Je t'aime

10


 教室には誰もいなかった。
 あたしは窓際に立って帰っていく生徒達を眺めながら、ぼんやりと南女の彼女を思い出す。後ろ姿しか見えなかったけれど、二人はよく似合っていた。

 足音がして振り返った。てっきり藤崎大和だと思っていたのに、そこに居たのは同じ委員会の加島君だ。加島君もあたしが教室に残っているとは思わなかったらしく、細い目を少し丸くしてこちらを見ていた。
「帰らないの?」
「加島君こそ」
 すると加島君は困ったように笑った。あたしは――あ、と気づいた。
「僕が剣道部だって知ってて言ってる?」
「……だよね。ごめん」
「いや、謝られることじゃないんだけど」
 そうだ。今この人は体操服を着ているのだ。まさかこんなに遅く体育帰りではないだろう。あたしも加島君と同じように苦笑いになった。
「それで藤崎は、どうしたの?」
「あー……うん……」
 話が自然に戻されて、何も疚しいことはないけど、それでも何となく加島君には言いづらい。どうしてだろう。急にすごく恥ずかしくなった。こういうシチュエーション、漫画でしか知らないからだろうか。彼女たちはどうやって返事していたっけ。
「もしかして藤崎ヤマト?」
「えっ?」
「藤崎が待ってるの、あいつじゃないの?」
「え」
 沈黙は肯定と受け止められるって、誰の言葉だったか。ホラ、と加島君は笑った。
 どうして分かるの。という言葉が出そうになって飲み込んだ。当然だとでも言うような表情を見せる加島君にとってそれはあまりにもおかしなもののような気がした。
「別にいいと思うけど。藤崎が気にすることじゃないよ」
「え?」
 何も答えなかったあたしに、加島君は「じゃあね」と姿を消していった。たぶん自分のクラスに戻ったんだろう。
 っていうか、よく分からないんだけど。
 あたしそんなに――顔に出てたんだろうか。
 思ってること全部、見透かされていたんだろうか。
 加島君はどこまで分かったんだろうか……。
「椿ちゃん!?」
 慌てた様子で入ってきた藤崎大和はあたしのぼんやりした顔を見て苦い顔をした。
「椿ちゃん……アタシのこと苦手なの?」
「は?」
 唐突な質問に目が点になる。いきなりどうしてそういう質問になるのだろう。
 そりゃ――得意ってわけではないけど。
「だって加島とは普通に話せてるじゃない」
 なんだそれ。
「今も普通に話してるよ?」
 すると藤崎大和は困ったような考え込むようなもっと苦いような表情をして、ふ、と顔を逸らした。疲れたような境地に辿り着いたような諦めたような表情が垣間見える。
 なんだか、嫌な感じ。
「ごめん。せっかく戻ってきてくれたのに。……セリフ合わせしよ。椿ちゃん今日全然集中してなかったでしょ」
「――うん」
 これじゃああたしが悪いみたいだ。どうしてそんなカオしてるのよ。藤崎大和でしょ。もっと明るくしてくれなきゃ……どうして言いか分からない。


「違う! 違うの!」
 高倉さんが叫んだ。クラスに居た誰もが何事かと動かしていた体を止めた。
「シンデレラの衣装はもっと可憐な感じにしたいのよ。こういう清楚な感じもいいんだけどね、藤崎さんにはやっぱり白いレースよりピンクの花びらって感じじゃない? ヤマト君だったらこれでも全然問題ないんだけどね」
「ええ? アタシ絶対やだよ。白いタイツ履けとか言われても!」
 笑いながら藤崎大和がキャストのグループから声を上げた。高倉さんが居る衣装グループの皆が振り返って一緒に笑う。
「えー期待してたのにぃ」
「アタシはねぇ裏方が良かったのよ。でも椿ちゃんが是非にって言うからぁね?」
 急に振られた。なんだソレは。
 きょとんとしているとすぐに衣装グループの一人が続けて言った。
「ほんと、ヤマト君って藤崎さんお気に入りだよねえ。意外な感じがしたけど」
 彼女が言い終わるのと同時に大きなダンボールが扉から覗いて見えた。
「え、なになに? ヤマトと藤崎さんが何だって?」
 ちょうどダンボールを貰いに行っていた森岡君が帰ってきて会話に加わる。最近彼はあたしと藤崎大和関連の話題に敏感だ。そういえば最初から森岡君はあたしと藤崎大和をはやし立てていたっけ。
「藤崎さん気に入られてるよねって話、ヤマト君に」
「いいじゃない、可愛いもん、椿ちゃん」
 うへっ? 何言ってくれてるんでしょう、この人は。
 当惑するあたしを差し置いてオォー!とクラス中興奮気味に騒ぎ始めた。その中心は言わずもがな藤崎大和自身だ。ねぇ?とあたしの方に笑いかける。……まるで昨日の嫌な空気のままに終わったセリフ合わせなんてなかったみたいに。

 あの後あたしたちは完全下校時間ギリギリまで居て、ろくに会話もせずに一緒に玄関で別れた。正直、今朝学校まで来る道のりは気分も足も重かったのに。

 森岡君のあと直ぐに入ってきた篠原君は、森岡君と同じように自分と変わらないくらいの大きなダンボールを抱えたままクラスの盛り上がりを黙って傍観していた。ちらっとあたしの方を見て肩を竦めて見せるけど、篠原君は未だ謎の人だ。
「噂の彼女はどうしたんだよぉ」
 ケラケラと笑う森岡君に一瞬クラスの空気が固まったのが分かった。だけど藤崎大和がへらっと笑うからすぐにもとの和やかな空気に隠される。
「アタシは椿ちゃん一筋よぉ? 昔飼ってた猫にそっくりで抱きしめたいくらい」
 そう言って笑うから、なぁんだとみんなの肩の力が抜けていった。あたしの隣では彩芽が思い切りあたしの腕をバシバシ叩いて喜ぶから、余計にそう感じたのかもしれない。
「猫かよ!」
「でもホント、椿ちゃん可愛いわよ」
 ――そんなサワヤカに微笑まれても……複雑なんですけど。