月影

chapter 48


『タイムリミットは午前零時だそうですっ!』
 水藤は慌てた口調で言いたいことだけを言うと、高歩の戸惑いも他所にブチッと通話を切った。
 リズムの良い音楽が流れる車の中で、高歩はただただ、無機質な機械音を鳴らしてる携帯電話を眺める。
――が、そうも言っていられない。焦る気持ちを抑えながらカーナビが最短ルートを検索し、表示するのを待った。数秒で案内開始の音声が流れる。
「っつーか、タイムリミットって何のだよ!?」
 アクセルを踏み、小さな軽自動車は制限速度を10キロ程オーバーしながら国道を進んだ。


 水藤は電話を切った後、首謀者である知史を振り返った。
 今、二人はファーストフード店の入り口前に立って向かい合っていた。平日のため客は少なめだが、世間では夏休みに入っているため、出入りする人間は少なくなく、時々邪魔そうな視線を向けられる。
「……ていうか、タイムリミットって何?」
 水藤は和葉を拉致するという茶番劇に付き合わされてはいるが、詳しい話は全く聞かされていなかった。夏休みという学生にとっては暇なだけの時間を遊びに使おうと知史を誘ったところ、逆に知史から頼みたいことがあると誘われた。それが高歩への電話だった。面白そうだという理由だけで言われたとおりのセリフと演出をしたが、果たしてこの意味はなんだろうか。
「言葉のアヤだから意味はないけど、そう言われたらなんか焦るだろ」
 知史は得意げな顔で笑う。入れ知恵は全て杉浦からのものだったが、実行するのは全て知史だ。どこから沸いてくるのか分からない自信に知史は身を震わせた。
 呆れ顔の水藤を無視して、そろそろか、と後方を振り返ると、お手洗いに立っていた和葉が戻ってくるところだった。
 拉致されたにしては穏やかな表情の彼女は、席に戻ると知史の姿が無いことに首を傾げながらも、特に気にすることなく座って知史を待つ。
「とりあえず“恋の吊り橋作戦”はこっからだ。お前はタイムリミットまで待機な」
 そう言って知史は水藤の肩を叩いて和葉の方へと戻っていく。待機、ということはこれでもう水藤の出番はないということだ。水藤はその作戦名の結末に興味をそそられるものの、別の遊び相手を探した方が賢明そうだ、と店を出た。空はまだ明るく、太陽は真上まで昇りきっていなかった。タイムリミットまでまだ半日以上ある。火蓋は静かに切って落とされた。


 知史が席に戻ると、和葉は微笑んで彼を迎えた。
「さっきの人、友達?」
 まさか水藤と居るところを気づかれていたとは思わず、知史は驚いた。別段隠すことでもないが、話を聞かれていたならまずい。
「見てたんだ」
 探るように返事をすれば、何てことのないように和葉は答える。
「ちょっと見えただけだよ。本当は約束あったんじゃないの?」
 水藤との会話までは聞かれていないようで安堵する。知史は笑って肩を竦めた。
「約束あったら最初から誘わない。今日はあんたと遊ぶって決めてたんだ」
「どうして?」
 和葉の疑問は当然だ。知史自身でもそれは同じだった。知史が和葉と出会った日から――あるいは出会うより以前から、知史は和葉に対して良い感情を持っていなかったし、今でもどうして彼女と面と向かい合って食事をしているのか改めて客観視すると不思議だ。
「俺も大人になろうかなって思って」
 それは抽象的で曖昧な理由のような気もしたけれど、知史の心情を表すにはこれ以上ない適切な言葉のようにも思えた。その意味は知史自身、分かっているかは定かではなかったけれど。和葉はそれ以上突っ込んで尋ねることもせず、ふぅん、と頷いた。
 和葉としては、嫌われているのでなければ何でも良かった。それが高歩の生徒ならば尚更だ。だから朝から部屋までやってきて外へ連れ出されても、特に反抗という反応はしなかった。
「それよりさ、どこか行きたい所ある?」
 誘ってきたのは知史だったから、てっきり何か目的があるのかと思っていた和葉は、ちょこんと小首を傾げる。
「新居くんは?」
「俺も別に、特には決めてないんだ。行きたい所あるんならそこで良いし、無いなら適当にぶらつこうかなと思ってるんだけど」
 そもそも知史の目的は和葉を外に連れ出すことであり、場所はどこでも問題ではない。ただし、ずっとそこに居続けるわけにもいかないから、適当に時間が潰せる場所を回るつもりでいる。手っ取り早いのはカラオケやゲームセンターという、知史のよく行く場所になるが、和葉が楽しめないならそこでなくても構わない。和葉が機嫌を悪くして帰る、というのが一番最悪なパターンだ。
 和葉の性格からして、ある程度居心地が悪くても、余程のことがない限り知史を放って帰ってしまうということはないだろう。だが、できるなら一緒に楽しめた方が知史としても気が楽である。
「それでいい?」
 確かめるように知史が和葉を見れば、和葉はにっこりと笑って首を縦に振った。
「うん!」
 和葉は素直に嬉しくて、こっくりと頷いたのだった。
 手早く残っていたポテトを二人で協力しながら食べ終える。店を出た知史は、まだ午前中という時間を考慮して、最初に行く場所に映画館を選んだ。
 映画は良い。何も話さなくても2時間は時間を潰せるし、終わった後は観た映画の内容を話題にすれば、沈黙で困ることも無い。それにどの映画を選ぶかで相手の好みも分かるというものだ。映画を見ることは知史の中で1回目のデートでの常套手段でもあった。
 和葉が選んだのはアメリカでもヒットを記録したというコメディタッチのラブストーリーだ。和葉らしいと思いつつ、知史はその隣でやっていたアクション物が観たかった。勿論そんな素振りは見せないというのがデートの鉄則である。
 チケットを買い、席に着く前に知史はドリンクを買った。和葉はパンフレットだけを買い、席に着くとさっそくパンフレットを眺める。そこには出演者や映画のあらすじなど、広告で見た内容と大差ないことが書かれてある。知史にはそれを見る意味が理解できなかったが、和葉はいたって楽しそうだ。
「パンフって大体見終わった後に買うんじゃないの」
「あー、そういう人も多いよね」
「ネタバレとかしてんじゃないの」
「たまにあるねぇ」
「それでも観る前に買うんだ」
「だってやっぱり、こういうのって見てて楽しむように作られてるから。あたしもこういうのを作りたいなって思うの」
 和葉は目を輝かせながらうっとりとした口調で言った。そういえば和葉の仕事のことは何も聞いたことがなかったなと今更になって思う。これまで興味もなかったから知らないのも当然なのだが、彼女の思い描く夢の話は聞いてみたいと思った。
 そんなことを話していると開演のブザーが鳴り、流れていたBGMが止まり、照明が次第に落とされる。

