月影

chapter 47


 初めて人を好きになった。
 苦しくて切なくて痛かったけれど、ほんの少しだけ甘い疼きを覚えた。傍にいられるだけで良かった。目が合っただけで嬉しかった。
 気持ちを伝えようとは思わなかった。相手の立場を充分に分かっているつもりだったし、何より彼女には既に大切な人が居た。左手の薬指に光るリングを見るたびに心を抉られた。優しい彼女は心を砕いてくれるけれど、同じ気持ちを返してくれることはないと分かっていた。彼女にとって自分はその他大勢の一人に過ぎなかった。
 突然彼女はいなくなった。不慮の事故で、あっという間だったらしい。人伝に聞いた話だけだが、それだけで充分だった。
 涙は出なかった。心は空っぽだった。
 もう人を好きにはならない。不意にそんな予感がした。彼女以上の人なんて考えられない。
 全てにおいて彼女は誰よりも美しく感じられた。傍から見れば彼女の容姿は平均的なものだったろう。標準より少しふくよかな体つき、日本人的な細い目、丸い鼻、僅かに厚い唇、染められたことのない艶やかな黒髪は、高歩をいやというほど惹き付けた。
 きっと穏やかな彼女の内面が醸し出されていた。柔らかな表情を浮かべる彼女を思い出しながら想う。彼女は高歩の理想だった。
 その夜、涙が出た。
 何度も好きだと呟いて、けれどその言葉が誰かに届くことはない。


 風戸を目的地まで送り届けた後、高速に乗り、サービスエリアに寄りながら、実家に着いたのは夜の9時過ぎだった。一泊分の少なめな荷物を下ろして玄関を開ける。懐かしい匂いが鼻をくすぐり、なんとなくほっとした。
「あ、兄貴帰ってきたよー! 兄貴、お帰り。遅かったじゃん」
 タイミングよく二階から降りてきた妹が高歩の前に現れ、居間に居るのだろう両親に声を掛けてから高歩へと向き合う。高歩はボストンバッグをどさっと置くと、やれやれ、と苦笑を浮かべる。
「昔は“お兄ちゃん”だったのになぁ」
「え? なに?」
「いや、なんでもない」
 靴を脱ぎ、玄関を上がる。久しぶりに会った妹は、以前よりも髪が伸びていた。
 妹に続いて居間に入ると珍しく両親が揃って寛いでいた。お帰り、と言葉をかけてもらい、ただいまと言葉を返す。ここ数年、地元には戻っていたが実家には帰っていなかったことを考えると少しだけ申し訳なくなった。そういえば父親はもうすぐ定年を迎える。
「ねぇ、兄貴。明日向こうに戻る時、一緒に送ってってよ」
 先に実家へ帰ってきていた妹は確か、盆休みを取った当日にこちらへ来ていたらしい。おそらく向こうへ戻る時は初めから高歩の車を当てにしていたのだろう。昔からそうだった。妹は妙に要領がいい。彼女自身、免許も車も持っているのだ。
 そうすると墓参りは午前中に済ませておくか、と素早く逆算してしまうあたり、高歩は自分でも甘いと自覚している。
 夜遅くにもかかわらず、母親は「運転疲れただろう」と簡単な夜食を作ってくれていた。三人は既に食べ終わっていたようで、一人ダイニングで薄味のうどんを啜る。
「そうだ兄貴、引越しするって話だけどね」
 冷えた麦茶を出しながら、妹が高歩へと話しかけた。高歩は箸を止めて顔を上げる。そういえば妹が引越しをするとかいう話があったことを思い出した。それが一つのきっかけで和葉の物件も探すようになったのだが、まだ1ヶ月も経っていないというのに既に遠い過去のように思えた。確か妹の転勤が無くなったから引越しの話もなくなったと思ったのだが、違うのだろうか。
「やっぱり引越しすることにしたの。急がないから良い所があったら教えてくれない?」
「仕事絡みじゃないのか」
 急がないということは、プライベートでということなのだろう。まさか妹も結婚話ではあるまいな、と表情を厳しくするが、彼女は高歩の内心に気づかずに「違うよ」と笑って否定した。
 そうして妹が上げた地名は、奇しくも和葉が住み始めた地域にかなり近く、最寄り駅は同じところだった。確か和葉が住んでいるアパートには空き部屋がまだあったはずだが……。
 迷った結果、高歩はそれを口にしなかった。
「友達に不動産家がいるから紹介する。それでいいか」
「うん、ありがとー」
「でもなんでまた? 今のところも別に悪くないんだろ」
「悪くないけど気に入ってるってわけでもないし。仕事場から近すぎるんだよねぇ」
「結婚とかじゃないのか」
「相手いないもん」
 さらりと否定され、高歩は少し戸惑った。危惧していた自分は兄バカなのだろうか。それでもまだ結婚の予定はなさそうだと知って安堵する。
「そうか」
 ずるずるとスープを飲み干した兄に、妹が興味深げに見上げてきた。
「兄貴はどうなの? そろそろ考えてるの?」
「俺も相手がいないな」
「なにそれ。やばいんじゃない? 枯れてんじゃないの」
 自分のことは棚に上げて笑う妹に高歩は一瞥をくれてやると、視線を逸らした。知らず顔が不機嫌になるのは仕方が無い。
「ほっとけ」
「あ、ほんとに枯れてんの? ごめんってば!」
 真剣に謝られてもそれはそれで男の沽券に関わりそうだ。高歩は軽く妹の額を指で弾く。
「うっせ、ボケ。いい加減なこと言ってんじゃねーよ」
 断じて枯れてなどいるものか。……確かにここ最近は――と危うく認めそうになった自分を、首を振って追い払う。
 食べ終えた丼を持ち、席を立つと、ついでに再度妹の頭を叩いてやった。背中に文句が飛んできたが、高歩はそれを一切遮断した。

