月影

chapter 44


「はぁ……」
 補習最終日、知史は学校から帰ってくるなり項垂れた。原因は一つしかない。高歩が明らかに挙動不審なのだ。
 きっかけは知史が和葉の熱のことを口にした日だということはすぐに気づいていた。挑発したのは自分なのだから自業自得と言えばそうなのだが、知史としては納得いかないでいる。まさか挑発に乗ってくるとは思っていなかったからだ。和葉の高歩への憧憬の念は知っていたが、高歩にとっての和葉がそこまで意識される存在だったとは思っていなかった。
 あの時は必死に隠そうとしていたようで、途中までは知史も気づかなかったが、知史が彼女に手を出したという件(くだり)で目に見えて動揺していた。そのことに知史とて少なからず驚いたのだ。
「あー、もう……、なんでなんだ」
 部屋に入った知史は、ドアを背にして蹲り、頭を抱えた。何もかも予想外だった。上手く現実を受け止められず、ここ数日は寝不足気味だ。ようやく昨夜は眠れたと思ったのだが、今日で高歩に会う口実がなくなったと実感した途端、自分のしたことに対して後悔が生まれた。
 こんな筈ではなかった。知史の考えでは和葉は高歩にとってそれほどの存在意義をなさないものだった。だから知史の挑発にも、知史に対して高歩がそうであったように大人としての対応をし、熱を出したことに心配はするとしても、ただそれだけの反応だと思っていた。だからそれを確かめたくて、それが真実だと確信したくて挑発してみせたのに。
「まじかよ」
 あれから高歩は知史に距離を取るようになった――と知史は感じていた。いつもの如く、補習が終われば復習だの予習だのと理由を付けて準備室へ行くのだが、高歩は以前のように視線を合わすことが少なくなり、勉強を見てくれるにしてもどこかぎこちない雰囲気を漂わせていた。今日に至っては用はないはずだろう、とさっさと知史を帰らせた始末だ。今までは高歩に用事が無い限りは、理由がなくとも居場所を与えてくれていたのに、それさえもなかった。
 今日は寄る所があり、早めに帰るから、と言っていたが、知史にはそれが本当のこととは思えなかった。つまり、嘘を吐かれた気がしてならなかった。高歩の嘘はさり気なすぎて分かりにくく、普段はすぐに気づかないのだが、今日はなぜだか直感したのだ。嘘だ、と。
 だが以前そうしたように高歩の後を着いていく気にもなれず、そのまま帰ってきたのだが……。
 考えるのは高歩と和葉のことばかりだ。
 しばらくして頭を上げた知史は、ゆっくりと立ち上がり、制服から普段着へと着替えた。もう補習は終わり、漸く補習を受けていた生徒にも遅い夏休みが始まった。少しくらい夜が遅くなったとしても一旦は帰ってくれば咎められることもないだろう、と勝手に決め、財布と携帯電話を掴み取るとそのまま出かけることにする。
 水藤達には連絡しない。知史が一人で向かう先は大抵決まっていた。繁華街か商店街か、あるいはカメラマンの仕事場くらいだ。

 勝手知ったる他人の家とやらで、設備されているインターホンを押すこともなく鍵を開け、杉浦がアトリエと呼んでいる彼の仕事場へと足を入れた。異変には玄関で気づく。見慣れないハイヒールがあるのだから、誰でも気づく異変だ。1ヶ月ほど通っていた中で一度も無かった事に、知史は思わず眉根を寄せた。
「あら、やっぱり約束あったんじゃない。モデルの子?」
 ハイヒールの持ち主だろうか、女性の声がして顔を上げれば、鍵の開いた音に応じて部屋から出てきたその人物が目の前に立っていた。知史は驚いて目を丸くし、息を呑んだ。彼女には見覚えがあった。記憶よりも若干年をとっているふうではあったけれども。
 間違いなく“彼女”だった。
「モデル? ……ああ、知史、来たのか」
 後ろから続いてきた杉浦は彼女の言葉に始めは怪訝な顔をしていたが、知史の姿を認めると納得したように迎えてくれた。
「あの、その人」
 驚きながらも説明を求めるように杉浦を見れば、杉浦は苦笑しながらも肩を竦めて見せた。
