月影

chapter 42


 新居に初めて招いたのが自分を快く思っていない知史だというのも、なんだか不思議な縁があるような気がして、和葉は気恥ずかしいような違和感を覚えた。
 和葉としては少しでも知史との仲を良くしたいと思って誘ってみたものの、すぐに断られることを覚悟していた。だが予想に反して、渋々ではあるだろうが、知史がそれに乗ってくれたところを見れば少しの期待はするというものだ。僅かに緊張した面持ちでオートロックのドアの鍵を開ける。後ろからついてくる彼は特に何を言うわけでもなく、静かに和葉のあとに続いて来た。
 以前のアパートよりも僅かながら広くなったリビングに知史を通した和葉は、そのまま寛いで良いから、と告げる。そうした和葉はキッチンへ入り、冷蔵庫からシチューの入った皿を取り出すと、電子レンジへと入れる。知史に言った誘い文句は嘘でも何でもなく事実だった。作りすぎたクリームシチューは一人で食べるには多すぎた。
 それでも二人で食べるには少ないと思い、メインをシチューとしてサイドメニューを作ることにする。と言ってもせっかく来てくれた知史を待たせるわけにはいかないので簡単なサラダくらいしか作れないのだが。
 テーブル前に腰を下ろした知史は、しばらくテレビのチャンネルを勝手に回していたが、どの番組も魅力的に感じられず電源を切ると、離れて姿の見えない和葉に声を掛けた。
「ていうかさぁ、なんで俺を呼んだわけ?」
 知史からすればそれは当たり前すぎる疑問だった。自分で言うのもなんだが、彼女に対して好意的な態度を見せていないにもかかわらず、の彼女の言動はよほどのバカかお人好しとしか言えないもので、絶対に知史には真似できるものではない。
 大袈裟に言ってしまえば、理解の範疇を越えていた。
「うん? 何でって言われても……新居くんの友達がこの近くっていうのも何かの縁だと思わない?」
 のんびりとした和葉の答えに知史は思わず呆れてしまった。たったそれだけのことで?
 駅からそう離れていないコンビニの途中で和葉を見つけたのは偶然だということは本当だったが、なぜ知史がここに来たかというのは和葉に語ったそれとは異なっていた。つまり、友達の家に寄った帰り、というのは嘘だった。そもそもこの駅の近くに住んでいる友人などいない。
 ただ、その嘘を和葉にバラす気は微塵もなかった。嘘を吐いたと言えば、なぜ嘘を吐いたのかという話になるのは必至であり、その理由が知史自身馬鹿馬鹿しく恥ずかしく思っているからに他ならない。
 黙ってしまった知史に、和葉は今の答えで納得してもらえたのだろうと解釈し、特に気にしなかった。
 そうしている内に即席サラダも完成する。ドレッシングが青じそしかなかったため和風サラダになってしまったが、シチューに合わないこともないだろう。前回知史に唯一褒めてもらったのはお浸しだが、さすがにシチューの隣に添える品ではない。
 二人分のシチューと、一枚の皿にサラダを大盛りにして持っていく。生憎フォークとスプーンは一本ずつしかなかったので、箸と、以前コンビニで入れてもらったプラスチックのスプーンを自分用に用意した。
「いただきます」
 和葉は丁寧に両手を合わせて食前の挨拶をする。知史は何も言わず食べ始めた。
 知史が一口シチューを飲み込む。
「どうかな? 口に合う?」
「ん。フツー」
 知史は素っ気無く答えただけだったが、和葉はホッとした表情を浮かべ、ようやく自分も食事を口にし始めた。
「そういえば今はもう夏休みなんだよね」
 知史がシチューを半分ほど腹に収めた頃、和葉がそんなふうに話題を切り出した。
「筵井さんは教師にはあんまり休みがないって言ってたけど、部活もしてるのかな?」
 高歩の名前を出すと、知史はサラダを摘みながらチラリと和葉へ視線を向けた。彼が反応してくれたことに和葉は嬉しくなる。
「陸上部」
「あ、そうなんだ。経験者なのかなぁ」
「副顧問だけど」
 言外にメインで見てるわけではないということなのだろう。和葉は納得したように頷いた。