 翌日。早めに起きた高歩は洗車をしていた。久しぶりに磨いた愛車はそれなりに光沢を取り戻したように思えた。午後から雲行きは怪しくなると昨夜のテレビで言っていたので、それを思うと気が重くなるが、それでも綺麗になった姿を見れば気分は良いものだ。
 洗車を終え、リビングに戻る前に軽くシャワーを浴びようと思い、着替えを取るため自室へと戻った。
 日差しが入る浴室で、朝から浴びるシャワーはなかなか気持ちの良いものだった。汗を流し、さっぱりとした気分でリビングに入ると、気の利いたことにクーラーが部屋の温度を適切に下げていた。
 両親は「もっとゆっくりとしていけばいいのに」と言っていたが、高歩なりに組んだ予定を崩す気もなかったので、適当に相槌を打ちながら手早く朝ごはんをかっ込む。
「兄貴、出かけるの?」
 遅い起床を果たした妹が寝巻き姿のまま降りてきた。顔も洗っていないような格好に、寝癖でボサボサの髪を整うこともしない妹に呆れる。
「ああ。お前何時に帰るつもりなんだ? 駅まで出てくれるんならそこで拾うけど」
「あー、そうしよっかなぁ。お土産買ってないし」
「じゃあそれでいいな。昼ぐらいには拾ってやれるから、近くまで行ったらメールする」
「ん、わかった」
 妹が頷くのを確認してから、高歩は食器を持って立ち上がった。
 慌しく準備をする息子に母はあれもこれもとおかずをタッパーに入れて持たせようとする。いくつになっても子どもは子どもだということだろう。心配でならないとの様子を見せる母に、高歩は有り難くそれらを貰っていく。確かに数日の自炊はこれらで賄えそうで、助かるといえば助かる。料理ができないことはないが、料理は自分に向いていないと大学時代に諦めがついていた程には苦手だった。
 そうして小さな紙袋一杯に貰った母の手土産も一緒に車へと積み、それじゃあ、と愛想の欠片もない挨拶をして実家を後にした。いつでも帰ってきていいのよ、という母の言葉に頷いたものの、おそらくしばらくは帰ることも無いだろうと思う。親不孝な息子だとは分かっているが、素直に甘える年でもあるまいと素っ気無くなってしまうのも仕方ない。
 高歩は実家がバックミラーから見えなくなったところで、FMラジオからCDプレイヤーへと切り替えた。車内を流れるのは80年代の洋楽が中心の自作アルバムだ。高校時代、彼女が好きだと言っていた曲を手当たり次第に集めた結果だった。ランダム再生され、最初に流れてきたのは世界的にヒットした曲だ。当時は歌詞の意味も知らずに歌っていた。逃げ回れ、と。一体何から逃げるのか、と小さく笑う。
 車で向かったのは市内にある霊園の一つだ。賑やかな繁華街を抜け、国道に沿って南下していく。途中、鉄道路線と平行にして並ぶ道へと入り、そのまま西に続く真っ直ぐな国道を走っていると、やがて目的の場所が見えてくる。民家と田畑だけがある景色の中を走って数時間もしない内にその場所へ着くことができた。
 霊園の近くに管理する寺院がある。そこの敷地内に僅かながらの駐車場もあり、停まっている車は1台しかなかった。高歩はその車と並ぶようにして停車し、携帯電話と財布と鍵だけをポケットに押し込んで車から降りた。だいたいの場所でそうであるように、桶等の道具は寺院が貸してくれている。
 毎年のように道具を借り、ついでに和尚と軽く挨拶を交わし、霊園へと入っていく。彼女の眠る墓は霊園の中ほどにあった。
 既に新しい花が添えられているところを見ると、彼女の家族は先にここへ足を運んでいたのだろう。それはいつものことなので高歩は安堵する。たかだか教え子だった自分が、彼女の家族と鉢合わせになるのは避けたかった。高歩はここへ毎年足を運んでいることを誰にも言ったことがなかったし、言うつもりも無い。“二人”だけの秘密だった。
 墓石を洗い流し、線香を添える。
 手を合わせて目を閉じる。
 目の前にいない彼女へと言葉をかけた。
「先生……、ここに来るのは、今日で最後かもしれないです」
 目を開ける。目の前にあるのは墓石だけだ。だがそこに彼女自身がいるかのように、高歩は眩しそうに目を細めた。
 風戸と再会して気づいたことがある。それは今までずっと高歩が避けてきた現実だった。
 高歩は口にするまで、ここへ来ることを今日で最後にするとは決めていなかった。自分で言った言葉にもかかわらず、それを自身の耳で聞き、ああそうだったのか、と納得した。彼女に会いに来るのは、今日で最後なのだ。
 だから、今日は、どうしても言いたいことがあった。
「俺は先生が好きでした」
 ずっと告げられなかった想いだ。そしてきっとこの先も、誰にも知らせることのない彼女への想いだ。
 彼女が目の前に居た時は、迷惑を掛けるだけだと自分の中に留めていた。報われない想いだと諦めていた。
 彼女が居なくなった時は、想いを伝える一切を失ったと思った。伝える相手も方法もなく、ただどうしようもない喪失感や絶望感が後悔となって自分の中に渦巻いていた。
 けれど彼女はずっと高歩の中に居て、自身の中で姿を見せる彼女へも、高歩は自分の想いを向かわせることはなかった。
 あの夜呟いた「好き」という言葉は吐息として消え、どこにも行くことはなかったのだ。
 風戸に“先生”のことを問われた時、霞んだ記憶が今の己の気持ちだとは思わない。しかしこれも何かの予兆なのかもしれない。
 好きという気持ちは完全に風化されることはないけれども、恋情が愛情へと変わっていくように、苦しいほどの彼女への想いはいつしかこうして穏やかに語れるものへと変わっていっているのだろう。それは全く嫌な変化ではない。
 それに気づかなかったのは、気づきたくなかったからか。
 しばらく墓石を見つめていた高歩だが、いつまでもしゃがみこんでいると足が疲れてきた。小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。最後にするなら花でも買って来れば良かったかなと思うが、何をしても今更なので思うだけにしておく。
「じゃあね、先生」
 校庭の横を通って下校する途中、すれ違った彼女に言うように、高歩は墓石に向かって言った。
――じゃあね、先生。
――また明日ね、筵井君。
 記憶の中の彼女の声は優しく響いたが、実際は蒸し暑い空気が大きく木々を揺らしただけだ。
 高歩は霊園を背にし、振り向くことはしなかった。

