月影

chapter 46


 高歩が和葉の様子を見にアパートへ訪れたのは、知史から彼女の体調不良を知った1週間後だった。
 メールが2日来なかっただけで自分でも呆れるくらいに狼狽していたくせに、一目会いに行くだけでこれほどの時間がかかったのはどうしたことかと思う。自身でそう思うのだから、完全に夏休みに入り、学校へ来なくなった知史に知られればさぞかし呆れられることだろう。
 それでも仕方がなかったのだ。建前としては、お盆前の仕事の整理に追われていて帰宅するのは和葉を送っていた頃と比べてずっと遅い時間帯だった。本音としては……気まずかったからだ。和葉がどうこうではなく完全に高歩の一方的な感情からだった。大人に対して過剰なほど動揺したのは恥ずかしすぎる。
 それでも盆休みに入るまでには、とようやく決心がつき、高校からその足で和葉の住むアパートへと向かった。
 メールは頻繁にしていたものの――和葉からのメールが途絶えてからは多少往復回数も減ったが――実際に会うのは久しぶりで、高歩は少しだけ緊張していた。メールでは体調も回復し、元気そうだったが、本当は無理をしていないだろうか。
 いざアパートを前にして高歩はらしくもなく顔を強張らせる。ここ最近自分が変だということは自覚していた。けれど敢えてなぜなのかは考えなかった。この時期になるとナーバスになるのは必然的なことだと分かっている。
 部屋の番号と呼び出しボタンを押す。小さく機械音が鳴ってしばらくすると、篭った和葉の声が聞こえた。
『はい』
「筵井です」
 えっ、と彼女の驚く声がし、高歩はようやく肩の力が抜けた気がした。
 連絡もなく突然来たのだ。和葉の反応も無理はない。
「驚かせてすみません。近くを通ったので」
 思わず嘘を吐いた。けれどそのことに和葉が気づくはずもなく、彼女の慌てた様子が機械越しでも伝わってくる。
『あ、あの、すぐ降ります! 待っててください!』
 言うや否やガシャンと音が響いたかと思うと通話が切れた。高歩は普通に話せたことにほっとし、和葉が降りてくるまで壁に背を預け、ゆっくりと凭れ掛かるようにして立った。鼓動はまだ緊張感を持ったままいつもより少しだけ速いのだが、心はどことなく落ち着いている。不思議な感覚だった。
 和葉は言葉どおり、すぐに姿を現した。よっぽど慌てていたのか、化粧は落としたままの素顔と見るからに部屋着と分かる大きめのTシャツ、短パンという若い女の子らしい格好をしていた。初めて見る彼女のそんな姿に、高歩は思わず笑みを浮かべた。
「そんなに慌てなくても大丈夫だったのに、なんだか悪いことしましたね」
 高歩がそう言うと、和葉は一瞬キョトンとしたが、すぐに己の格好に気づき顔を赤くさせた。
「すみません、こんな格好……やだ、もう」
「いえ、僕も急に来たので。それより新居から風邪を引いたって聞きました。もう体は大丈夫ですか?」
 恥ずかしそうに俯く和葉の後頭部を見つめた後、高歩は顔を覗きこむように腰を屈めた。高歩が完全にしゃがみこむ前に和葉が顔を上げ、彼女の驚いた表情が目の前に現れる。
 それから困ったように小さく笑みを作る。
「一晩寝たら治りました。心配かけてしまったみたいで、すみません」
 和葉はそう言ってペコリと頭を下げる。先ほどからお互いに謝ってばかりだなと思うと高歩は可笑しくなった。しかし和葉にそう言ってしまえばまた謝ってしまうだろうから、高歩は短く「いいえ」と首を振るだけにした。
「今日はちょっと様子を見に来ただけですから。大丈夫なら良かったです」
 高歩はそう言ってからふと、この際だから、と一言付け加えることにした。
「これからは何かあったら電話でもいいので僕に言ってくれませんか。何もなくて急にメールが来なくなると、流石に心配します」
 更に言ってしまえば、知史から知らされたということもショックだったのだ。それは言わないけれど、僅かに強めの口調で高歩は主張した。
 コクコクと頷く和葉を見て満足気な表情を浮かべる高歩は、夜も遅いし、とその場で別れた。
 数メートル行った所で振り返る。まだ和葉はこちらを見送っていて、高歩は軽く手を上げ、振った。小さく手を振り返してくれる和葉に笑みがこぼれた。
 自分でも不思議だと思う。交わした言葉はほんの僅かだったのに、高歩の心は晴々として気持ち良い。
 明日から1週間は高歩も盆休みに入る。例年通り実家に帰るついでにあの場所へ行こうと決めた。今年は彼女に愚痴を言わなくて済みそうだ。心地良い気分で空を見上げると欠けた月が出ていた。


