Je t'aime

3


 3日もしないうちに彼の美貌は瞬く間に有名になった。それも当然だと思う反面、休み時間の異常さは未だ信じられないでいる。また同時に、席替えをしていない今の時期は、やはりあたしの席は“特別”なようだというのも思い知らされる。
「ごめん、ちょっといいかな」
 そう言って勝手に陣取られている自分の席からノートやプリントを取り出す羽目になるのも不思議な気がする。ほとんどの人は立ち上がったり退いてくれたりするのでそんなに問題はない。中にはまるきり無視する人もいるけど、そういう場合は必ず彼が一言くれたりするのだ。
「ほら、椿ちゃん困ってるでしょ」
 彼が一言で促せば100パーセント事は上手く運んでくれる。感謝しつつ大変だなあという思いが日々増していく。でもこんなことには慣れてるんだろうな、というのも仕草一つ、気遣い一つ気づけば簡単に想像がついた。
「ありがと」
 渋々といった感じで退いてくれた子にも藤崎大和にも視線を合わせて言葉を一つ出す。もちろんあたしの得意技の笑顔も一緒だ。人見知りの激しいあたしが世間を上手く渡れるように身に付けた武器だ。これは予想以上に万人ウケする素晴らしい表情だと知ったのはまだ記憶の曖昧な幼い頃だった。
 彩芽の席に退散してくると、途端にここでも話題は藤崎大和のことになる。仕方がないと言えばそれまでだ。それに今日は委員やら係やらを決めるので、より一層拍車が掛かったように彼の名があちこちで飛び交っていた。
「いいなあ。椿ちゃん、だってさ。ヤマト君が下の名前で呼ぶ女子って椿だけじゃん」
「それは苗字が同じだからでしょ」
 取ってきたあたしのプリントを自分のそれに写しながら彩芽が羨ましそうに言った。既に彩芽も立派な彼のファンの一員になっている。あたしも一応隠れファンだ。でも中には積極的に近づいていく人もいて、そういう人を見るたびに強いんだなと感心してしまう。あたしは見ているだけで充分だし、言葉は悪いけど実際彼は観賞用だ。やっぱり一番カワイイのは自分だもの。
「そりゃそうだけど。でも椿は……あれ、椿がヤマト君の名前口にしてるのって聞いたことないかも」
 何気なく彩芽が言った言葉にあたしは曖昧に笑顔を見せてプリント写しを促した。
 あたしはあまり人の名前を呼ばない。人の呼び方はそれだけで自分との距離感を表すことになるからだ。人との距離を今一つ掴むことが苦手なあたしにとって、それはひどく困らせる。だから呼ばない、というか呼べないと言った方が正しいかもしれない。あたしはずっと気兼ねなくすんなりと名前を呼べる人が羨ましくて仕方なかった。


 今日のホームルームは委員を決めて、文化祭の出し物も決めるらしい。ここの学校は文化祭が6月にあるから、新学期が始まると同時に準備を始めないといけない。中間テストを挟むため、時間的にギリギリの開始が学期初めなのだ。1年の時は本当に大変だったけれど飲食店は3年生だけしか許可されてないかった分、楽なものだった。2年になると慣れもあって随分凝ったものもできるようになったが、今年は最後の年ということもあって皆の気合も違ってくるんだろう。
「学級委員は洋介がやれば良いんじゃね? 去年もやったろ」
 森岡君の鶴の一声で男子の学級委員は篠原君に、女子はバレー部の高郷さんに決まった。彼女はバレー部で、170センチはあろうかという身長とショートヘアがよく似合うボーイッシュな女の子だ。
 その後森岡君自身は通年任期の校外学習委員に立候補していた。要するに遠足委員だ。
「椿ちゃんは何するの?」
 トントンと肩を叩かれて振り向くと、藤崎大和があたしの顔を覗きこむように前屈みの姿勢になって聞いてきた。キレイな顔にニコニコと見つめられて胸が高鳴らない女の子なんて居ないのではないだろうか。
「一応、図書委員がイイナと思ってるんだけど」
 内心どぎまぎしながら答えると彼は「ふうん」と満足げに呟いてまた笑顔を見せる。
「ヤマトは体育委員が良いんじゃない? 運動得意そうだし」
 学級委員に任命された篠原君が早速教卓に立って彼を指名した。確かに身体能力は高そうだ。体育祭は夏休み明けにあるから前期はほとんど仕事がないけれど。
「だめだめ。もう決めてるし」
 前屈みになっていた姿勢を正して彼は篠原君の提案を却下した。意外そうに篠原君があたしの後ろに目をやる。
「何だよ?」
「図書委員」
「ええっ!?」
 それはあたしの心の叫びだったはずだけれど、実際に声を出したのは篠原君と森岡君と、あと数名のクラスメイトたちだ。
「お前、つくづく期待を裏切る奴だな」
「ありがとう」
「褒めてないから」
 藤崎大和と篠原君のやりとりにクスクスと笑いが漏れる。あたしも思わず笑ってしまった。見ると先生まで笑っている。まあこの先生はいつも笑顔なんだけど。
「んじゃあ、他に図書委員に立候補する人は?」
 篠原君と高郷さんが見回すけれど誰も手を上げなかった様子で、高郷さんは黒板に彼の名前を書いた。彼女の字はイマドキの癖のある字だけれど、読みづらいって程ではない。あたしだったらもう少しきれいに書けるかな、と少し思ってしまったのは秘密。
「じゃあ男子はヤマトで。女子は?」
「椿ちゃんがやりたいって」
 篠原君の言葉に間髪を入れず藤崎大和が言った。あたしはもう一度「ええ!?」と心の中で叫ぶ。そういうことされると恥ずかしいんだけど……。
「あっ、ホント? 他には?」
「面白いじゃん、ダブル藤崎で」
 森岡君が言ったことに皆ウケて、なんとなくこれで決まった空気に包まれた。高郷さんがあたしの名前を書いていく。まじですか。
「それじゃあ次。文化委員。大変だと思うけど」
「はいっ」
 本日のメイン、文化委員の立候補に真っ先に手を上げたのは分厚い眼鏡をかけてひょろりとした女の子だった。あいにく、まだあたしはクラスメイト全員の名前と顔を一致させていないので彼女の名前が分からなかった。
「えっと、高倉さん。で、良いかな。他にやりたい人は?」
 こうして順調に黒板にはクラス全員の名前が書かれていった。
 意外に早く終わったので、休み時間を挟まずにそのまま文化祭の出し物について話し合いをすることになった。篠原君たちと交代して高倉さんたちが前に出る。彼女は大人しそうに見えて実際はかなり積極的な人らしい。40人弱の人間の前に立っても臆することなく、むしろハキハキとした口調で喋りだした。
「今年の文化祭は劇をしたいんですが、やっぱり飲食店の方が良いですか?」
 いきなり皆の意見を聞かずに自分の提案を述べる彼女に、今年のクラスは一味違う、と感じたのはあたしだけではないはずだ。そう思うと楽しくなってきた。さっきまでの気恥ずかしさは既に消えてしまっていることにもあたしは気づかなかった。