月影

chapter 49


 水藤が高歩を捕らえたのは、日も完全に沈んだ午後八時頃のことだ。ようやく繋がった電話に、水藤は溜めに溜めていた憤りや苛立ちや焦燥や、ありとあらゆる感情をぶつけた。
「遅いっす! 何やってたんすか!!」
 開口一番、生徒に怒鳴られた高歩は反射的に怒鳴り返しそうになり、それを寸でのところで何とか耐えた。
 焦っているのは高歩もまた同じだった。怒鳴り合っている場合ではない。
『不可抗力だ』
 電話口の向こうで高歩は苦虫を潰したような表情になる。高歩とて、もっと早く連絡を取りたかった。
 しかし先に帰るにしても妹には一言断らなければならず、そうすると彼女は持ち前の口の悪さでもって文句を垂れ、結局妹も乗せて帰ることになった。その後昼食も取らずに高速を飛ばし続けたのだが、運の悪いことに出口付近になって5キロの渋滞に巻き込まれ、ようやく渋滞から抜け出すと休憩も取らずに走ったことに文句を言われつつ妹を降ろした。それがつい数分前のことだ。トイレ休憩さえ1度しか取っていなかったのだ。高歩の機嫌の悪さは怒りと焦燥と共に、疲れからも少なからず来ているだろう。
『それより水藤、お前今どこにいる』
 普段と変わらない冷静な声音で尋ねられ、水藤はハッと我に返った。そして知史に言われたとおりのセリフを慌てて叫ぶ。
「それが新居のやつ、オツセさんに手を出すとか何とか言ってきて」
 クッ、と高歩の息を呑む音が聞こえてきた。それから数秒息を整えるように静かな沈黙が流れる。水藤の緊張した鼓動だけがやけに大きく聞こえる中、ようやく高歩の声が返ってくる。先ほどと変わらない静かな、けれど有無を言わさない強制さがあった。
『お前は今どこに居る』


 カラオケ店から出ると、既に空は暗闇に包まれ、街灯のネオンだけが明るく街を照らしていた。和葉が時間を確認すると、ちょうど八時を回ったところだ。同じように知史も自分の携帯電話を開ける。待ち人からの着信はまだ無かった。
「この後……、まだ大丈夫?」
 パチン、とわざとらしく携帯を畳んだ知史は、窺うように和葉を見た。映画を観て、ショッピングをし、ゲームをいくつも遊んで、他にすることはないと思っていた和葉は僅かに目を見開き、そして柔らかく微笑んで頷いた。和葉ももう少しだけこの高揚した気分を味わっていたいと思った。
「どこに行くの?」
 尋ねた和葉に知史は少しだけ悩んで、しかし思い浮かぶ場所は一つしか残っていなかった。
 先導するようにゆっくりと前を歩きながら、知史は答える。
「俺らの学校」
「学校?」
「興味ない? 先生の働いてる場所」
 そう言えば和葉が反応するだろうと予想しての誘い文句だったがまさにその通りで、和葉は嬉しそうに顔を綻ばせて頷いた。
 知史の通う高校は進学校と呼ばれるほど偏差値が高いというわけでも、だからと言って試験用紙に名前さえあれば受かるというような寛容さも持っていない普通の高校だ。特に何か秀でたものがあるというわけでも、有名人の出身校というわけでもないので、知名度も近隣の学生ならば知っている程度のものでしかない。規模も、少子化の波には乗っているが受験者数が割れるというほど困っているわけでもなく、かと言って難関と言われるほど倍率が高い人気校というわけでもなく、はたまたクラスが10以上あるマンモス校でもなかった。近くには公立と私立の高校が他にもあるため、大抵の生徒は家から近い等という将来性を見据えたわけでもない理由で受験してきた者がほとんどだろう。知史もその一人であった。そういう気楽さが校風となっている節もあり、居心地は良い学校だ。
 夜の学校は昼のそれとは違って不思議な空間だった。ともすれば不気味さが漂い、なるほど昔から怪談の舞台となるには充分な迫力さえ感じた。正門にも裏門にも当然の如く施錠が掛けられていて中に入ることは到底叶わない。門の端には堂々と立ち入り禁止の文字が立てられている。和葉がどうするのだろうと思っている横で、知史は躊躇いもなく軽々と門に飛び乗り、易々と内側へ入った。
「ダメなんじゃないの?」
 まさか中に入ると思っていなかった和葉は驚き、不安そうな声で門の向こうの知史に声を掛ける。知史は気にするふうもなく端に行くと、花壇の縁に足をかけ、「ほら」と手を伸ばす。調度和葉の膝ほどの高さの段差がそこにあり、上れば和葉でも簡単に門を登ることができる。
「早くしないと見つかるぜ。そっちのがヤバイだろ」
 再度知史が手を伸ばして捕まるように促す。和葉は意を決してその手を掴んだ。段の上に乗り上がると、知史の引っ張る力も借りて門の上に足を乗せる。そこは思った以上に細く、下から見る以上に高かった。
