月影

chapter 43


 和葉からのメールが来なくなった。
 最後に来たのは2日前で、猫の写真が添付されていたメールの返信の返信、というものだった。ちょうど週末でもあったし、高歩は高歩で陸上部の大会や講習会の準備などで慌しくしていたため、メールの確認がおざなりになっていたというのもある。それでも一日に一度はメールを送っていた。が、立て続けに送ったメールのどちらにも返信がないとなれば、さすがの高歩もおかしいと気づく。何かあったのだろうか、と勘繰ってしまうのも仕方の無いことなのかもしれなかった。
 だからと言って彼女の家に直接訪ねていくことも躊躇われ、電話をするにも時間の都合がつかず、そのままになっている内に2日が過ぎていた。
 ……いや、電話はしようと思えばできたのかもしれない。それでも何かと理由をつけて――まだ仕事が終わってないのかもしれないだとか、寛いでいるところを邪魔したら悪いのではないだろうかとか、もう寝てしまっているのではないか、だとか――避けていたのは怖かったからだ。和葉からの返信がないということの意味が、もし自分との縁を断ち切るためのものだとしたら?
 2日が過ぎたら3日目からは更にメール一通送ることに躊躇いが生じてしまった。夏休みであることを良いことに、気づけば傍らに置いている携帯電話を眺めてしまう。いつメール受信を知らせるランプが点滅するかと待つ己が居て、柄にもなくそんなふうになってしまう自身に溜め息を吐かずにはいられない。
 集中できずに、高歩は諦めて姿勢を崩した。立ち上がって窓を開ければ蝉の鳴き声が煩く重なって聞こえてくる。夏だと実感せざるを得ない日差しも相俟って、頬へ流れる汗を拭うと顔を顰めた。グラウンドを見下ろせば部活動に励む生徒達の掛け声や、テニスコートからはボールが弾かれる音が軽快に聞こえてきた。時計を見やり、経験者でもない高歩がしてやれることはないが、少しだけ陸上部に顔を出そうかと考えた。必死に練習をしている生徒達には悪いが少しは気分転換になりそうだった。
「あ! やっぱり先生居んじゃん」
 唐突に後ろから声が聞こえ、振り返れば見慣れた顔が2人並んでいた。
「なんだ、お前ら。何か用か?」
 戸を開けたのはおそらく知史だろう。「それがさぁ」と話しながら許可もなくずかずかと入ってきて、後ろから水藤が続いてきた。知史が勝手に入ってくるのはいつものことなので高歩は何も言わず彼らと体を向き合わせた。知史がどっかりと指定席と化しているソファへ腰を下ろすと、水藤も続いて遠慮がちに座った。
「今日数学の補習だったんだけどさ、宿題終わりそうに無かったから先生んトコでやろうと思ったんだよ。なのにイケトーのヤツ、今日先生は来てないから帰ってからやれって言ってさぁ」
 イケトーというのは彼らの数学担当の教師だ。氏名を略されてイケトーと生徒間で呼ばれているようだが、それを教師である高歩の前で堂々と言いのける知史に、僅かに高歩は顔を険しくした。一瞬注意しようかと思ったが、知史の機嫌が悪くなるのも厄介なので、とりあえずは目をつぶることにする。「それで?」と話の先を促した。
「そんでとりあえず行ってみようと思って来たわけ。水藤は勝手に着いて来ただけ」
「ふうん。でもここは社会科準備室だからね、数学は教えられないよ」
「分かってるって。場所だけ貸してくれれば」
 と言いつつ、既に知史は宿題用に出されたプリントを広げ、やる気満々である。仕方ない、と高歩は無言で了承した。
「なぁ、新居。俺やっぱ帰るわ。先生にも迷惑だろうし」
 意気揚々と道具をテーブルに広げる知史に、水藤は遠慮がちな態度を崩さずに言った。知史はキョトンと小首を傾げる。水藤が高歩に気を遣う素振りを見せることが意外だったようだ。
「そうか? まぁ俺はどっちでもいいけど」
 知史にしてみれば、高歩に言ったように水藤が勝手に着いて来ただけだ。自分に断らずとも嫌ならば帰ればいいと思っている。
「うん。じゃあな。また明日」
「おう」
 補習は1週間あるから、少なくともあと4日は水藤と教室で顔を合わせることになる。
「結局水藤は何しに来たんだ?」
 一旦ソファに座ったというのに、さっさと準備室から出て行く水藤の背中が見えなくなると、高歩は思わず呟いていた。
