月影

chapter 45


「この前は悪かったな」
 杉浦は目の前で恨めしそうな視線を寄越す知史と目を合わすことなく、淡々とカメラのレンズを拭きながら言った。
 本当にあの日は運が悪かったとしか言い様が無い。杉浦としても風戸が尋ねてくるとは夢にも思わなかった。ただ風戸と友人である自分とは違い、初対面の知史に彼女は相当強烈だったはずで、それを思うと謝らずにはいられなかった。
「あの人杉浦さんの何なの?」
 苛立たしそうな知史の声音に杉浦は頭を掻く。
 知史は風戸と遭遇したあの日、彼女と一緒に行動してそれなりに会話も交わしたから、杉浦と彼女の関係くらいは分かっていた。大学時代の友人だということもアルバムから彼女の姿を見た時に聞いていた。それでも確認せずにはいられなかった。
 知史の不機嫌な理由を知りつつも、こうしてのこのこと杉浦の前に姿を現した彼の心情を推察し、杉浦はカメラを置いた。
「そう怒るなよ。この間のは本当に突然で、俺だって驚いた――」
「それはもういいんだ。そうじゃなくて、あの人、美人だけど性格キツそうだった。モテてたのかな、やっぱり?」
「知史、お前……」
 杉浦の声に被せて言ってきた事は、杉浦が予想していたことは違って驚いた。彼の表情からして不満の声を聞かされるとばかり思っていたからだ。知史の言い回しに杉浦は可哀想な子を見る目で知史を見る。風戸が美人であることと強引な性格は、杉浦が出会った時から何一つとして変わっていなかった。
「やめとけ。あいつは人妻だぞ。というかあの性格だぞ。いくら美人だとは言え」
「ちっげーよバカ!!」
 思わず知史は座っていたソファから立ち上がった。
「あ、そうなの?」
 キョトンとする杉浦に「あたりめーだバカ!」と叫んでから、知史は再びソファに座り、背中を丸めた。
「まぁお前もそのツラなら選ぶ権利もあるだろうが……」
「だからそんなんじゃねーよ」
 そもそも知史は自分の顔に興味がなく、無論、他人の容姿にも興味はない。今まで真面目に恋人として付き合った彼女はいないが、来る者拒まずだった頃の知史の下には美醜様々な容姿の女達が寄ってきていた。しかし誰が相手でも知史は気に止めなかった。
 じゃあ何が言いたいんだよ、と杉浦が視線で促せば、知史は渋々といった感じで唇を尖らせながら言った。
「……先生が、あの人と一緒に写真に写ってたんだ」
 本当は高歩のことを言いたくはなかった。理由はないが、杉浦に言えば自分の幼い独占欲を鼻で笑われそうで、嫌だった。
「せんせい?」
 杉浦はその言葉の意味を理解するようにゆっくりと口にした。しかしすぐには頭に入ってこない。
「ああ、学校のアルバムとか、集合写真?」
「違う。二人だけで写ってた」
「その先生が気になんの? 女の人? でも結構な年いってんじゃないか?」
「杉浦さんよりは若いよ」
「えー? 誰だよそれ」
 杉浦は真剣に風戸と知史の先生とやらの関係を想像してみるが、思い浮かばない。自分より若いということは風戸からしても年下ということになる。大学時代の同年ならまだしも、年齢の違うとなればそこまでの人間関係は把握していない。知史と話しているうちに杉浦は、風戸と二人で写真に写っていたという奇特なその先生というのが誰なのか気になってきた。自分の知っている風戸の知り合いの中で教師になった人間はいたろうか、と10年以上も前の記憶を辿っていく。
「誰だっていいじゃん。それよか、やっぱり二人きりで写ってる写真ってのは恋人同士ってことなのかな」
「誰でもいいって事はないだろ。名前分かれば俺でも知ってるかもしれないし。……え、てか、先生って男なの?」
「女の人なんて一言も言ってない」
 杉浦から視線を落として答える知史を見つめながら杉浦は、そういえば、と彼と出会ったばかりの頃のことを思い出した。それでもまだ2ヶ月ほど前のことなのだが、ここに知史が来るようになって随分と経った気がするのが不思議だった。あの時は問題児を抱えているような気分で、滅多に他人を呼ばない仕事場の鍵を渡したのだ。
 随分と落ち着いたように見えていたが、根本的なところは何も変わっていないらしい。