 高歩は、普段は使わないが、一応車は持っていた。実家に帰る際の出費を少なくするという理由だけで持っている軽自動車だ。使う頻度は少ないが購入してからの年月は長いため、それなりに年季が入っている。
 声を掛けられたのは、トランクに1泊分の荷物を入れ終えた時だ。よく通るその声音は高歩のよく知るもので、けれどこの場所で聞こえてくるはずのないものでもあった。
「高歩くん!」
 突然呼ばれたことに驚き、振り返ってみてその人物を目にすると更に驚きを表した。
「優比さん……!?」
 彼女が卒業して以来の再会だった。久しぶりに見た風戸は記憶通りの美貌を保ちつつ、記憶の彼女よりも遙かに“大人の女性”らしく着飾った格好をしていた。そしてその笑顔は昔に残っていた幼さがすっかりとなくなり、どんな男でも一瞬はどきりと胸を高鳴らせるだろう程の美しさを持つ。三十路を越えているとは思えないほどの変わりなさに、高歩は戸惑いつつも感心する。
「良かったぁ、まだここに住んでたんだね? 変わってなくてほっとした」
 嬉しそうに近づいてきた風戸は懐かしそうにキョロキョロと見回し、高歩の目の前まで立つとコトンと小首を傾げる。
「どこか行く予定だったの?」
「ああ、まぁ。でも急ぎませんし、行くところがあれば送りますけど」
 実際の予定は実家に帰るだけであり、両親には帰る事しか言っていないので、1,2時間遅れても構わなかった。そう言うと風戸は「良かった」と安堵の表情を見せる。年甲斐もなく甘えるように高歩の腕に自分の腕を絡めてきた。見た目と同様、昔と変わらない仕草に高歩は流石にぎょっとした。昔は恋人という名分があったが、今はそうではないのに彼女は全く昔のままに接してくる。
「じゃあ、遅めの昼ごはん、一緒にしてくれる? 本当はもっと早くに来る予定だったんだけど迷っちゃってまだなの。いいでしょ?」
 高歩は風戸の腕をさり気なく外しながら頷く。風戸は呆気なく腕を解かれても何も言わなかった。
「乗ってください。駅前のレストランでいいですか? 和食ですが」
「ええ、良いわ。和食って久しぶりだから嬉しい」
「そういえば海外に行かれてたんですよね。いつ戻ってきてたんですか?」
 風戸を助手席に乗せると、高歩は前から回って運転席に乗り込む。シートベルトをしながら風戸は微笑んだ。
「先週よ。その話は後でゆっくりしましょう。それより今の高歩くんのことを聞かせて」
 風戸の言葉に高歩は困った表情を浮かべる。
「運転中はそんなに話せませんよ」
 高歩が注意して、風戸はそれもそうだと気づいた様子を見せた。
「それじゃあ早くレストランに行きましょ」
 どうあっても彼女自身の話よりも高歩の話を聞く姿勢を崩さない風戸は、やはり風戸のままなのだと溜め息を零し、高歩は静かにアクセルを踏んだ。
 レストランに着くまでの車内は静かだった。沈黙が耐え切れず高歩は風戸に、ラジオか音楽CDをかけるかを尋ねてみたが、風戸は沈黙を全く気にせず高歩の提案も断った。高歩も気まずい雰囲気を表に出す気にはならず、しかし断られた手前紛らわすものもなく、ただひたすら早く着くようにと運転に集中した。普段気にも留めなかった信号待ちが思いの外落ち着かない。
 駅前ということでものの10分も掛からずに目的のレストランへと着くことができた。世間も盆休みに入っているようで、駐車場は満車に近かったがなんとか滑り込ませる。実は高歩も初めて来た店であったため、空いてる場所を見つけられなかったらどうしようかと、内心焦っていた。ブレーキをかけ停止させたと同時に、知らず詰めていた息を吐き出した。
 駐車場を出て店に入ると、やはり中は当然混んでおり、二人は数分待った後にようやく席へと通された。
 素早くそれぞれが注文を済ませる。メニューを持った店員が下がるなり、いよいよといった感じで風戸が口を開いた。
「それで、高歩くんは今何をしているの?」
 風戸は先に渡されたお絞りで両手を拭きながら尋ねる。高歩はやや緊張気味に答えた。彼女には何もかもが知られているのだ。
「お陰様で、教師になりました」
「あら、そうなの。高歩くんも“先生”になったんだ」
 風戸の中では自分が卒業した時の高歩のままで時が止まっていた。当時はまだ大学2年生だった彼も、今は新人とも呼べない位置にいる教師であるという事実に、驚きと同時に嬉しくもある。教師になることが夢であったということはずっと聞いていたことだ。
「そういえば日本に帰ってきてすぐ、杉浦の所に行ったの。そこにめちゃくちゃ綺麗な子がいたのよね。男の子なんだけど本当に綺麗な子よ。思わずデートに誘っちゃったくらい。その子は高校生くらいだったんだけど、高歩くんの生徒もそのくらいの子なのかしら」