 竦みそうになる体を支える知史の腕を掴む手に力が入る。そしてすぐに地面へと飛び降りた。ヒールでなくて良かった、と安堵する。
「高いところ苦手?」
 未だ知史の腕にしがみついている和葉に知史が声を掛けると、和葉はハッとして腕から離れる。困ったように知史の顔を見上げた。
「そうでなくても怖いよ」
 何が、ということは言わず、和葉は怒ったように言う。けれど知史の手を取ったのは和葉自身だ。
 知史は「ふぅん」と頷くとそのまま校舎へ向かった。和葉は慌ててその後を追う。
 明りも何もないまま進んでいく。辛うじて見えた光は食堂横にある自動販売機2台のものだった。それも微々たるもので明りと言えるかは定かではない。中に進めば進むほど街灯の明りも遠くなり、月の光が唯一といえば唯一だ。
 玄関まで歩いてきたのは良かったけれど、流石に校舎の中までは入れないようだ。空いていそうな窓もなかった。
「どうして学校?」
 黙って後ろを追っていただけの和葉が口を開いたのは、知史が校舎へ入り込むのを諦めてグラウンドの方へ行こうと向きを変えた後だった。
「……なんとなく」
「そっか」
 知史に理由は無かった。ただ他に行くような場所も思い浮かばなかった。
 和葉はそれで納得したかのようにまたキョロキョロと辺りを見ながら知史から逸れないようについていく。高歩がここに通っているのだと思うと不思議な気がする。昼間の高歩は、やはり優しい先生なのだろうか。
 グラウンドは校舎より低い地盤らしく、校舎からは階段から降りるようになっていた。二人は校舎から回りこんで緩やかな傾斜になっているところから入る。そして校舎側の方へ行き、階段のところに腰を下ろす。目の前には朝礼台が置いてあった。
 どこの学校でもそれ程変わらない。和葉はほんの数年前の高校時代を思い出した。あの頃は将来のことなんて曖昧すぎて、それよりも目の前のことに一生懸命だった。父親も生きていて、突然いなくなるとは想像だにしなかった。
 空を見上げると月が丸い形をして浮かんでいる。
「あたし、月って一番好き」
 和葉が指を天に向けて言った。釣られるようにして知史も和葉の指先が指す方へと顔を上げる。確かに今日は晴れていて、月が大きく輝いていた。
「小さい頃、父がよく聞かせてくれたのが『かぐや姫』だったの。あたしが好きで強請ってたからなんだけど」
 そう言って手を膝の上に下ろした和葉は、視線は月に向いたまま目を細め、懐かしむように微笑んだ。
「最後に月に帰っちゃうでしょ。でもウサギ達と一緒だから楽しいよねって話しながら眠るの。父は笑って頭を撫でてくれて……。普段喋らない人だったから、嬉しかったんだ」
 母はそれよりも幼い頃に亡くなっていたから、あまり記憶に残るような思い出はなかった。だから余計に父との思い出は強く心に残っているのかもしれない。『白雪姫』や『シンデレラ』のようなハッピーエンドも勿論好きだったけれど、悲しいはずの物語に幸せを見つけ出したくて、いくつもの後日談を自分で作っていた。そうしている時が父と会話できる時でもあった。
「中学の時に『竹取物語』やったでしょ、古文でさ。今は昔、竹取の翁という者ありけり、って覚えさせられなかった?」
「……させられたかも」
 知史は正直に言ってあまり覚えていなかった。国語は寝るための時間ということの方が今でも多い。けれど確かにそのフレーズは覚えのあるもので、だからきっとテストのために覚えたのだろう、と曖昧な記憶を辿る。
「あたし、初めてそれを読んだ時に衝撃だったよ。何に、とは言えないけどさ。これが『かぐや姫』なんだって思うと、小さい頃に読んでた結末が違うものに見えて。ただ、まぁ、もともとちゃんと理解してなかっただけなんだろうけど」
 そう言って和葉は、フフッと小さく笑う。
「月って不思議だよね。自分では光ってなくて、でもこんなに明るくあたし達を照らしてて。実際に月に降りた時代にいるあたしでも不思議に思うのに、昔の人にとってはどんなに不思議なものだったんだろう」
 それは星の輝きが見えているのと同じくらい不思議でたまらないものだった。宇宙を考えると果てしなく気が遠くなるようなものだけど、人は考えずにはいられないのだろう。自分の足元を照らす光の先を追ってしまうのは、不思議でも何でもなくて、当然のことなのかもしれない。
 暫く黙って静かに夜空を眺めていた和葉は、そういば、と知史の方へ振り向く。彼とは高歩とのことで話したことはあっても、自分たちのことを話すのはあまりなかった。いつも挑戦的な視線を向けられていたから、そんな穏やかな雰囲気でなかったのも事実だけれど、知史のことをもっと知りたいと思う。高歩を慕う彼のことは初めて会った時から興味があった。