「で、先生の名前は?」
 杉浦が尋ねる。知史はこれ以上押し問答したとして、杉浦が一向に諦める気配を見せないことが分かった。溜め息を吐いて口篭るように言った。
「筵井高歩」
 イヤイヤそうに答える知史。
 杉浦は一瞬誰か分からず、しかし次の瞬間には先程まで手繰り寄せていた学生時代の記憶がまざまざと蘇ってきた。
 筵井高歩。心の中で再度呟いた名前は、杉浦のよく知っている人物の名前でもある。
「高歩? あいつ教師になったのか!」
 驚き、声を上げる杉浦に、知史も驚いた。
「先生のこと知ってるの?」
「知ってるも何も高歩は俺の後輩で……」
 そこまで言って杉浦は口を噤んだ。知史に言った通り、高歩は杉浦の大学時代の後輩だ。友人である忍足の従兄弟が同じ大学に進学してきて、彼の誘いで高歩は杉浦の所属していたサークルへと入ってきた。
 知史は途中で言葉を切った杉浦を見つめた。高歩が杉浦の後輩ということは、やはり風戸と高歩は知り合いだったのだと確信する。
 杉浦はじっと見つめてくる知史の視線に気づいた。言おうか言うまいか迷ったが、隠しておけばバレた時に拗ねられたらやっかいであるし、拗ねられるだけならいいが逆恨みされるのは困ると思った。
「確かに、高歩と風戸は付き合ってた。風戸が卒業するまで、だったけどな」
 やはりそうだったか。知史は杉浦の告げた事実に驚きは見せず、頷いた。それと同時にやはり腑に落ちない。高歩には男より一歩後ろに下がっているような、大人しく清楚な女性が隣に居てほしいと思うのだ。知史の勝手な希望だけれど。
「それって本当に付き合ってたの? どっちから?」
「そんなの俺が知るかよ。ただ、付き合ってたのは本当だぜ」
 杉浦が答えると知史はあからさまに項垂れた。
 実際は風戸から高歩に「付き合おう」と言ったのだと、風戸自身から聞いたことがあった。杉浦としても、今の知史同様、風戸と高歩が恋人になったことが意外でたまらなかった。風戸とは大学からの知り合いだが、彼女が高歩と出会うまでで既に数人と交際経験を経ていたことを目の当たりにしていたからだ。その美貌で学年どころか学校を超えてモテていたのだ。その彼女の友人として常に傍にいる杉浦や忍足が他の男達からやっかみを受けることは当然とも言えた。
 だが、杉浦はそのことを知史に言うつもりはない。要らない不満を煽るだけだというのは今までの反応で安易に予想できる。
「じゃあさ、先生は、まだあの人のことが好きなのかな。だから未だ写真持ってるのかな」
 蹲るように体を丸める知史は、膝を抱えて呟く。もしかしたらと考えていたことではあったけれど、杉浦に否定されることを望んだ。
 しかしどこにも、高歩自身でもない限り、第三者に否定できる素材はないことも分かっていた。
「俺から見てそんなに情熱的な恋愛をしてたようには思えなかったけど、今でも大切に持ってんならそれも有り得るかもな。別れたのだって風戸が卒業するからってだけだったみたいだし」
 そして僅か数年も経たない内に風戸は海外へと出国し、音信不通になったと仲間内で話題になった。そういえばその時高歩にも行方を知らないかと連絡を入れたな、と杉浦は思い出したが、特に言うべきことでもないと記憶の棚へ再び閉めた。あの時の高歩の態度はどうだったかまでは覚えていない。出会った時から後輩としての高歩は大人しい男だった。
「知史はどうしたいんだ?」
 少しだけ声の調子を落として杉浦が尋ねてきた。え、と知史は顔を上げた。
「知史はそれを知ってどうしたいのかって聞いたんだ。高歩のことが好きだから諦めさせたいだけか? それとも自分の方へ向けさせたい?」
「は? なにそれ」
 意味が分からない、と知史は眉根を寄せた。え、と杉浦の声が漏れる。
「いや、だから、知史は高歩が好きなんだろ?」
 確かに好きだけど……、と肯定しそうになって知史は怪訝な表情を浮かべた。今の文脈からして知史の感情と高歩が思っている感情に差異があるような気がした。
「男同士だろ。冗談でも気持ち悪い」
 知史は叔父とのことを思い出して心底嫌悪する。