「前に話したことあったろ。俺の友人の風戸だ。風戸、こいつはこんな顔してるがモデルじゃないぜ。暇を持て余した、ただの高校生だ」
 やはりそうだ、と知史は改めて彼女――風戸を見た。写真で見た学生の頃のあどけない雰囲気はあまりなく、けれどその容姿は変わらず美しいままだった。杉浦の大学生時代の友人で、なぜか高歩と同じ写真に写っていた女性に間違いなかった。
 風戸も風戸で杉浦から紹介された知史をまじまじと眺める。綺麗な容姿をしているし、勝手に入ってきたところを見ててっきり杉浦の仕事繋がりの人間かと思ったのだが、彼の紹介のされ方からそれは違うのだと知る。
 高校生にしては身長も女性にしては長身の風戸と同じくらいで、そもそも肉が付いていないのか服を着ていてもその線の細さが明らかである。どこかのモデルと言われても違和感の無いほど綺麗な顔立ちをしていて、そうでないと言う知史に、風戸は自然な成り行きで興味を持った。
「モデルでもないのに、どこでこんな子と知り合えたの、杉浦? 教えてくれないなんて酷いじゃない」
 不満気な声を出す風戸に杉浦は呆れたように溜め息を吐いた。
「酷いも何も、今まで音信不通だったじゃねーか。日本に帰ってきてたとは噂で聞いてたけど、お前こそ連絡もなしに消えたり現れたり、酷いんじゃないの?」
「だからそれはさっき言ったでしょ? そんなに長く居るつもりはなかったんだって。ちょっとした旅行のつもりだったんだって」
「お前の『ちょっと』は何年だよ」
「だーかーら! こうして会いに来たんじゃないの。なのに杉浦ってば、こんなカワイイ子とデートがあるからって、冷たすぎるわ」
 親しい間柄だと一目でわかる容赦ない言葉の応酬に驚きを隠せないでいた知史だが、彼らの会話の中で知った新事実があった。どうやら風戸は長い間音信不通で行方を晦まし、今日杉浦のところへ久しぶりにやって来たということのようだ。連絡もなしに、ということだったから、今日の訪問は突然だったのだろう。杉浦も驚いたことだろうと推測する。
 それにしても、と知史は思う。以前杉浦から掻い摘んで聞いた話では、風戸という女性はかなり風変わりな人物だったような印象を受けていた。今目の前で繰り広げられている会話を聞いているだけでも、気の強いところといい、割と強引であるところといい、高歩とは到底相性の良い人間とは思えなかった。それならば一見大人しそうな和葉の方が高歩にとっては似合いの気もする。
 もし風戸と高歩が知り合いだとして、そうすると杉浦と高歩もお互いを知っている仲なのだろうか。そうであれば本当に世間は狭いものだ。
「ねぇ、あたしもサトシ君とデートしたい! 良いでしょ? 鍵を持ってるくらいなんだから杉浦とはいつでも会えるもの」
「はっ!?」
 声に出して驚愕の表情を浮かべたのは知史自身だった。ぼんやりと二人のやりとりを眺めていた中に、唐突に自分の名が呼ばれたことに驚いたのである。しかし当の風戸は知史の声も意に返さず、にっこりと美しい顔に笑みを浮かべて振り返った。
 戸惑いながらも杉浦に目をやると、突飛な風戸の言動には慣れているのか、諦めたように肩を竦めて見せるだけだ。それだけで彼女にはあまり逆らわない方が得策なのかもしれないと察した。
「俺は良いけど知史はどうなんだ? 風戸だって旦那ほったらかして大丈夫なのか」
 苦笑を浮かべて杉浦が言ったのはそんなことだった。知史は急な展開に困惑の色を浮かべ、視線を杉浦と風戸の間を行き来させる他なかった。気分転換だけのために来たというのに、誰が予想できただろうか。
「大丈夫よ。杉浦の所に寄るって言ってあるし、ちょっと出かけるだけじゃない」
「お前の『ちょっと』は信用ならねーなぁ」
「何よぉ。昔から根に持つところは変わらないわね。学生の頃に付き合ってた彼女と別れたのも、そういうところが原因だったんじゃないの?」
「アレは……っ。良いだろ、昔のことは」