「新居くんは部活入ってるの?」
 和葉が尋ねると、知史は嫌なものでも見るように目を細めた。
「俺が入っているように見える?」
 聞き返されてしまっては、和葉は困ったように笑みを作るしかない。
「でも部活でもないと、休みに入ると筵井さんに会えなくなっちゃうね」
「なんで?」
「え」
「なんでアンタがそんなこと言うの」
 鋭い口調で問われ、和葉はたじろいでしまう。特に他意はなかった。ただ和葉自身が高歩に会えないから、勝手に知史と重ね合わせてしまったのかもしれない。自覚したことはなかったけれど、それくらいには和葉は高歩のことが気になっていた。
「いや、ただ、会えないなと思って……」
 それだけだとでも言いたそうな、困惑した表情を浮かべる和葉を見て、知史は到底信じられなかった。
 最初から彼女のことは、知史にとってあらゆる意味で理解できない存在だった。
「アンタさ、忘れてるんじゃない? 俺がアンタに言ったこと」
 知史が悟らせるように言う。だが和葉は首を捻るだけだった。本当に忘れてるのか、と呆れるよりは腹立たしくなってくる。自分にとっては何よりも重大な事を、彼女は微塵ほども意識していないと言われているようで。独り善がりな牽制だとは重々承知していたけれど。
「俺は先生が好きだ。先生の隣につく女も俺が認めたヤツじゃないと納得しねぇ。んで、俺はアンタを認めてない。だからこの前、好きになるなって忠告したろ」
 和葉は引っ越す前に、アパートの前で立っていた知史の姿を思い出した。
「それなのに『会えなくなっちゃうね』なんて、何でアンタが言えるんだよ。『会いたい』って思ってるってことじゃん、それ」
 不機嫌な表情を隠そうともせず、むしろ全面に出して睨みつけてくる知史の視線に耐えられず、和葉は俯いた。
 しかし知史の言葉を否定することもしなかった。
 カチャカチャと食器が鳴り、食事をする音だけが部屋を包む。それからは前回と同様、互いに何を話すわけでもなく沈黙を保った。
 途中までは一言だけだったが返事をしてくれ、会話になっていたように思う。和葉が高歩の名前を出したのは、前回も知史が反応を返してくれたのが高歩のことだったというだけだ。そこから知史の話題に入ろうとして、どうしてまた高歩のことで彼から睨まれるようになってしまったのだろう。
「ごちそうさま」
 食事が終わり、食器をシンクまで持っていく。さすがに食べただけでは悪いと思ったのか、知史も自分が口を付けた分はキッチンまで持ってきてくれた。相変わらず無言でぶっきら棒な知史だったけれど、和葉は努めて笑顔を向けた。
「ありがとう」
「……」
「そ、そうだ。もう遅いし、雨も凄いし、泊まって行ったら?」
「……えっ」
 さすがの知史でも思わず声を上げて驚く。僅かに仰け反った知史は正気かと和葉を見た。
「雨が、ね、酷くなってるから。朝には止むだろうから、泊まっていったら良いよ」
 所々つっかえながら言う和葉は、洗剤を付けたスポンジで食器を必死で洗っている。あえて視線を合わせないようにしている姿がありありと見て取れ、彼女なりの気遣いなのだろうとは思う。確かに窓を叩く雨の音は強くなっているようだ。しかしその意図が分からない。知史は今まで彼女を責めていた存在である。どうしてそこまで気遣ってもらえるのか、知史には分からなかった。
「これくらいの雨、どうってことねーよ」
「でも……」
 言いよどむ和葉はそろり、と知史を見上げる。本当に何も分かってないんだな、と知史は思った。
「アンタさ、いったい何がしたいんだ」
 知史は言うなり、食器を洗い流していた和葉の手首を掴み、蛇口を捻って水を止める。いきなり手首を掴まれた和葉は驚いて声も上がらない。
 そうしているうちにも知史は強引にキッチンから連れ出すとリビングから繋がる寝室に入った。和葉が「あ」と思う間もなくベッドの上に放り投げられた。だが掴まれた手首はそのままで、和葉の頭の上で固定された。知史が片足でベッドの上に乗ってきたため、完全に組み敷かれた状態になる。和葉はまさか知史がこんなふうにしてくるとは思いもしなかった。
