Short×Short

WEB-CLAPお礼画面掲載作品

陽のあたる場所まで 2


 深夜のコンビニに通ってもうすぐで1年が過ぎようとしている。それまで帰り道を歩いていて痴漢に遭ったことは1度あるけれど、店の外でスタッフの人に声を掛けられたのは今までなかった。それなのに今目の前にいるのはそのスタッフである《大切》さん。オオギリと読むのかタイセツと読むのかは知らない。珍しい名前だなと思って一番最初に顔と名前とを一致して覚えた人だ。

「ずっと気になってたんだ。こんな夜遅くまでずっと居ること。時間もだいたい決まってるみたいだし」

 そんなことは《大切》さんには関係のないことなのに。そう言おうとして、やめた。それを言ったらまた何かを言われるのは確実だろうし、そうなったら帰るのが遅くなってしまう。そして帰りが遅くなったら朝の早い父が起きてしまうかもしれない。父が起きる前に戻らなければ意味がないのだ。だからあたしは彼を無視して自転車に跨り、そのまま彼の横を通り過ぎた。あたしを追う視線に気づいていたけれど、あたしは一度も振り返ることはしなかった。

 翌日、あたしはコンビニに行こうか迷ったけれど、《大切》さんが今日のシフトに入っていないことを祈って家を出た。あたしと父が住むマンションは駅の近くで、けれどコンビニとは正反対の位置にある。コンビニに行くには踏み切りを渡ればすぐだ。自転車だと踏切にも信号にも捕まらなければ3分程度で着く。夜の11時だとまだ車の通りも多くて駅前は賑やかで、あたしはそうした明かりが好きだ。帰りは人気も少なくて、時々工事の音が響いているだけだから。一人でいることは好きだけれど、寂しい空間は嫌いだった。

 母が早く亡くなって、だからあたしに兄弟はいないのだけれど、そのことで寂しいと思ったことは一度もない。それは今も変わらない。友達のお兄さんやお姉さん、弟や妹の存在に憧れた時期はあったけど、やはり一人の方が気は楽で好きだと思えた。もともと病弱だった母のせいか一人遊びの上手な子供だったらしく、それがそのまま大きくなっただけの話だ。けれどやはり、孤独という闇に恐怖心はあった。遅くまで帰らない父を待つまでの時間はとても長くて、その内に引きずり込まれそうになる一人だけの空間を避けるように、今時の子供にしては珍しく9時には眠りにつくという真面目な生活を送っていた。まだ父のことが好きな頃だった。

 ――そんな他愛もないことを思い出しながらいつもの定位置に立って少女マンガの雑誌をパラパラと捲る。最近の雑誌は漫画にしてもファッション誌にしても付録があるか何かでがっちりと封がしてあるものが多い。それでもゴシップネタ満載の週刊誌に手をつける勇気もなくて、少しエッチな少女マンガを読んだりする。最近の漫画は結構過激なものが多くて困る。

 コンコン、と窓を叩く音がして顔を上げたら、あたしの目の前でにっこりと笑顔を見せる《大切》さんが小さく手を振っていた。本当は無視したかったのだけどばっちりと目が合ってしまったので露骨に避けると気まずい。どうしようかと思っていたら《大切》さんは自分の横の空間を指差して「出て来い」と合図した。あたしは見せ付けるようにため息をつくと雑誌を閉じてコンビニを出た。どうしてあたしは彼の言いなりになっているんだろう。

「少し話そう」

 そう言って《大切》さんはヘルメットを渡してきた。意外に重いことに驚く……じゃなくて。これを着けろってことはバイクに乗れってことで、つまりどこかへ行くということだ。――冗談! あたしにはタイムリミットがあるのにどことも分からないところに行けるわけがなかった。

「大丈夫。ほんと、すぐそこだから。24時間やってるファミレス。奢るからさ」

 あたしの考えを読んだかのように《大切》さんは続けた。え。ともう一度彼の視線と合わせてみれば、「それとも」と真剣な表情に変えてあたしを見下ろす。その目がヤバイと思った。あまりにも真っ直ぐと見てくるからあたしは身動きが取れなくなる。

「それとも家族の人に連絡入れた方が良い?」

「そんなわけないです」

 思わず言ってしまったことに自分自身が驚いた。もちろん《大切》さんも目を丸くしていたけれど、またすぐにふっと柔らかい笑みを浮かべた。

「なら、良いじゃん」

 初めてまともに彼の笑みを見た気がした。思ったよりも幼さが残るその表情は、なぜかあたしの胸を掴んだ。少し垂れ目気味だった《大切》さんの目元がさらに弧を描いて、ああ、深夜スタッフで一番愛想の良い《河内》さんよりも優しい表情の人なんだと知った。きっと笑顔の種類が違うんだろう。それくらいならあたしにだって区別はつく。本当に柔らかい笑顔はこんなにもすんなりと人の胸の奥に入り込めるんだ。暖かさをくれるんだ。