 駐車場に戻り、車の鍵を開ける。ズボンのポケットから財布と携帯電話を取り出し、バッグに戻そうとしたところで、携帯電話の着信を知らせるランプが点滅していたことに気づいた。
 妹から気の早い連絡かと思ったが、そのかかってきていた番号は登録されていないものだ。妹が番号を変えていたのなら朝、メールを入れると言った時点で伝えているだろうから、彼女ではない。不審に思いつつ、知らない番号に掛け直すのも気が引けてそのままバッグに戻そうと再び手を伸ばす。
 と、タイミングよく着信音が鳴る。見れば先ほどの知らない番号からだ。
 ワンコールで収まらないそれをずっと聞き続けるのも嫌なので、思い切って通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『やっと繋がった!』
 高歩が声を掛けたのと相手が叫んだのはほぼ同時だ。どこかで聞いたような男の声に表情を厳しくするも、冷静な声でもう一度「もしもし」と問いかけた。
「誰だ?」
『あ、オレっす、先生。水藤です!』
「水藤……?」
 その名を聞いてますます怪しく思う。なぜ生徒が教師の携帯番号を知っているというのか。だがその疑問は水藤自身によって呆気なく解かれた。
『実は新居から番号聞きました。勝手にスイマセン。でも大変なんです!』
 緊張しているのか慌てているのか、水藤は早口で捲くし立てた。
『新居がオツセさんって人を拉致ったんです!』
「はぁ!?」
 それはあまりにも突拍子もなく、信じがたい状況だった。