陽のあたる場所まで 3
大切篤志。21歳。大学3年生。理工学部。身長178センチ。体重65キロ。視力左右ともに1.0。中学、高校は野球部。大学では友人に誘われてアーチェリー部。実家は京都で、母方の祖母と両親と兄が一人の5人で暮らしていて、今は一人暮らしを満喫。ただしそういう人間に自由はほとんどなく、週に2日は誰かが泊まっていくのだそうだ。
そんなことを目の前の大切さんが話しているのを、あたしは運ばれてきた大きめのサンドイッチを頬張りながら聞いていた。
「今のバイトはこっちに来てから4つ目だけど、一番長いかな。やっぱり優子ちゃんと会ったから、やる気が違ったと思う」
「……」
「そういえば優子ちゃん、よく漫画の雑誌を読んでるよね。漫画好きなの?」
「……」
「俺は、昔はよく読んでたよ。アニメだとあれだな、H×Hはよく借りるし。あ、知ってた? あの作者ってさ――」
あたしはほとんど相槌をしない。けれど大切さんは止め処なく喋る。本当に楽しそうに笑って。どうしてそんな顔ができるんだろう。
そしていつの間にかあたしはキレイにサンドイッチを平らげた。大切さんの頼んだコーヒーはとっくに空になっている。
「あの、そろそろ時間なんで」
時間は1時半だ。大切さんは1時間くらい延々と話していたことになる。素直にスゴイなと思った。次から次へと話題がポンポンと出てくるのはすごい。あたしにはどうしたって成せない技だ。
「ああ、そうだね。会計済ませてくるから」
そう言って立ち上がる。あたしも一緒に腰を上げてドアの近くで待つことにした。さすがに寒い外で待つなんてことはできない。
「お待たせ」
帰ろうか、と大切さんは言って、ドアを開けた。冷たい空気が肌を刺すようだった。
ヘルメットを被って、今度は落ちないようにベルトを調整する。それでもいくらかぐらつくけれど。
その様子を見ていた大切さんは少し苦笑して、またヘルメット越しにあたしの頭を軽く小突く。
「今度は優子ちゃんのサイズのを持ってくるよ」
ということはまた付き合えということだろうか。あたしは思わず顔を歪ませた。そんなふうに構って欲しくなんかないのに。
「また奢るからさ。……乗って。送ってく」
大切さんがバイクに跨る。あたしもその後ろに乗って、彼の腰に腕を回した。来るときよりもぎゅっと力を込めて。大切さんの背中は思っていたよりも大きかった。
大きくエンジンを回して、車輪が動き出す。冷たい風が切りつける。
けれど寒さなんて感じなかった。
大切さんの背中が温かかったから。あたしの体がまだファミレスの暖房で熱くなっているままだったから。
次の日大切さんは店員として入っていた。ドアを開けると満面の笑みで「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。こんなふうにまともに店員の顔を見たのは初めてで緊張してしまう。あたしはいつものように窓側のコーナーで立ち読みを始めた。けど気になるのはレジにいる大切さんで、雑誌を見ながらも考えていることは全然違うことだった。こんなふうに頭を使いながら雑誌を見るのなんてのも初めてで戸惑う。
大切さんは週に4日の割合でシフトを組んでいるんだと言っていた。店員としては絶対に彼から話しかけてこない。それでも入っていないときは必ずあの日のように窓を叩いて、それから二人でバイクに乗って同じファミレスでご飯を食べる。あたしはいつもランチサンドを頼む。そして時々、彼が店員のときは寂しいなと思う。そんなこと言うつもりはないけど。
あたし、どうしちゃったんだろう。
コンビニに行くときの道のりはなんだかいつもより華やかでドキドキする。
こんなこと今までなかったのに。
その日は朝から雨だった。あたしは傘を差しながら自転車をこいでコンビニへと向かう。コンビニのドアの前には傘立てがあるのだけど、一度間違えて自分のを持っていかれてからは、店の人には申し訳ないけれどそのまま濡れた傘を持って立ち読みをすることにしていた。そしていつもと同じように、その日シフトに入っていない大切さんがコンコンと窓を叩く。顔を上げると目が合って、大切さんはにっこりと笑う。そして外に出るように合図をしてくる。
こんな雨の日でもバイクに乗って大丈夫なのだろうか。そんなふうに思いながらもあたしは言われたとおりコンビニを出た。これも既にいつものことになっている。
「今日は歩いて違うとこ、行こうか」
「……」
あたしの返事を待つこともなく大切さんは歩き出した。長身の彼の歩幅からしてきっとあたしに合わせてくれてるんだろう。とてもゆっくりとした速さだった。
「こんなふうに話しながら移動するのもいいよね。バイクだとそうはいかないからさ」
「……」
「そろそろ車も欲しいよな。そしたらこんな雨でもあそこのファミレスに行けるのに。あ、免許はバイクと一緒に取ったんだ。高校3年の時だったかな」
「……ふぅん」
「うん、そうなんだ」
あたしが相槌を打ったのは初めてかもしれなかった。
不思議。隣にいるというだけでどうしてこんなにも嬉しいんだろう。温かいんだろう。いつもの背中も温かいけれど、違う温度が肩から伝わってくるみたいだ。
「優子ちゃんも卒業したら取っておいた方がいいよ。身分証明とかですごい便利だから」
「……うん」
「まあそれでペーパードライバーになってもさ、俺が居るし?」
「……うん」
「優子ちゃんが呼べば、俺はいつだって……」
「……」
どうしてだろう。こんなにも切ない。
大切さんはあたしなんかを相手して退屈じゃないのだろうか。つらくないのだろうか。あたしなんて何の面白みのない人間の隣に居て、息苦しくないのだろうか。
「優子ちゃん――」
そして不意に大切さんは立ち止まってあたしに振り返った。ビニール傘に当たる雨の音がやけにはっきりと耳に響く。
「今度は明るい日に会わない? 太陽が出てる下で会いたいんだ。たった3時間だけじゃなくてもっと、優子ちゃんの傍に居たいんだ。……だめ、かな」
大切さんの目が真っ直ぐとあたしを見下ろして、あたしはいつだってこの目に逆らえたことはなかった。
「……別にあたしは、太陽が嫌いなわけじゃないです」
精一杯振り絞った声はどこか低くて怒ったように聞こえたかもしれない。
それでも彼の吸い込まれそうな黒い瞳はすっと柔らかい光を灯してあたしを見つめた。
「じゃあ明日、迎えにいくよ」
どこに、なんて野暮なことは聞かないほうが良いのだろうと思った。
≪ F I N. ≫