Je t'aime

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「台本ができました!」
 ホームルームが始まるとすぐに高倉さんが冊子を配り始める。ザラ紙をホッチキスで止めたシンプルな作りの冊子には、クセのないまるで書道の手本のような文字が手書きで飾られていた。開いてみると、1ページ目にはキャストの名前がずらりと並んでいて、トップに藤崎大和の名前、その下にあたしの名前が書いてある。
 ああ、やはり新入生歓迎会の時の言葉は嘘じゃなかったんだ、と今更ながらに思う。
「来週には練習を始めたいと思うんで今日から早速準備に取り掛かりましょう! ってことで、各自グループごとに分かれて作業なり相談なりしてください。分からないことは私に聞いてくださいね」
 高倉さんの指示のとおりに各々動き出す中、あたしと彩芽もキャストグループのところへ移動する。ハッキリ言って彩芽ほどやる気が出ない。むしろ足が重い。
「じゃあとりあえず本読みしよっか?」
 声をかけたのは継母役の中村さん。見た目大人しい感じのする人だけど、意外に積極的なのかもしれない、と勝手に分析してみる。他の人たちもやろうやろうと気合充分で、あたしだけがやる気のない顔をしているんだろう。
「椿ちゃん大丈夫? しんどいの?」
「うっううん、全然、大丈夫!」
 心配そうにあたしの顔を覗きこんできた藤崎大和に慌てて距離を空ける。背後から肩が触れ合うほどの近さを意識すると、心臓が急激に鼓動の速さを上げた。
「顔色悪いわよ?」
 ひんやりとした彼の手があたしの頬に重なった。ひえー!?
「大丈夫だってば! ほ、本読み、始めようよ」
 思わず声を張り上げてしまった。恥ずかしい……。
 どうも彼と居るとペースを乱される気がする。あたしはサササと何気なく彼との間に距離を作る。彩芽を間に入れる。あたしの気持ちに気づくはずもない彩芽は不思議そうな表情をしたけれど、その後ろの彼は何となくあたしを睨むように目を細めた。あたしの思い過ごしであればいいんだけど。
 そのあともずっと彼の視線が気になって本読みどころじゃなかった。

 ホームルームが終わると化学室にも顔を出さずにあたしは帰ることにした。今日は芳香も用事があるみたいで、下足室でばったりと会った。芳香はあたしが帰ろうとしていることに少し驚いた様子だったけれど、そのことには何も触れずに駐輪場まで一緒に行こうと誘ってきた。
「そういえば聞いたよ、ヤマト君の噂」
 途端に再び鼓動が速くなる。彼の噂と言えば一つしか思い浮かばない。
「彼女居るんだってねぇ」
 あたしが言うと芳香もウンウンと頷く。
「意外だよねぇ」
 続けて言うと芳香は「え?」と驚いた表情であたしの顔を覗きこんだ。
「信じてるの? あんなのデマに決まってんじゃん」
 今度はあたしが「へっ?」とマヌケな声を出して驚いた。
 デマ?
「だって藤崎が居るのに彼女いるわけないじゃない」
「いや、その前提がオカシイから。それに彩芽と見たよ、南女の子と家に入っていくとこ」
「ええ?」
 芳香が信じられない、と声を上げる。あたしにしてみればデマだと言い切るその根拠を知りたい。藤崎大和があたしに気があるなんて思えないもの。嫌われていないとは思うけど。
 あたしがキョトンとしていると芳香は難しい顔をして考え込むように唸った。そんなに真剣になることでもないのに、と思う。そしてここから駐輪場まではあっという間だ。牛のようなペースで歩いていたけれどすぐに着いてしまった。
「じゃあね、芳香」
「うん」
 芳香は難しい顔をしたまま、それでも腕を大きく振るのはいつもどおりで、滑稽な芳香に噴出しそうになるのを必死で押さえるハメになった。
「何してんの?」
 駐輪場で笑いを堪えていたあたしに不意に後ろから声が掛かる。振り返ると芳香の姿はすでになく、目の前にはクラスメイトの男の子があたしを覗き込んでいる。割と細身な体にすっきりとした顔立ちをしている彼は、藤崎大和と仲の良い……そうだ、森岡君の相方だ。今から部活なのか、ブランドメーカーのジャージ姿だった。
「いや、別に」
 おなかを抱えていた腕を背に回して何気ない素振りを見せる。篠原くんは苦笑したように顔をゆがめて、慌てて戻す。
 え。笑われた?
「あ、あー、ヤマトが捜してたよ。劇のセリフ合わせしたいって」
 にっこりと微笑まれた。さわやかだ。これじゃあ笑われたと言及できない。
「……そっか。ありがとう。じゃあ教室に戻ってみる」
「うん、見かけたら言っとく」
 再びにっこり。どうやったらそんなふうに爽やかな笑顔を見せられるんだろう。
 あたしはふっと藤崎大和の笑顔を思い出した。彼は篠原くんよりも綺麗な顔立ちだけれど、篠原くんほど爽やかではない。サッカー部のキャプテンだという篠原くんがモテるのが分かった気がした。
「そういえばさ」
 思い出したように真剣な表情になった彼に、あたしは戻ろうとしていた体を止めて彼を見上げる。
「ヤマトの噂、信じてないよな?」
「え?」
 意外な質問にあたしは咄嗟に答えられなかった。
 信じてない、とは言い切れないのも本当だ。
「あいつ藤崎さんにだけは信じてほしくないと思うんだ」
「え……?」
 それって芳香と言っていることが同じだ。
「ごめん、俺が言ったこと忘れて。俺が言う事じゃなかった」
 それだけ早口で言うと、篠原君は大きな鞄を揺らしながらグラウンドへ走っていった。そこでやっと、グラウンドは駐輪場とは真逆の方向だということに気づいた。