み期間で、今がちょうど昼休憩の時間だからだ。
 真剣な表情で次は何と返そうかと悩む和葉を見下ろし、大典は掌で持っていた缶コーヒーをくるりと回した。
「いい加減にしとけよ。もうすぐ昼休み終わるぞ」
 言っても彼女が聞いていないことは、彼女の表情を見ればすぐに分かった。
 大典は小さく肩を竦め、何も言わずにその場を離れた。
 危うく休憩時間を過ぎそうになり、和葉が自分の席に戻れたのは正に秒針が「12」のところへ差し掛かる手前だった。少しだけメールに真剣になりすぎたか、と2回目の反省をする。1回目は数日前の朝、同じくメールに真剣になりすぎて目的の駅を降り過ごしてしまったところにある。すぐにその事態に気づき、1駅先の駅で降り、Uターンした上で駅から会社まで高校時代の体育の授業以来のダッシュを見せたおかげで、なんとか遅刻にはならなかった。だが、もう二度とあんなしんどい目は遭いたくない、と朝の電車でメールの返信を打つのは止めようと決めたのだ。
 少しだけ……いや、かなり浮かれているのだろうと思う。高歩と会わなくなって、会話らしい会話が数時間おきのメールだけになったのだが、その分だけ言葉が厳選されて濃い時間を過ごしているような錯覚に陥る。

 ある日、和葉は猫を見つけた。家の近くにあるコンビニへ向かう途中の路地裏で見つけた、野良猫だ。普段は気にも留めない道の端でこちらを見上げる子猫が視界に入ったのは偶然の他でもない。少し迷って、和葉はさり気なく猫の方へと足を向けた。
 怯えた様子も逃げ出す素振りも見せない子猫に気を良くし、和葉はさらにその距離を縮める。野良猫にエサをやるのは危険だと昔誰かに言われたことを思い出して、まぁ食べられそうなのも持っていないからいいか、と子猫に視線を合わせるようにしゃがみこんだ。相変わらず逃げ出さないところを見れば、この猫の人馴れした性格がよく分かる。ふと思いついて和葉はポケットから携帯電話を取り出した。暗さに四苦八苦しながらも焦点を合わせてシャッターを切る。カシャリ、と音が鳴った途端、猫は驚いて飛び上がった。そしてそのまま路地の置くまで逃げていってしまった。
「あー……」
 和葉は目の前の猫がいなくなってしまって落胆する。しかし、携帯で撮れた画像を見て、まぁいいかと立ち上がった。周りが暗くて良い出来だとは思わないが、黒い毛並みにきらりと光る瞳が映る子猫の可愛らしさは充分伝わるだろう。
 データフォルダに保存した子猫の画像を待ち受け画面に設定して、和葉は本来の目的であったコンビニへと再び向かうことにした。
『子猫発見しました! 野良だけど人懐こそうです』
 早速高歩へメールを送る。返事は日付が変わる頃に来ていた。
 翌日もまた、和葉は猫を見つけた。声を発することもなく、堂々とした態度でそこに佇む黒猫に和葉は興味を引かれ、そろそろと近づいていく。くわぁ、と猫が欠伸をしたところを、和葉はすかさず携帯のカメラに収めた。カシャッとなる音に猫は驚き、足早に背中を向けて路地の奥へ姿を消していった。やはりカメラは嫌いなのだろうか。
『子猫発見しました!A 人間には慣れてるみたいですが、すぐに逃げられました』
 コンビニへ向かうまでに高歩へメールを送信した。返信に気づいたのは翌朝だった。言っていたとおり、高歩は学校が夏休みでも忙しそうだ。
 その次の日は雨が降っていた。和葉は傘を指して路地裏を目指した。
「んー、やっぱりいないかぁ」
 まさか雨の中子猫が居るとは思っていなかったが、実際そうであると確認するとどことなく寂しく感じた。少しだけ屈んで路地の間を除いて見るも、鼠一匹いそうにもない。和葉はすぐにでも諦めて腰を上げる。仮に子猫が雨の中に居たとしても、動物の飼育を禁止している自分のアパートに連れて帰るわけにも行かず、結局はどうすることもできなのだ。これで良いのだと思うしかなかった。
 はぁ、と小さく溜め息を吐く。雨の所為か夏にしては僅かに寒くなってきた。
 ぶるっと体を震わせたとき、不意に思いもしない声を耳にした。
「そんなところで何やってんの?」
 和葉は突然声を掛けられ驚いた。振り向くとビニール傘を差した知史がキョトンと首をかしげている。
「新居くん!」
 まさか知史がここに来ているとは思わなかった。引越し先の住所は高歩から伝えてと言ってみたが、それから何も音沙汰はなかった。もともと知史とは頻繁に交流していたわけでもないから、引っ越したからと言って知史が自分のところへすぐに姿を現すとも思っていなかったのだ。来たとしてもそれは随分先の話だと思っていた。
「新居くんこそどうしたの? もしかしてあたしに用があった?」
 来ないとは思いつつも、来てくれたのならそれはそれで嬉しい。和葉は予想外の彼の出現に、知らずテンションが上がっていた。
「いや、そこのコンビニに行くとこだっただけだし」
 嬉しそうに笑みを浮かべる和葉に、知史は顔を顰めて数十メートル先の24時間営業のコンビニを指差す。和葉もよく利用しているコンビニだった。
「え、うそ。もしかしてこの近くに住んでたりする?」
「そうじゃねーよ。ダチの家に寄ったついでだ」
「あぁ、そうなんだ? よくこっち来るの?」
 和葉は素直に疑問に思ったことを口にしただけだ。しかし知史はなぜか焦ったふうにうろたえた。
「今日は偶々だっ」
 やけにぶっきらぼうに答える知史だが、和葉はキョトンとしただけで深くは考えなかった。彼が和葉に対して挙動不審なのは今に始まったことではない。知史が必要以上に警戒した態度を見せるのは、きっと自分を快く思っていないからだということは、否応にして理解している。……悲しいことだけれど。
「ねえ。良かったらご飯でも食べていく?」
「え!?」
 今度は知史が思ってもみなかった言葉に驚愕した。一瞬和葉が何を言ったか理解できなかった。
 和葉は何気ない表情で知史を見ている。そこに何の思惑もなかった。強いて言えば、いつまでも敵対心を抱えられるよりは、少しでも友好的に接して欲しくなった。
「昨日作ったシチューが余ってるんだよね。クリームシチュー、嫌い?」
「いや……嫌いって訳じゃないけど……、良いのかよ?」
 知史は正気かと疑うような眼差しで和葉を見る。彼女にはその視線の意味が分からなかったから、言いよどむ知史を不思議そうに小首を傾げて見せた。知史は和葉を見かけたとき以上に顔を歪ませた。高校生といえど一人の男を簡単に部屋に上がらせるとは――どうなんだ。知史は和葉が也人に迫られた時のことを目の当たりにしていたから、彼女が下半身の緩い女とは違うことをよく理解しているつもりだ。だからきっと和葉が天然なのだろう。
 分からないのなら、分からせば良いのだろうか。知史はそんなことを考えて、とりあえず頷いてみた。
 知史の返答にどこか嬉しそうにする和葉を見つつ、今まで高歩のことで目の敵にしていた彼女を改めて観察する。おそらくどこまでも無防備に違いない。