 映画の後はモールに出てウィンドウショッピングを楽しんだ。楽しんだのは主に和葉の方で、知史にとっては退屈で仕方のない時間だったけれど、それでも1時間は経ったことに知史自身、驚きと呆れを隠せなかった。眺めるだけで時間が潰せる女の人は凄い、と感心してしまう。これが本当のデートであれば違う感想だったかもしれない。だが今の知史にとっては足が疲れたこと以外思うことはなかった。
 あまりに退屈だったため、知史はもう暫く居続けそうな和葉を促し、己の本拠地であるゲームセンターへと向かった。
 和葉にはほぼ初めての体験ばかりだった。今まで和葉は、ゲームセンターへはプリクラを撮りに行くぐらいしか入ったことがなかった。UFOキャッチャーなどのクレーンゲームや、音楽ゲームなどは傍目で見ていることがほとんどだった。知史に誘われて一度やってみたが、あまりに難しく、己の不器用さに嫌気がさした。和葉は、自分には向いていないようだ、と苦笑を浮かべるしかない。クレーンゲームでは脳から指への伝達が遅いのか自分と機械のタイミングが外れまくり、音楽ゲームでは自身のリズム音痴が露呈しただけだった。
 落ち込む和葉に、知史は二百円をつぎ込んで、和葉が挑んだクレーンゲームの景品である可愛いとは言えないウサギのぬいぐるみを勝ち取り、彼女に渡してやる。それは今人気のあるキャラクターらしく、和葉もそれを狙っていた。ふと、水藤も以前似たようなキャラクターを狙い続けていたな、と思い出す。同じシリーズなのかもしれない。不細工なだけなのに、と知史は思うが、和葉が喜んでいるのでそれ以上は突っ込まなかった。
 次に誘ったのは射撃ゲームだ。これは和葉も気に入ったようだった。相変わらず反応は遅く狙いも安定しない。だがそれなりに撃てていたので、満足そうだった。知史との対戦では完敗だったが、それでも和葉が楽しそうに笑っていたので、知史も楽しくなる。
 ホッケーゲームを1セット終わって、そこを後にした。同じ施設内にあるボーリング場に移り、そこで1ゲームしてから、更にバッティングセンターへも向かう。流石にヘトヘトになってベンチに戻ると、和葉がタイミングよくジュースを買ってくれていた。少しだけグッと来た。
 外に出ると日も暮れかけていた。日中はずっとゲームをしていたのかと驚くが、映画を観たときよりもずっと時間は早く過ぎていたように思えた。次第に暗くなっていく空と共に、心なしか人通りは多くなっているようだ。
「飯はファミレスでも良い?」
 夜は長い。そう見越しての早めの夕飯の誘いに、和葉は「良いよ」と快諾する。
 ゲームセンターの近くにあるファミリーレストランは全国展開する人気チェーン店で、水藤達とよく食べに来る知史の馴染みの店でもあった。店内はそれなりに混んでいたが、あまり待たずに席へと案内される。
「このあとも時間大丈夫?」
 ダメだと言われても何とか説き伏せる覚悟で知史が尋ねると、存外に和葉は迷う様子も見せずに頷いた。
「明日から仕事だから、そんなに遅くなければ」
 タイムリミットは零時だと高歩に告げている。知史は和葉の予定を考えていなかったことに気づいたが、既に後の祭りだ。開き直って和葉には無理を聞いてもらうことにした。
 いや、それよりも早く高歩が和葉を見つければ良いだけの話だ。
 知史は考え直し、注文を店員に告げた後、和葉に一言断って席を立った。水藤に連絡するためだ。まさか和葉の目の前で電話するわけにはいかないし、メールもまた然りだ。知史は友人でも、目の前に人がいるのに第三者へメールを打つという行為は許せなかった。
