月影

chapter 50


 いつの間にか知史と水藤の姿はなかった。高歩はそっと安堵の息を吐き、先ほどまで和葉と知史が座っていた階段のところに並んで腰を下ろす。
 それでもどこか不安で手を握る。和葉は何も言わないけれど、高歩の普段しない行為に戸惑っていることは表情から見ても明らかで、高歩は少し和葉が可哀想に思えた。小さな手はそっとではあるけれども握り返してくれていて、その柔らかさにか弱さが見えれば、守ってやらなければ、と庇護欲がそそられる。
 高歩の見たとおり、和葉はこれ以上にないほど困惑していた。半分パニックになっていた。和葉としては、今日一日知史と遊んで回っただけのことで、確かに無断で学校に侵入したことは悪いことだと分かっているが、高歩にこれほど心配をかけるようなことはしていないつもりだった。確かに也人のことがあって夜中に歩き回ることは避けていたが、知史がいるからと安心していたのだ。
 ……それがいけなかったのだろうか? 考えが甘いと叱責されるのだろうか? そっと上目で高歩の顔を窺えば怒っているようでもないのだが、握られた手の意味も分からないままでは分からないことだらけで頭がパンクしそうだった。
「ここで何をしていたんですか?」
 高歩が足元から和葉へと視線を移す。窺っていた顔が真正面に向いて、和葉は僅かに身じろぎをする。
「月を……見てました」
「月を?」
 和葉がおずおずと答えると、高歩は不思議そうな顔をして空へと目を向けた。見上げた夜空には星が疎らに輝いていて、月だけがやけにはっきりと姿を見せ付けていた。晴れているのか雲がそれを隠すこともなく、堂々と光を照らし続けている。
「ああ、今日は本当に、月が綺麗ですね」
 月をこんなふうにゆっくりと見たのは久しぶりかもしれない。高歩は少しの間、月の引力に惹きつけられるように見入った。
 そうしていると、不意に知史の出した言葉が思い出された。知史には不似合いなそれがどうして彼の口から出たのかは分からないが、だからこそ印象に残る。何を思ってその言葉をヒントに出したのか。
 ぎゅっ、と和葉の手を握る指に力を込めた。
「貴女と見る月は何より綺麗です」
 囁くように言った高歩の言葉を、彼女がどれくらい理解したかは分からない。高歩は月を見上げたまま視線をずらさなかったし、和葉は指先を少し震わせただけで、それ以上の反応を見せなかったからだ。けれど、それで良いとも思う。
 高歩自身、突き動かされるようにして呟いた言葉の意味を、言った瞬間は理解していなかった。言ってから、そうだったのか、と納得し、そして随分と似合わないセリフを言ってしまったことに恥ずかしくなる。
 解って欲しいのに、解って欲しくない。
 そんなジレンマが高歩の胸に僅かに沸く。離れない掌だけがその答えのようだ。

 並ぶ二人の影が月に照らされて、僅かに位置を変える。寄り添うように動いた影はやがて一つになり、薄くなる。そしてまた離れて、濃さを増した。


 学校を出た水藤は隣を歩く知史の肩を、自分の肩で突いた。
「あれで成功だったのか、お前の作戦とやらは」
 和葉の安全を体で確かめるように抱きしめた高歩の行為を水藤はまだ信じられず、脳裏の端に焼きついたままだ。男としての高歩を初めて見た瞬間でもあった。水藤が彼女を見たのは初めてだったが、また随分と若く可愛らしかった。
 どちらかと言えば、高歩より知史の恋人だと言われた方が納得できる程だったが、そんなことは口にしない。
「ま、そうなんじゃないの」
 肩で突かれてよろめいたた知史は水藤を咎めることもなく、どこかやる気の無い声で答える。昼間の意気揚々とした彼から生気を抜いた感じ、という表現が正に合う。もしかして、いやまさか、と水藤は驚きを隠さなかった。
「……好き、だったのか」
 驚きすぎて水藤の出した声は掠れていた。知史はそれを指摘することもなく、小さく笑う。
「そうかもな」
 好き、だったのかもしれない。認めたくなかったけれど。
 ただ自身の事ながら、それが高歩に対してなのか和葉に対してなのか判らなかった。或いはどちらに対しても持っていたのかもしれない。
 だけど涙はまだ出ないだろう。水藤の前で泣くなどしたくはなかったし、それほど悲しい感情でもない。
 まだそれ程育つ前に結末が見えたからだろうか。それに関しては己の鈍感さに感謝した。鈍感さで言えばあの二人も相当なものではあるけれど、そんなゆっくりな二人だから自分がこうしてヤキモキしながらも最小限に傷つかずに済んだ。
「オールには付き合うけど?」
「お前、本当に暇なんだな」
 呆れながら水藤を見上げれば、水藤は口の端を持ち上げて意地悪く笑った。
「期待してるくせに」
 そうだった、と知史は思い出す。水藤はとてつもなく空気の読まないヤツではあったが、時としてそれはわざとなのかと思うほど的確に望んでいることを言葉にしてくれる。それが水藤が水藤である所以であり、いじられて可愛がられるキャラクターである所以なのだ。
 知史は初めて彼が友人として隣にいてくれたことに安心した。