 しかし知史は水藤を特に気にすることもなく早くも一問目へと取り掛かる。知史にはなんとなくだが水藤の行動の意味に気づいていた。直接本人に言われたわけではないからそれが真実かどうかは分からない。しかし、水藤なりに心配してくれているのだと思うくらいには、彼との交友関係は築けていると知史自身は思っている。
 実は、水藤には少しだけ、和葉のことを話した。
「あいつ、俺にカノジョができたと思ってるんだ」
 視線はプリントに向けたまま、高歩の呟きに答えるように知史が言った。
「え。どういうことだ?」
 知史に恋人が出来たことと水藤がここまで着いて来たという理由が結びつかず、高歩はそのまま問い返した。
 高歩の視線を感じ、知史は動かそうとしていた手を止め、ちらりと窺うように高歩を上目遣いで見上げる。少し言い難そうに小さく口を開いた。
「この前さぁ、あの人……乙瀬サンに会ったんだ、俺」
 和葉の名前が知史の口から出た途端、高歩は訳も分からずドキリとした。悟られまいと咄嗟に息を飲み込んだ。
「この前っていつだ?」
 特に聞く必要性はなかったが、とりあえず聞いてみた。知史の答えがちょうど最後のメールが来た日だと分かると、さらに鼓動が早くなる。なぜこれほどまでに動揺しているのか分からなかったが、冷静さを保とうと意識を集中させた。
「それで?」
「それで、なんか泊めてもらうことになって、次の日水藤達と遊ぶ約束してたからそのまま行ったんだ。で、違う路線から来たもんだからあいつらしつこく聞いてきてさぁ。つい言っちゃったんだよね、家に帰ってないこと。そしたらオンナのとこかって話しになって」
 そこで一旦息を吐いた知史は、おかしそうに小さく笑って話を続けた。
「黙ってたら俺、勝手に年上のオンナのヒモってことになってて。水藤バカだから俺が不毛な恋愛してるって、変な心配してくれてんの」
 正確に言えば心配しているとは言われていないし、どこまで水藤が真に受けているのかも分からない。しかし気遣うような視線を感じることは度々あったし、先ほどもああして高歩が居なかったら寂しいだろう、と着いて来たのだ。正直、それは嬉しいことだった。今まで自分の心配をしてくれるのは高歩だけだと思っていたところもあり、だからこそ自分でも異常だと思うくらいに彼に執着しているのだが、それとはまた別に自分のことを思ってくれている友人がいるというのは、なかなか新鮮でもあった。
「泊まったのか、乙瀬さんの部屋に?」
 言い終えてすぐに視線を自分の手元に戻した知史は、震えそうになる高歩の声に気づかなかった。
「うん。ほんとは部屋に上がるつもりはなかったんだけど。あの人警戒心無さすぎ」
「警戒心煽るようなことはしてないだろうな?」
「なにそれ」
「乙瀬さんに手を出してないだろうなってことだ」
 高歩のらしくない直接的な物言いに、知史はムッと膨れて顔を上げた。
「手なんか出すかよ。……まぁ、何もしなかったとは言えないけど」
 内心、誰があんな女に、と毒づく。ただ、高歩に嘘を吐くことはしたくなかったから、押し倒したことは言わず、それでも遠回しにそれとなく白状した。しかし一瞬蒼白になった高歩の表情を見て、失敗だったかもしれないと後悔した。まるで高歩が自分に対して嫉妬しているようで。きっと高歩は自身の顔色のことなど、気づいていないのだ。
「最初は先生に近づくあの人に良い感情は持ってなかったけど、こんな俺にでも優しいし、よく見るとけっこうカワイイ顔してるし? チャンスがあればと思ってたからさ。そんなんで部屋に呼ばれちゃあ、何もしないってのもないでしょ、男なら」
「……本気なのか」
 普段、高歩は人の色恋沙汰に口を挟むことはないし、それが生徒のことならば尚更だ。だがそれが自分がよく知る――今回に関して言えば絶対的に知史よりも知っている人のこととなれば話は別のようだ。真意を探るように知史を見つめた。
 その高歩の視線がますます知史には気に入らない。
「気になる?」
 知史の挑発的な目に高歩は一瞬たじろぐが、視線を逸らすことはなかった。
「新居が本気なら僕は何も言わないよ。ただ軽い気持なら賛成できないな。新居も乙瀬さんが襲われたことは知っているだろう? 彼女を傷つけて欲しくないんだ」
