Short×Short

WEB-CLAPお礼画面掲載作品

陽のあたる場所まで 1


 もうすぐ雪のちらつく季節だ。太平洋側に位置するこの地域ではあまり積もることは無いけど、それでも1年に1度はその姿を見ることがある。あたしは多分今年もそれを、暖かな空気に包まれたコンビニの窓から、見ることになるだろう。手にしていたファッション雑誌を元に戻して、次はテレビ雑誌を取る。あまりテレビは見ないけど、面白そうな番組のチェックは欠かさない。少しでも暇潰しになるものがあった方が良い。

 コンビニは良い。24時間営業だし、店員は客に干渉しないし、客の入れ替わりも早いから。
 あたしが毎日のように通うこのコンビニが駅から一番近い場所にある店舗だ。それでも歩くと5分くらいかかるから、昼間でも客足は少ない。ただあたしがこのコンビニに来るのは深夜なので、客の数なんてもっと少なくて、店員も普通にレジから離れて奥の倉庫に篭ることもままある。

 雑誌から前の窓へ視線をあげれば、割と大きな道路が横に伸びていて、向かいの住宅のさらに向こうに駅のホームが見える。直進すれば駅まできっと1分ほどしかからないだろう。とは言え駅の改札口はホームの先端にあるから、駅を出てこのコンビニへ来るには大きく迂回しなければならないのだ。しかも交差点があるので信号に引っかかればさらに時間がかかる。なかなか便利とは言いがたい立地条件だが、ないよりはマシだと思う。交差点を真っ直ぐに進めばまた違う企業のコンビニがあるけれど、そこは結構ガラの悪い人たちの溜り場で、だからあたしはここのコンビニに居たりする。

 この地域は治安が悪いことで有名だ。それは隣の地域と比べて、といった小さな規模の話でしかないけれど、12時を過ぎると車もほとんど通らなくなるので、人気が全くなくなる分気を付けることに越したことはない。けれどあたしは午後11時から午前2時までの3時間をこのコンビニで過ごすことに決めていた。ここなら干渉されないとは言っても一応人の目はあるし、深夜だから店員はほとんど男性だけでいざとなれば助けてくれるだろうし、何より家に居たくなかった。

 あたしに母親はいない。あたしがまだ小さいときに病気で亡くなった。うっすらと残る記憶の中のお母さんは、白くて細くて、脆くて儚くて、すぐにでも消えてしまいそうな印象しかなかった。だから優しい思い出とか、楽しかった思い出っていうのもなくて、お葬式のときも涙さえ出なかった。父はそれから男手一つで育ててくれた。朝から夜までがむしゃらに働いてあたしを養ってくれた。休日返上なんて常で、やっぱりお父さんとの思い出も欠片も見つけられない。運動会も参観日も教えたことはなかった。どうせ来てくれないと分かっていたし、期待して落ち込む自分が惨めに思えた。友達に羨望の眼差しを向けることさえ許せなくて、そんな自分がとても嫌いだった。だから父が学校に来たのは個人懇談の時だけだった。先生もあたしの家庭の事情を分かっているから、家庭訪問のときでさえ、父にもあたしにも何も言わなかった。一度でも良いから娘さんの晴れの姿を――なんてことは。

 それまで仕事一筋であたしの養育費を稼いでくれていた父に新しい恋人ができたのは2年前のことだ。母によく似て、華奢でふんわりとした雰囲気を纏う、綺麗な人だった。ジャガイモを潰したような厳つい顔の父と並ぶとまるで美女と野獣だった。けれどこの世界では野獣には美女しかいないのだ、と母を思い出した。母も学生時代はミスに選ばれるほどの美貌だった、とお葬式の日に父が思い出にふけっていたことがあったからだ。その時の切なそうな父の顔をあたしは今でも忘れられない。あたしはそれなりに父のことを好きだったし、家族として大切な存在だった。

 父に恋人ができて半年、彼女はたびたび家に来るようになった。父より10歳年下の彼女は、あたしにしてみれば母親と言うよりも姉という存在の方が近かった。それでも母親の代わりとでもいうように接してくる彼女を邪険に扱うほど、あたしは酷い人間じゃない。父も彼女も安心させるくらいには彼女に懐いているように振舞っていた。そして月に数度が隔週に数度、週に数度と、彼女が家にやって来る頻度が増えていくにつれて、あたしは自分に限界を感じていた。母の代わりにあたしの名前を呼ぶ声も、父の隣に並ぶ姿も、嫌に思えて仕方なかった。懐くフリができなくて、思春期という言葉を利用して不機嫌さを隠すこともしなくなった。すると彼女がやってくる頻度が今度は減っていって、父もあたしに遠慮してか、とうとう家に呼ばなくなった。それでも二人の関係が続いていることをあたしは知っている。別に携帯電話をチェックしたわけでもない。ただ仕事以外に何も知らない父のタンスに時々センスの良いお洒落なネクタイやシャツが増えているというだけで。そのことさえ何だか汚らわしくて、あたしは父ともまともに話そうともしなくなって、顔を合わせようともしなくなった。

 夜の11時は父が帰ってくる時間、午前2時が父の就寝時間だ。

 あたしは壁時計を見上げて、テレビ雑誌もまた棚へ戻す。そろそろ帰る時間になった。あたしは店内をさっと見回して、菓子パンを一つ取るとレジへ向かう。3時間立ち読みした少しの代償として、あたしは帰るときはいつも何かしらを買うことにしている。それはアイスだったりジュースだったり肉まんだったりするけど、だいたい100円前後のもの。それでも月にして換算すればけっこうな金額になる。それに最近は何でも値上がりして、この前まで105円だった惣菜パンが126円になっていたときは一瞬伸ばす手を躊躇った。

「116円です」

 そう言ったのは《河内》さん。カワウチと読むのかコウチと読むのかは知らない。大人しい茶髪に控えめなピアスを付けた大学生ふうの店員さん。男の人にしては背の低い彼はあたしとそう変わらない目線で優しげな笑顔を向ける。このコンビニの深夜スタッフで一番愛想の良い人だ。毎日と言っていいほどここに通うあたしは既に何人かの店員と店長の名前を覚えている。もちろんスタッフのエプロンに付けてある名札を見ているだけだから、《河内》さん同様読み方が分からない人も結構いるけど。

「ありがとうございました」

 ドアを開けると冷たい風に思わず身震いする。それでも気にしないように店の前に置いていた自分の自転車の鍵を外す。やはり治安の悪い地域と分かっている以上一人で夜道を歩く勇気はないものだ。実際歩いていて帰り道に痴漢にあったことが1回、未遂で助かったのが1回ある。

 さて帰ろうかと自転車の向きを変える。

 けれど今日はいつもと違っていた。それまでは何も変わらないままだったのに、なぜかこの瞬間からいつもとは違った。

「あの、いつも、来てるよね」

 そう言いながらあたしの前に現れたのは、背の高い男の人。短めの黒髪、暖かそうなダウンジャケットを着て、少し擦り切れたジーンズを履く彼を、あたしは知っていた。

 《大切》さん。このコンビニの深夜スタッフで、読み方の分からない名前の一人だった。