Je t'aime

12


 あたしが掃除を再開した少しあとに、雑巾を洗いに行っていた彼が戻ってきた。あたしはちらっと藤崎大和の姿を確認しただけで、どうしてか顔を上げられなかった。あたし今までどうやって体を動かしていたっけ。
「あ、藤崎!」
 最初に声を挙げたのは彼の後ろから教室に入ってきた森岡君だった。それでも顔を上げられずに黙々と箒を動かす。
 どうしよう。彼の名前を聞いただけなのに変な緊張感があたしを襲う。あたしには彼女のことなんて関係ないのに。
「藤崎。藤崎ってば」
 突然肩を叩かれて飛び上がりそうになった。
「えっ?」
 藤崎――って、あたしのことか!
 振り返ってようやく、森岡君を初めとしてあたし以外のほとんどの人は、彼を「ヤマト」と呼んでいたことを思い出した。あたしだけが気づかないうちに、皆はそうやって同じ苗字のクラスメイトを区別していたんだ。
「加島が呼んでるけど」
「あ、うん」
 恥ずかしいなぁ。さっきのでばれちゃってないよね? あたしが藤崎大和を意識しすぎてるって。なんでこんなに動揺するのか自分でも不思議だけど、多分分かってる。同じ苗字で、同じ委員をしてて、シンデレラ役を薦められて、少し……ううん、大分優越感に浸ってしまっていたのだ。まるで自分は特別なんじゃないかって、調子に乗っていたのかもしれない。
 あたしは真っ赤になりそうな顔を隠すように俯いて、早足に教室を出た。箒を持ったままで邪魔だけど、掃除中だったのだから仕方がない。
「どうしたの?」
 努めて平然として、あたしは加島君の前に立った。委員会のことだろうか。加島君があたしを呼び出したのは初めてのことだ。
「うん、ちょっと気になって。今、南女のコが来てるだろ」
「来てるねぇ。……けどそれがどうして?」
 あたしが首を傾げて見せると、言い難そうに加島君は頭を掻いた。
 そういえば加島君は藤崎大和の彼女が南女の子だって知っていたのだろうか。
「昨日棚口を見たからさ。ちょっと変だったし」
「へ? 棚口?」
 思いがけない名前にあたしの声は裏返ってしまった。
 いや確かに、昨日は珍しく部活に来ていたし、その割には何もせずに帰って行ったし、変だったけどさ。
 でも加島君と棚口って仲良かったっけ? あたしの中ではタイプが似ているというだけで特に接点はない。類は友を呼ぶ――って何のことだ、自分。
「ああ、今一緒のクラスなんだよ。棚口も文芸部だろ?」
「うん、そうだけど」
 そうなのか。同じクラスなのか。ってことは棚口も芳香のクラスの隣なんだな。
 あたしが納得したように頷くのを見て加島君は話を本題に戻した。
「それでさ、ちょっと聞いたんだけど、南女に棚口の」
「椿ちゃーん!」
 加島君と彼の声が重なったと思った瞬間、あたしはものすごく強い力で後ろに引っ張られた。
「ぅぐっ!?」
 勢いで箒が手の中から落ち、甲高い音が廊下に響いた。
「椿ちゃん! 何なのアレは!?」
 やたらと耳の傍で彼の声がする……なんて思っていたら、あたしはいつの間にか藤崎大和に背後から抱きつかれていた。いや、羽交い絞め? なんだかよく分からないけれど、よく分からないこの体勢にあたしは完全にパニックに陥っているのは確かだ。
 頭はショート寸前だけれど、なんとか彼の指すアレに視線をやると、目の前には血相を変えた棚口稔明がいた。
 って、ええ!? あたしこそ、この状況が分からないんですけど!
「あちゃー……」
 辛うじて加島君の溜め息が聞こえた。たぶんこの中で唯一状況を把握しているのは加島君だけだ。
「藤崎! お前香苗に何やったんだよ!」
 棚口は今まで見せたこともないような興奮した様子で叫んだ。
 ――か、かなえ? 誰ですかソレは。
「何もやってないって! ってかアンタ何なのよ、彼氏?」
 彼氏? 棚口が? え? 三角関係!? なんで棚口と!?
 周りも一瞬にしてざわつき始めた時、棚口はこれ異常ない声で言いのけた。
「香苗は僕の妹だ!!」


「……信じらんない」
 芳香は呆れた様子を見せたかと思うと、思いっきり笑い出した。事のいきさつを話し終えたあたしはすっかり疲れきってしまった。
 要するに、皆が藤崎大和の恋人だと噂していた南女の彼女は棚口の妹だったのだ。彼と彼女……香苗さんは、彼の前の学校の友人の紹介で知り合い、最近引っ越してきたと聞いた香苗さんは会いたいと言ってきた。それで実際に会ったのが最初の目撃者の話の時で、あたしと彩芽が尾行した日も会う約束になっていたときだったのだ。二人はフツウの女友達として付き合っていたのを、棚口が誤解をしてここ最近二人のことを探っていたらしい。
 棚口がシスコンだったこともショックだったが、棚口と一緒になって勘ぐっていた自分にもショックだった。それと同時に本当に何もなかったようで安堵したのも事実だった。
「それで、今日はどうしてグッチの妹が来てたわけ?」
 あたしが一通り話し終えると芳香がそう聞いてきた。そうなのだ。まるで三角関係の修羅場みたいなあんな騒ぎになった発端はもともと、香苗さんがうちの高校に来たからだ。
「それがね、前にあたしと彩芽が香苗さんとマンションに入っていくとこを見たって言ったでしょ」
「うん。それが?」
「そこ、香苗さんの、つまり棚口の家だったらしいんだけど、そこに藤崎君がシャーペンを忘れてたんだって。それを親切に持ってきてくれたらしいのよね」
「ああそう……親切ねぇ」
 再び笑いそうになるのを堪えながら芳香は頷いた。――いや、いっそ笑ってくれた方が良いかもってくらい怖いカオになってるんだけど。
「ほんっと親切よね。おかげであたし、めちゃくちゃ恥ずかしかったんだから!」
 あたしは思い出しただけでも顔が赤くなるのが分かった。
 あの後、誤解が解けた後も彼はなかなかあたしを放してくれなくて、掃除がなかなか終わらなかった。この際掃除なんてどうでもいいから早く離してほしかったのに、周りが冷やかせば冷やかすほど彼は調子に乗って力を込めるのだった。
「いい加減にしてやれよ」
 呆れたふうに加島君が言ってやっと、離してくれたのだ。あの時は死ぬくらい恥ずかしかった。
「ごめんね、椿ちゃん……こういうの苦手よね」
「う、ん……」

 でも不快だと感じないあたしも居たりして。