 杉浦、という名に高歩は風戸にも抱いた懐かしさを覚えた。確か彼はマスコミ関係の仕事に就いたと聞いたから、風戸が会ったという子も芸能関係の子なのだろうと想像する。風戸が手放しで褒めるのだから相当な見目の子なのだろう。
「いきなりデートに誘って驚いたんじゃないですか、その子?」
 唐突な行動をするのは変わっていないんだな、と何度目かの感心をし、半分は呆れた眼差しで風戸を見る。彼女がすることはいつも突然で、高歩にそれを先読みできたことは一度もなかった。恋人という関係を結んでからは、もう彼女の行動を読むということ自体も諦めてしまった。
「最初はね。でも楽しかったわ。愛想はなかったけど、でも綺麗な子って、居るだけで良いのよ」
 そう言って風戸は水を一口飲む。口紅の付いたグラスの縁を指で拭う仕草は、それだけで高歩の目を惹き付けた。
「でも、そうね。なんとなく昔の高歩くんに似てたからってのも、あったかもしれないわ」
 目を細めて微笑む風戸に、高歩は流石に苦笑を浮かべた。
「僕は綺麗な顔なんてしてませんよ」
「顔とか外見じゃなくて、雰囲気が似てたの。“先生”を追いかける思いつめた顔をしてた。あの子も高歩くんもそんな自覚はなかったと思うけど」
「初耳です」
 高歩はどういう表情でいれば良いのか分からなかった。確かにあの時も、そして今も、自分は“先生”の姿を追いかけている。決して追いつくことはできない存在に焦ったり苛立ったりすることはあるが、あの頃は“教師になる”という目に見えた目的があった分、特に必死だったかもしれない。それを見破られていたという事実に気恥ずかしくもあった。
「今だから言うけど、高歩くんのこと本当に好きだったのよ、あたし。信じてもらえてなかったけど」
「……」
 視線を落としながら言う風戸は卑怯だと思う。そもそも風戸とそういう関係になったきっかけは、風戸の「慰めてあげる」という言葉からだった。確かに教師になるという目的はあったが、本当にそれで良いのかと悩んでいた時期でもあって、ふらふらと体を繋げてしまったけれど、始まりは好きだとか愛しているという気持ちではなかった。
 その後風戸が卒業するまで関係が続いたのは多少なりとも恋情が芽生えたからかもしれない。それでも卒業と同時にあっさりと別れ話を出してきたのも風戸からで、彼女は最後まで「学生時代の慰めの相手」というスタンスを変えなかった。だからそういうものだと思っていたのに。今更気持ちを打ち明けるのは卑怯だと思った。
「あたしね、結婚するの。彼が日本に戻るからってプロポーズしてきて、それを受けたわ」
 そこで調度、注文したメニューが運ばれてきた。高歩は店員が下がるまでに言葉を探した。
 思い浮かぶのは陳腐なものばかりで、結局当たり障りのない祝福の言葉しか思いつかなかった。
「おめでとうございます。それを言いに、わざわざ……?」
「ええ。結婚式は身内だけの小さなものだし、新居は北海道なの。彼の勤務先が北海道なのよ。だからもう会うことも難しいかと思って、思いつく限りの人に会っておこうって決めたの。今日、高歩くんが最後よ」
 最後、という言葉に高歩は表情を硬くする。そこにどれだけの意味があるのかは分からないが、風戸が言うと深読みしてしまいそうになる。少なくとも高歩からの観念からすれば、最初と最後というものにはそれなりの意味があるような気がした。
「ねぇ、高歩くん。あたし、今更あなたがどう思って付き合ってくれてたのか、聞くつもりはないし、聞きたくもないわ。でも、これだけは教えてくれる?」
 真剣みを帯びた声音に、思わず高歩の背筋が伸びた。そのことに小さく笑う風戸は、まっすぐに高歩を見つめた。
 あの時に似ている、と高歩は思った。初めて彼女を抱いた後の朝に見た、あの時の表情にとてもよく似ていて、息を詰める。
「本当に“先生”に憧れていただけ? 今もその気持ちは続いているの?」
――少しは慰めになったかなぁ?
 あの時の風戸の声が耳の裏に蘇り、記憶の声と実際に届く声とが重なった。記憶の声は少し掠れ、情事の余韻が残る甘い色を帯びていた。それでもきっと、今と気持ちの面では同じなのだろう。高歩の放つ言葉の真意を確かめるような視線が突き刺さる。
「それは……」
 あの時、自分は何と答えただろうか。
 素直に思いを告げただろうか。それとも曖昧に濁して答えなかっただろうか。どちらにしても風戸ならば罵るということはなかっただろうが。
 高歩は高校生の自分と、それに向き合う“彼女”のことを思い出す。
 けれど遠い記憶は既に霞んでしまって、うまく思い出すことが出来なかった。