                □ □ □ □

 当日は晴天だった。昨日まで降り続いていた大雨が嘘のように気持ちの良い天候である。夏はもうすぐ終わりを迎えるというのにまだ太陽から来る日差しは強く、風はカラッと乾いていた。
 和葉は余裕を持って家を出た。高歩は妹の引越しの手伝いがあるからと、昼過ぎを待ち合わせ時間に指定したが、今はまだ正午も回っていない。
 自分でも少し浮かれすぎだとは思う。盆休み明けに倫子から緊急でCM撮影の雑用に借り出されてからは、慣れない仕事と元々受け持っていた自分の仕事との両立が上手くできずに四苦八苦して、そのせいで高歩とも充分に会えておらず、メールさえもまともに返事できたことの方が少ないほどだった。
 それでもようやくこぎつけたデートだ。多少浮かれるくらいは良いだろう、と誰にともなく胸の内で言い訳をする。
 待ち合わせ場所は和葉がよく使う駅のロータリーで、約束の時刻より数十分も早く着いた和葉は、その場所が一望できる喫茶店へと入り、窓際の席へ座った。窓からはロータリー側が丸見えだから、高歩が来ればすぐに出れる。昼際とはいうものの、こじんまりとした喫茶店の客は少なく、注文したコーヒーはベテランの風貌をしたマスターの手によってすぐにやってきた。
 果たして高歩は、それから間もなくして姿を現した。時刻を見れば調度正午だ。和葉は残っていたコーヒーを一口で飲み干すと、急いで店を出た。
 ところが、予想だにしないことというのは、予想をしない時に起きるものだ。
「な、なんでぇ?」
 思わず情けない声が和葉の口から漏れ出た。高歩の方へと駆け足で向かうと、その隣に現れた人物を確認して思わず立ち止まってしまった。今日は高歩を二人で買い物をする予定で、だから例え高歩の友人だったとしてもそのオプションは和葉の望むところではなかった。ましてや今目の前にいるのは、かつて和葉を目の敵にしていた相手だ。
 その場で動けないでいると、高歩よりも彼のほうが先に和葉の姿を捉える。明らかにしてやったりという顔をしている。
「遅いぞ!」
「に、新居くん……? どうして?」
 知史の声に釣られるようにしてフラフラと二人の下へ行き、高歩へ困惑した表情のまま目を向けた。
「いや、偶然会って、どうしても一緒に行くって離れないんです」
 高歩も困ったように苦笑を浮かべる。しかし顔で言うほど困っていないのではないかとの疑問が和葉の脳裏を掠める。チクチクと偏頭痛がするのは明らかな嫉妬だった。
「これから飯行くんだろ。どうせなら奢ってよ」
 のんびりとした口調で知史が強請った。どうして、と再び同じ言葉を放ちそうになって、なんとか喉の奥で抑えた。
 そうやって知史の方をじっと見ていると、知史がニヤリと笑みを浮かべたまま和葉へと耳打ちをする。
「あんま調子に乗ってると食っちまうぞ。俺は気に入ってるものを容易く他人にやれるほど優しくないんだ」
「それって、どういう――」
 驚いて見つめ返す和葉の言葉を待たず、知史は彼女から離れて高歩の横にぴったりと張り付く。
「俺、ステーキが良いな」
 生意気な調子で知史がリクエストをすれば、呆れた顔の高歩が軽く知史の頭を小突いた。
「贅沢言うな。着いて来てもお前の分は払わないぞ」
「えー、ひでぇよ! 生徒が可愛くないのかよ」
「今の新居は可愛くない」
 高歩は言うだけ言うと、知史にはさっさと背を向けて和葉の背に手を回した。早く行こう、と無言で促す。和葉はその仕草にドキドキと胸を高鳴らせながら、素直に頷くことができなかった。ちらり、と後ろを見れば、文句を言いながらも僅かな距離を開けて知史も着いてきている。
「いいんですか、新居くん、凄い不満言ってますけど」
 本当は嫌なくせに、高歩が自分を優先してくれて嬉しいはずなのに、そんなことを聞いてしまうのは本当のところで知史のことを嫌いになれないからだ。最初からそうだった。嫌いだ、という態度を取られていても、素直に頷いて離れることはできなかった。
「あれは口だけですよ。その内諦めるでしょう」