「ほら、簡単にこうやって犯すことも出来るんだ。前のストーカーみたく、犯されたっておかしくねーんだぞ」
 知史は低い声で告げる。和葉は目を見開いたまま知史を見上げていた。
「なのになんで簡単に俺を部屋に上げるんだ。その上泊まってけって? もう少し警戒心持った方がいいんじゃねぇの」
 ぐっと鼻先が触れ合うまで顔が近づく。和葉は驚愕と恐怖と困惑で息が上がる。どうして心臓が煩いのか分からなくなりそうだった。それでも唇は触れてこない。それだけは分かっていた。
「……でも」
 震える声を絞り上げて和葉は言った。本当は全身が震えていて、知史も気づいているはずだった。
「でも新居くんはそんなこと、しないでしょ」
「は?」
 意味が分からないという目で知史は和葉を見つめる。近づけていた顔を上げて、改めて距離を取った和葉を見下ろした。
「新居くんは無理矢理……なんて、しない。泊まってって言ったのは、仲良くなりたいと思ったからだよ」
「……」
「失敗しちゃったけど。嫌な思いさせてばっかりで、ごめんね」
「……」
「前に怪我した時、頼ってくれて嬉しかったんだ。だから今日会った時、またあの時みたいにって思ったんだけど。迷惑だったね」
 ごめんね、と謝る和葉は泣きそうな顔をしていた。かといって濡れそうな瞳を拭ってやることもできず、知史は拘束していた彼女の手首を離した。内心ではバカじゃねーの、と毒づく。そう思う知史の表情も痛そうに歪んでいることを、彼自身は気づかなかった。
「なんで俺がアンタに手を出さないって分かるんだよ」
「なんとんく、かな」
「はぁ?」
「前に助けてくれたし、本当は優しいんじゃないかなって」
「……ああいうの見たら、誰だってそうじゃねーの」
「うん、そういうところとか」
 にっこりと和葉に微笑まれて、知史は気まずそうに視線を逸らした。ベッドに組み敷いていた和葉の体を起こすと、悪かったな、と呟くように言った。和葉にどうにか聞こえる声だった。

 翌朝、知史が目を覚ますと、ベッドの上で寝ていた和葉の様子がおかしいことに気づいた。
 何事かと慌てて見れば、真っ青な顔色をした和葉が額に大量の汗を掻き、苦しげな表情を浮かべていた。明らかに風邪から来る発熱を起こしている。知史は部屋の勝手が分からなかったものの、タオル一枚を見つけると、和葉の汗を拭いてやる。その内にゆっくりと和葉の瞼が上がる。目を覚ましたようだ。
「だ、大丈夫か?」
「ん……。ねぇ、そこの、引き出し」
 和葉も起きるとすぐに自身の異変に気づいたらしく、唸るように起き上がり、手前の箪笥の引き出しを指差した。知史がそれに従って引き出しを開けると、なるほど、体温計があった。
「ありがとう」
 知史から体温計を受け取った和葉は知史が見ている前で肩を肌蹴させ、服の下へと体温計を潜り込ませた。知史は慌てて背を向ける。
 和葉は体の不調からそんな些細な事にも気づかないのか、変わらない口調で知史の背中へと声を掛けた。
「新居くん。もう帰ったほうがいいよ。うつっちゃうし」
「いや、でもさ」
 いくら目の敵にしていた相手とはいえ、病人に対して放っておくわけにもいかない、と知史は和葉の申し出を拒む。しかしだからと言って何をしたら良いのかも分からない。とりあえず風邪薬は必要だろうと思いつくくらいだ。
「薬はあるのか? なんなら買ってくるし」
「大丈夫。薬も買い置きあるし、飲み物もそろってるから。だから帰って、ね?」
 知史がそれでも、と言おうとして振り返ると、体温を測り終わった和葉がベッドから降りたところだった。そしてぐいぐい、と知史を帰すため、外へ押しやる仕草を見せる。実際は和葉の体に力は入らず、知史に大した動力も働きかけていないのだが。
「ね、帰って。本当にうつっちゃうよ」
 そうして強引に知史を玄関の追いやろうとしている和葉に、知史もとうとう従うことにした。
「やっぱり……バカだ」
 玄関の外、閉じられたドアの前で、知史は人知れず呟いた。