 本当に嫌そうに知史が言うから、杉浦は混乱した。頭を抱えそうになる手を押し止め、既に持ち上がった手は行き場を失い、額に当てた。今までの話の流れは元カノの存在に嫉妬する現カノそのものだ。無自覚なだけか、本当にその気がないのか、杉浦は分からなくなった。
「じゃあなんでそんなに高歩と風戸のことを気にするんだよ?」
 知史がただの好奇心で二人の話題を出したとは思えなかった。ただの好奇心でこれほど心痛な表情にはならないだろう。
「……先生は俺の憧れなんだ」
 躊躇いがちに告白する知史は、今まで誰にも言ったことがないことに鼓動を速くさせていた。落ち着かず、膝を抱きしめたままの手はズボンの裾を握ったり離したりと忙しない。
 不覚にも、次第に頬が赤く染まっていく知史を、杉浦は可愛いと思った。
「俺、去年は結構荒れてて、学校になんかほとんど行かなかったし、街に居て集まってくるのは不良ばっかだったから、そういうヤツらとしか遊んでなかった」
 そんな感じだな、と杉浦は納得した。今でも知史はどこか危うい雰囲気を持っている。
「ある時、いつもみたいに喧嘩を買ったら、思いの外ヒートアップして、警察沙汰になったことがあるんだ」
 杉浦は静かに目を丸くさせた。知史の顔が今でも綺麗なままだということは、彼はそれほど怪我を負わなかったのだろう。服を着ても隠せない細い体のどこにそんな力があるのだと意外で堪らなかった。しかしよくよく見てみれば、半袖から出ている腕にはしっかりと筋肉が付いているし、ひ弱な印象は受けない。色が白く全体的に細い体が相手を油断されるのかもしれない。
「夜遅かったのに先生はすぐ来てくれてさ。俺はその時初めて先生が俺の副担だって知ったんだ。それから腐ってた俺にずっと付き合ってくれて、最初はウゼーとか思ってけど、でもこんな俺の話を聞いてくれるの、先生しかいなかったから。俺――」
 途切れ途切れの言葉に相槌を打っていると、次第に当時を思いして辛いのか知史の声が小さくなっていく。
 杉浦は慰めるように知史の前に立ち、頭を撫でた。何度も染め直されている彼の髪は痛んでパサついていたが、その色はよく似合っていた。
「先生は大人で、カッコイイんだ。だから先生は俺の憧れで、理想の人なんだ。俺も大人になったらあんなふうになりたいって思ってる」
 夢を語るように希望に溢れた知史の声に耳を傾けながら、杉浦は自分の高校時代を思い出す。杉浦も知史と同じ年の頃は夢や希望に溢れていて、何にでもなれる気がしていた。規制のない大人の世界に憧れた。むしろ大人の世界の方が規制に雁字搦めになっていると知ったのはいつの頃だったか。
 杉浦は優しく目を細めて知史のつむじを見つめた。
「無理だろ」
 当然、頭に乗せていた杉浦の手を払いのけた知史は顔を上げ、杉浦を睨みつけた。
「何だよ、それ! 何でアンタにそんなこと言われなきゃいけねーんだ!」
「大人になったら、なんて無理に決まってんだろうが。今が積み上がって大人になるんだよ。それくらい分かれ、ガキ」
 杉浦は笑って、知史の額に軽くデコピンを食らわせた。痛っと声を上げて知史は当てられた額を両手で押さえる。赤くなっているのではないかと思うくらいには痺れ、熱が集まっているような気がした。
「あと、お前のエゴを他人に押し付けるなよ。そういうのをいい迷惑っつーんだ。覚えておけ」
 厭味ったらしく笑みを浮かべる杉浦に、知史は小さく「分かってるよ」と答えた。知史自身、自覚はしているのだ。高歩はこうであってほしい、というのは己のエゴの他でもない。
「まぁでも」
 不貞腐れる知史を背にした杉浦は、レンズを磨き終えたカメラを手にし、初めて会ったときのようにそのレンズを知史に向けた。いつ見てもレンズ越しの知史は被写体として向いていると思う。
「高歩が風戸を思い続けるのは不毛以外の何でもないからな。合コンの手配くらいはしてやれるぞ」
 カメラを向けられた知史は嫌そうに顔を背け、自分の腕の中に隠してしまう。
「それってアンタのエゴなんじゃないの」
「俺のは親切って言うんだよ、クソガキ」
「ありがた迷惑って言葉、知ってる?」
 杉浦は声を上げて笑った。
「その言葉、そっくりお前に返すことになるんじゃねーの?」