「そうですかね……」
 いまひとつ諦めそうにない知史から視線を高歩へと移す。高歩は笑って、大丈夫ですよ、と頷いた。いつだって和葉を安心させるその笑顔は、太陽の下で見るといっそう心強いものに思えた。月明かりの下でなくても高歩は和葉の隣にいてくれている。
「まぁ、いざとなれば逃げれば良い。幸い僕は今日、車で来てるんです」
 促されるままに歩いていると、いつの間にか辿り着いたのは小さなモータープールだった。3台ほどしか止められないスペースの一角に止まっている軽自動車のドアを高歩が開ける。和葉が彼の愛車を見るのは初めてだった。
「え、先生!」
 慌てて走ってくる知史を無視して、高歩は運転席に乗り込み、シートベルトを掛ける。窓を開けて知史の方へ千円札を渡した。
「悪いが今日は買収されてくれ」
「……教職者がそんなんで許されるのか」
 眉根を寄せる知史に、高歩は変わらない笑みでにっこりと返した。
「新居が黙っていれば問題はない」
 知史は高歩の笑顔に弱い。和葉と同じように、彼の笑みはその人柄のまま優しく、だからこそ救われたのだ。逆らえるはずもなかった。
「安すぎんだろ」
 ひらひらと野口英世を振りながらも、知史の体は車から僅かに離れる。本当に素直じゃないな、と内心苦笑しつつ、高歩はそれを表に出さなかった。
「それから、あんまり乙瀬さんを苛めるなよ。彼女はお前と違って純粋なんだから」
「苛めてないだろ……」
 なんだかその言い方が全てを見通しているようで、知史の言葉が揺らぐ。
 きっと高歩は解っていた。知史が和葉のことをどう見ていたのか。
 けれど高歩はきっとまだ解っていないのだ。知史が高歩をどう思いながら傍にいるのかを。
 知る必要も無いけど、と知史は思う。一生解らなくたって良い。解らなくていいことも世の中には沢山ある。
「今度は奢ってよ」
 諦めたように知史が言うと、ああ、と高歩は頷く。約束する、と笑みを浮かべ、それならいいと知史は千円札を高歩に返す。
「買収されんのはもっと大事な時に取っておく」
 そうか、と高歩は受け取り、それじゃあと言って車を発進させた。
「さて、どこに行きましょうか?」
 もともと買い物だけの予定だったが、時間帯にもその前に昼食を取るのも良いだろう。高歩が横目で窺うと、和葉は小首を傾げて高歩を見つめ返した。目が合って、目を合わせて話すことは出来るのに沈黙の中で照れるのはなぜだろうか、と考える。
「天気も良いですし、外で食べられるようなテラスがあるところとか、良いと思うんですけど」
「ああ、それも良いですね。ちょっとブラブラ走ってるんで、いい所が見つかったら教えてもらえますか」
 この辺りはショッピングセンターも多く、外食産業も盛んであるから、一つくらいはテラス付きの店があるだろうと踏んでの提案だった。和葉は張り切って「はい」と頷くと、窓の外を食い入るように見つめる。その様子が素直すぎて、微笑ましい。
 高歩は視線を和葉から前へと戻し、そういえばテラスではないけれど、見晴らしの良いレストランがあったことを思い出した。和葉が見つけられなかったらそこに行こうと決めて、とりあえずは目的もなく道を走る。たまにはこういうドライブも良いと思う。

 月は昼間も出ている。夜のように輝くことはないけれど、薄く薄く延びた影を作る。
 太陽のそれと重なって一つの影となる。
 その影を見て、人々は“明り”の存在を知る。

「あ、満月」
 窓の外を見つめていた和葉は思わず声を上げた。けれどそれはとても小さな吐息に混じって、高歩までは届かない。
 昼の今でもはっきりと丸く浮かぶそれを見ながら、今夜の月はさぞかし綺麗だろう、と和葉は嬉しくなった。
 月はいつまでも後を追って和葉の方へと向いていた。




F I N .


 

ご精読ありがとうございました。
長丁場お疲れ様でした。
楽しんでいただけたのでしたら幸いです。
最後までお付き合いありがとうございました。
2011.06.19 up   美津希