 《大切》さんはにっこりと笑みを浮かべたまま呆然と立ち尽くすあたしの頭にヘルメットを被せた。サイズが合わなくてずれるけれど、表情を隠すにはちょうど良かったかもしれない。だってきっと今のあたしはとても醜いから……。

 どうしてこの人の笑顔を見ただけ、こんなにも泣きたくなるんだろう。

「あの、あたし、2時には帰りますから」

 それが精一杯だった。《大切》さんはトントンと軽くヘルメット越しに頭を小突いて「分かってる」と答えた。

「いつもみたいに、2時にここを出るんだろ」

 彼はいつからあたしのことに気づいていたんだろう――。



 12時を過ぎると魔法は解けてしまう。そんな夢物語のように夜の道路はとても静かで、目的のファミリーレストランに着くまで数台の車しかすれ違わなかった。《大切》さんの腰に腕を回しながら、ずれ落ちてしまいそうなヘルメットを片手で抑えながら、あたしは少しドキドキしていた。胸が高鳴る。ちょっとしたスリルを味わっているような気分だった。何よりこんなスピードを体感したことがなかったから。

「好きなもの頼んで良いよ。ここ、結構安いから、気にしないで」

 席に案内されて腰を下ろすと《大切》さんが言った。もう日付は変わったというのに数組の客がそれぞれ談笑しながら食事を楽しんでいる。それでもほとんどが彼と同じくらいの人たちで若者の特許なのかもしれないと思った。各言う自分もそれに分類されるのかもしれないけれど。

「……じゃあ、ランチサンド」

 メニューを広げてそう言うと早速《大切》さんは呼びボタンを押して注文した。

「飲み物は? ソフトドリンクも揃ってるよ」

「いい」

「そう? じゃあ、ランチサンドとコーヒー一つ」

 店員さんはもう一度注文内容を繰り返して「かしこまりました」と離れていく。

 窓際の席なのにあたしが窓を背にして座り、《大切》さんが向かうようにして座っているので外の景色へ視線を移すこともできずに、ただ所在無さげに店内を見回す。別にどうってことのない、普通のファミレスだ。小さい頃は母が入院中に父とよくこういった場所で夕飯を食べていたっけ。その内あたしが料理を覚えて、小学校を卒業する頃にはすっかり忘れていた。

「ねえ、名前は何ていうの?」

 ふと声を掛けられて《大切》さんの方へ向き直る。見ると屈託のない笑みを浮かべていて、彼があたしに話しかけたんだと気づいた。

「俺はオオギリアツシ。君は?」

「ミカミユウコ」

 あたしが答えると「ユウコちゃんか」とオオギリさんは呟いた。彼があたしの名前を声にしただけであたしの心臓は途端に早く鳴り出す。あたしの名前じゃないみたいだった。

「どんな字を書くの?」

「……ヤサしいコ」

「優しい子、か。綺麗な名前だね」

 そんなふうに大切さんは言うけれど、本当にそうだろうか。どこにでもある名前だ。

 それにあたしは自分の名前が好きじゃない。あたしは全然優しくなんかない。

「年は? 俺よりも年下だよね。高校生?」

 あたしは大切さんの年なんか知らないし、年下だよねと言われても答えようがない。だいたい大学生くらいかなとは想像できるけど。

 あたしは思い切り顔をしかめた。

「どうしてそんなこと聞くんですか」

「え?」

 大切さんは驚いたように目を開く。思ってもみなかった反応をされたときの子犬みたいに少し飛び上がった。

「どうしてそんなこと、聞くんですか。そんなふうにして根掘り葉掘り聞くつもりですか」

 今度はゆっくりと、はっきりと、一言一言を区切って言った。いやいや、と大切さんは慌てた様子で首と手を同時に横に振る。

「ごめん、そんなつもりじゃなくて。いや知りたいのは山々なんだけど」

「どうして知りたいんですか。関係ないと思いますけど」

「どうしてって……」

 困ったなぁと呟きながら大切さんは頭の後ろを掻く仕草をした。少し眉が下がって本当に困ってるらしい表情だった。

 それでも後ろにやっていた手を下ろすと、またあたしを真っ直ぐと見た。闇にも似た黒い瞳が曇りもなくあたしに向けられる。

「ずっと気になってたんだ。寂しそうな顔で窓の外を眺める優子ちゃんのこと。俺があそこでバイトし始めたときからずっと、11時から2時まで立っている優子ちゃんのことが、気になってどうしようもなかった」

 トクン、と一回、胸の奥が跳ねた。

「たぶんどうしようもないくらい、惚れてる」

 ドクン、ともう一回、胸の奥が跳ね上がった。

「だから知りたいんだ」

 答えになった? とふんわり笑う大切さんはまた頭の後ろに手をやる。少しだけ彼の耳が赤くなっていることに気づいて、不本意にも可愛いと思ってしまった。