「……」
 ふん、と鼻を鳴らし、知史は放っていた問題へ再び取り掛かる。高歩の言い方はずるいと思った。
 答えない知史に高歩は続けて尋ねる。
「本気じゃないのか?」
 知史は完全に分が悪くなったと顔を顰めた。だからと言って現状を打破できる策など思いつかない。不本意だったとしても、どうしたって高歩を怒らせることになる。意地になるか開き直るか、逡巡しなければならなくなった。
「本気で口説いて落とせるなら本気出すよ、俺」
 ゆっくりと、自分の言葉を確かめるように、知史は言った。
「新居……」
「でもあの人鈍いからね。言っても伝わんないなら手が先に出るかもしれない」
 ちらりと高歩を見上げる。
「手だけは出すな」
 知史は、高歩の拳に力が入ったことに今度は気づいた。何を我慢しているのかは知らないが、その原因が自分の言葉であると――更に言えば和葉のことであると分かるから、胸が痛む。高歩にはそんなことをしてほしくなかった。
「もう遅いよ」
「何かしたのか。彼女の部屋で何をした?」
「そんなこと先生に言う必要ないじゃん」
「嫌がることをしたんじゃないだろうな?」
 静かに感じる高歩の気迫に、知史は苛立ちと共に、どうしようもなく泣きたくなった。それほどまでにして彼に思われる和葉が羨ましかった。……分かっているのだ、本当は、それこそ不毛な思いだと。
 頑なに、胸の奥底に閉じ込めて無視していたけれど、本当は――。
「するわけないだろ。無理矢理は趣味じゃない」
「でも合意だったわけでもないんだろう」
 確かにそれはそうだ。だがここで頷いてしまっては高歩を余計に怒らせるだけだ。
「そりゃそうだけど。悪かったと思ってる。あんまり警戒心無さすぎるのもどうかと思って、ちょっと突いただけだよ」
 ぶすっとしかめっ面をしながら知史が打ち明け、とりあえず高歩はそれを信じることにした。襲われたことがあったのに、顔見知りとはいえ簡単に男を部屋に上げる和葉の行動も問題があるといえばそうなのだ。そこにどんな感情があろうとも、だ。
 そこで高歩はようやく、己の胸の奥がすっと静まるのを感じた。そのことに安堵しつつ、何が原因だったのかは、今は考えることをやめた。
「それで、乙瀬さんの様子はどうだったんだ」
「別に何もないよ。ただ、朝起きたら熱出してたから、元気とは言えなかったけど」
 ぼそぼそと答える知史の言葉に、思わず高歩は眉根を吊り上げた。
「ちょっと待て。新居、お前次の日は水藤達と遊んだって言ってたな? 熱出してる乙瀬さんを放って、出てきたのか?」
 非難する視線を向けられ、知史は慌てて首を横に振った。そこまで人でなしと思われるのは嫌だ。
「違うよ! 俺は追い出されたんだ!」
「……」
「本当だって! だから気になって上の空の俺を変に思った水藤達がどうかしたのかって聞いてくるからさ、家帰ってなくて、あんまり寝てないからって誤魔化したんだ。あの人のことをどう言っていいか分からなかったし。そんで結局俺はヒモ扱いになったけど」
 そこまで早口で捲くし立てる知史に、高歩はようやく納得した仕草を見せた。
 一応信じてくれたことに安堵の息を漏らす。
「そうか、熱を出してたのか」
 高歩も知史とは違う意味で安堵の息を吐いた。
 メールが帰ってこなくなった理由を思わぬところから知ることができてホッとしたというのが正直なところだ。その理由が新たな心配事になったとしても、危惧していたことではなくて良かったと心の底から思う。
 そして無理に電話やメールをしなくて良かったのだと安心した。きっと和葉のことだから、電話でもすれば律儀に取ってくれるのだろうが、体調の悪い彼女に気を遣わせることになっていたかもしれないのだ。そう思うと己の怠慢も彼女に正当化された気になった。
 だが、熱が出ていたとなれば、見舞いの一つでもした方がいいだろう。土日の間に体調は回復しているかもしれないが、様子を見るくらいはしないと落ち着かない。高歩はほんの数秒の間に勤務時間後の予定を素早く組み立てる。
 それはどこか、昨年の知史に対する行動にも似ていて、高歩は内心苦笑した。
 だからと言って知史が熱を出したことは一度も無かったけれど。