 トイレの中に入り、洗面台の前で携帯電話を取り出す。果たして水藤は数回のコールで出た。余程遊び相手に困っているのか暇なのか。知史は勝手な同情を抱いた。
「水藤。もう一回先生に電話してくれないか」
『零時まで待機じゃなかったのか?』
「事情が変わったんだ。今から言うことをその通りに伝えろよ」
 どう事情が変わったのかは告げず、知史は用件だけを言った。未だ詳しい事も聞けず、命令だけをされる水藤は困惑気味に頷いた。
「俺はこの後、彼女に手を出す」
 明日の天気でも話すように宣言した内容に、水藤は更に混乱した。それを高歩に伝えて何になるというのか、さっぱり解らない。
 水藤には解らないけれど、伝えれば高歩に何らかの影響を与えるというのだろう。そういう確信めいたものが電話から伝わってきていた。
「彼女をモノにする。先生が早く見つけ出せたらもう彼女には手を出さない」
『……それ、オレが言う意味あるのか?』
 思わずというふうに水藤は尋ねた。まるで三角関係の修羅場の中にいるような居心地の悪さを感じずにはいられない。
 だが返ってきた答えは水藤の想像通り、己の意に反する有り難くない肯定だった。
「お前が言うから臨場感あるんじゃねーか。俺が言っても変に説得されるだけだ」
 そこまでしてやる意味は何か、そもそも“恋の吊り橋作戦”とは何か、水藤はとうとう聞けないまま通話を切った。
 音のしない携帯電話をポケットに直し、知史は目の前にある鏡を見た。見慣れた顔がそこにある。
 ふ、と鏡の向こうの自分が嘲笑の表情を浮かべた。笑っているのは自分自身だ。
 本当は恐いのだ。こんなことをして高歩を試すように仕向けて、高歩に嫌われるのが恐い。きっと高歩の声を聞けば、何を馬鹿な事をしているんだと軽蔑されそうで、面と向かって言えないから水藤を使っただけの話だ。それ以上の意味はない。
 けれどここまで来てしまった。後には戻れない。時間を戻せないように、口から出てしまった言葉を戻せないように、全てはもう動いてしまっている。動かしたのは他でもなく、知史自身だ。
――後悔をしている?
 自問して、そうかもしれない、と自答する。
 だからと言ってもう歯車を止める方法は知らない。動かしたのならば最後まで見届けなければならないだろう。高歩がどうするのか、知史にも分からない。最初に水藤が電話をして半日以上は過ぎているのに、目の前に現れる気配は一向にない。水藤が掛けたのは高歩の携帯電話だから、水藤を通じて知史の電話に着信の一つもあって良い筈なのに、それもない。高歩の性格からして“拉致”という言葉で脅して、彼が和葉を放っておくはずもないのに、知史が予想する全ての通信手段が未だ一度も使われてこない。これは何を意味しているのだろう?
 タイムリミットまでまだ時間があると高を括っているのか? ――そんな馬鹿な。
 知史とて本気で和葉に手を出そうとは思っていない。少なからず高歩に和葉へ対する想いがあるのなら、そう言えばもっと焦るのではないかと思っての宣言だった。
 だが、このまま高歩から何のコンタクトもなければ、それも致し方ないだろう。最近は満足に性欲も満たせていないし、感情を伴わない行為には慣れている。かなりの不本意ではあるが、言った以上は実行するしかない。例えフリであっても、既成事実は事実だ。重要な事は事実を作ることであり、それが真実か否かは問題ではない。
 あまり待たせると不信に思われそうだ。知史は気を取り直してトイレから出ると、和葉が待つ席へと戻った。
 夕刻と言ってもまだ日は高い。19時でもまだ明るさの残る季節だ。この長い夜をどうやって誘うか、他愛のない話をしながら知史は算段する。
 それでもどこかで、高歩の連絡がないかと期待していた。