 乱暴に言い放つと、杉浦は風戸の横を通り過ぎ、さっさと靴を履くと知史の横も通って先に外へと出る。知史としては杉浦の言いよどんだ元カノの話も興味深かったのだが、それは口にせずに止めた。
「ほら風戸、行くなら早くしろ。俺の貴重なオフに狙ってきやがって」
 そして杉浦は小さく知史の肩を叩き、悪いな、と声を掛けた。
「はぁい。でも言っておくけど、今日が杉浦にとってオフか仕事かなんてあたしが知るはずないんだから、勝手に恨むのは止めてよね」
 続いて風戸も足取り軽く玄関を出る。知史は慌てて二人の後に玄関を出る。この流れからして、風戸と二人きりよりはマシだろうと腹を決めるしかないようだ。

 杉浦の運転で街に出た三人だが、その主導権は完全に風戸に握られていた。
「まずは買い物ね。大きなショッピングモールがあれば良いんだけど」
「はいはい」
 後部座席から風戸が提案し、杉浦はそれに頷いて右折をするためにハンドルを切った。
 知史は風戸の隣に座らされ、広くも無い車内では肘が触れるほどに密着されていた。比較的人見知りはしない性質の知史だが、高歩との関係が分からない彼女には若干緊張していた。気になり、ちらりと視線をやれば、ばっちりと重なり合う。
「ねぇ、サトシ君は杉浦とどこで知り合ったの?」
 当然出てくるだろう質問に知史は「えぇっと」と回らない頭を懸命に活動させる。
「一回モデルをやってみないかって誘われて紹介されたのがきっかけで」
「やっぱり! でもモデルじゃないってことは、その話は断ったのよね。どうして? サトシ君みたいに綺麗な顔をしてたら、きっとすぐにファンが付くと思うけど」
 かなり直球な風戸に戸惑いつつ、知史はいつもの癖で“綺麗”という言葉に反応してしまった。しかし風戸は、知史が嫌そうな表情をしたことを見たはずなのに、小首を傾げる仕草のまま彼の言葉だけを待っているようだった。
「俺には向いてないし……興味もないんで」
「ふぅん。勿体無いなぁ」
「あの、俺からもいいですか」
 まさか知史から質問されるとは思って居なかったのか、風戸は大きめの目をパチパチと瞬きさせて、長い睫毛を揺らした。
「風戸さんは結婚されているんですか?」
「え?」
「さっき杉浦さんが、旦那がどうとか言ってたから」
 知史が言うと、先ほどのやりとりを思い出したように頷いて、風戸は肯定した。
「そうよ。と言っても式はこれから挙げるんだけどね。正確には婚約中ってところかしら」
「海外に行って男見つけて、そのまま居住してたんだってよ。んで結婚を機に日本に戻ってきたんだと」
 風戸の返答に補完するように運転席から杉浦が詳細を付け加えた。
「違うわよ。彼が日本に戻るから、一緒に戻って結婚しようって言われたの。出会ったのは海外だけど彼も日本人なのよ」
 慌てて風戸が訂正を入れるが、知史にしてみればどちらだって良かった。要はこの先彼女が高歩の前に現れたとしても、和葉のようなことにはならないと分かっただけでも充分だった。さすがに風戸相手では和葉のようにはいかないだろう、と僅かながら危惧していたからだ。小さく安堵の息を吐いた。
 そこで知史は軽く首を振る。また高歩のことを考えてしまった自分に内心舌打ちする。一時考えずに済んだ後悔が急速に蘇ってきた。
「あ、じゃあ、風戸さんはいつから海外に?」
 知史は無理矢理押し寄せてくる後悔を無視して質問を続けた。
 風戸は、気の強い強引な女性ではあるものの、話は上手く、会話の端々で頭の回転の速さを垣間見せた。きっと人間として頭の良い人なのだろうと知史は感じ、益々高歩との関係がどういうものなのかが気になってきた。しかしその糸口が見つからないまま、車は地下駐車場へ入り、停止する。
 そこから日が傾いた後も夕食だ何だとつき合わされ、知史がマンションへ戻る頃には既に叔父が帰宅していた。
 叔父とは二言三言簡単なやり取りをしただけで、知史は異常に疲労した体をベッドへとダイブさせる。目を閉じれば意識する間もなく、夢の中へと沈んでいった。久しぶりに夢を見た気がした。