「新居くんは好きな教科とかある? 得意な教科でもいいけど」
「俺は……」
 知史は考えながら口を開く。勉強は嫌なものでしかなく、体育や音楽などの副教科にも興味は持てていない。それを正直に打ち明けるべきかと思案する。これほどつまらない答えはないな、と思いつつ言葉にしようとした時、それは遮られた。
 突然機械的な振動音が鳴り響いた。
 同時にポケットから伝わる振動に驚いた知史は、それが携帯のバイブレーションだとすぐに気づいた。急いで取り出すと、水藤からだ。
「もしもし」
 やっとか、と安堵と緊張を持って出れば、予想していた声ではなかった。
『新居! 今どこにいる!』
 知史は一瞬固まり、目を見開く。期待していた慌てた声が鼓膜を大きく揺らした。
「先生……? なんで水藤の電話から」
 知史の呟くような小声に、隣の和葉が反応する。ちらりと向けられた視線に気づいた知史は、それでようやく体の力を抜いた。ニッと僅かに笑みを浮かべて和葉へ視線を返した。
『それより乙瀬さんには何もしてないだろうな』
「大丈夫だよ。でも早くしないと分かんないけど」
 敢えて挑戦的に言えば、高歩の纏う空気の張り詰める様が、機械越しだというのに感じられた。
『どこにいる? なんでこんなことを――』
「理由なんてどうだっていいじゃん。それよりヒント。心事高大に過ぎれば不幸の因」
『は……?』
「以上。じゃーね」
 ブチッと通話を切った知史はようやく晴々とした気分になれた。電話の向こうの高歩に「遅すぎ」と緩む頬を引き締めて胸の内で文句を浴びせる。
「筵井さん?」
 知史が携帯をポケットに直したのを見てから和葉が尋ねた。
「うん」
「最後の、何?」
「最後?」
 思い当たらず知史が首を捻ると、和葉が難しそうな顔をした。
「不幸なんたら、ってやつ」
 和葉はあまり頭は良くない。一度聞いた言葉をすぐに覚えられるほど柔らかくないのだ。
「ああ、“心事高大に過ぎれば不幸の因”? 一万円のおっさんの言葉」
「福沢諭吉だ。よく知ってるね」
 驚いて和葉が感心したように言えば、知史は自嘲気味に笑った。
「意味は知らねーけど」
 それでも自分の知らない事を知っているのはすごいと思う。和葉は「すごい」と何度も感嘆の声で呟いた。
 そして、ふと、以前大典から聞いた言葉を思い出す。あれは確か、夏目漱石にまつわることだった。
 とてもロマンチックな――と、思い出しかけたところで、再び知史の携帯が震える音が鳴った。
「もしもーし」
 水藤の名前が表示されているのを確認して知史は出た。もう高歩か水藤か、どちらでも良かった。ヒントは簡単すぎただろうかと思う間もなく、怒号が耳に響く。
「お前っ、ふざけんなよ!」
 それは電話越しからと、すぐ背後からと、音が重なった。驚いて振り向けば、肩で息をしている水藤と高歩の姿があった。ということは先ほど電話をかけてきた時点で学校の傍にはいたということだろう。知史は携帯を耳から離し、通話を切ると、こちらを向いている高歩も腕を下ろしてゆっくりとこちらに近づいてきた。
 和葉も思わず腰を上げ、向かってくる高歩を凝視する。高歩の視線はずっと和葉に向いたままだということを知史は気づいていた。
 後退するように知史が足を動かす。高歩はちらりとも知史を見ようとはしなかった。
「……よく分かったね」
「福沢諭吉は教育学者だった。故に連想される場所は学校。最初から新居の行動範囲は水藤の証言で絞られていたからな、確信できただけだ」
 早口で言いながら高歩は和葉の前まで立つと、その様子に何もされていないことが窺え、ほっと息を吐く。
「大丈夫、みたいですね」
「はい……?」
 事態が把握できていないのは和葉だけだった。なぜ高歩が必死の様子で現れたのだろう? なぜ射抜くように真っ直ぐに見つめてくるのだろう?
 高歩に見つめられると和葉は平静でいられなかった。鼓動が早くなり、体は動けなくなる。緊張、というのでもない。心霊現象は信じていないけれど金縛りにあった感覚に似ている。頭では分かっていても指一つ動かし方を忘れたかのようだ。
「良かった……」
 そして次の瞬間には。
 和葉は高歩の腕によって物理的に動きを封じられていた。
「あ、の……」
 事態が上手く呑み込めない。置かれている状況が理解できていない。全てが範疇を越えていた。
 信じられなかった。
――高歩の腕の中にいる温もりが、ここにあるということが。