Je t'aime

16


 文化祭当日は生憎の雨だった。けれどグラウンドでの催し物がなくなった分体育館の中は常に満席状態で――と言ってもパイプ椅子すら並べてない座敷のような感じで、皆冷たい床の上に直に座るというスタイルなのだけど――例年より舞台への歓声や拍手が多いことは嬉しい。
 2年3組のパントマイム劇が終わった後が、あたしたちの出番になる。舞台袖で緊張しているのはあたしだけじゃない。
「頑張ろうね」
 藤崎大和がふわりと笑みを浮かべるから、あたしもつられて顔の筋肉が柔らかくなる。
「うん」
 そもそも彼に「緊張」とか「あがる」とかいう単語は無縁のような気がする。何でも楽しんでしまうような、例えばそれが自分にとってマイナスなことでもふわふわと何となく越えられてしまうような、そんな感じがする。
 そういうところは羨ましい。そんなふうになりたいと思う。
 ふと小さく握られた手に気づいて、あたしは黙って握り返した。

☆ ☆ ☆ ☆

 零時になって舞踏会から逃げてきたツンデレラは、ツンデレラを追いかけてきた王子に捕まる。既に魔法は解け、来ていた服は綺麗なドレスではなくボロボロの服に戻っていた。それでも王子はツンデレラの手を離さずに彼女の体を自分の方へ向けた。魔女を雇ったのは王子自身だから、ツンデレラの変身にさして驚く様子もない。
「君の名前をまだ聞いてなかったね。ぜひ教えてくれないか」
「嫌です」
 ツンデレラが断ると王子は不思議そうに首を傾げる。
「どうして?」
「どうしてって……なんで教えなきゃなんないのよ。あたし急ぐから離してっ」
 ツンデレラはぶんぶんと腕を振ってみるが王子の手はしっかりとツンデレラの手を握ったまま力が緩む気配も見せない。ムキになって体いっぱい動かしても効果はなかった。はぁはぁと息を切らすまでやってみても王子の反応は変わらない。
「急いでんのよ、ほんとに! 離せ!」
「名前を教えてくれたら離すよ」
「嫌だっつってんじゃん、分かりなさいよ」
「君こそ早く名乗った方が身のためだって分かってもいいんじゃないかな。力の差なんてはっきりしてるんだから、君が名乗らない限りいつまで経ってもこのままだって」
 ニヤッと余裕のある笑みを見せる王子に、ツンデレラはプツッと切れた。魔法で消えなかったガラスの靴を脱ぐと、それを思い切り王子にぶつけた。いきなりの攻撃に力を緩めた王子の手から解放されたツンデレラはそのまま振り返ることもなく逃げることに成功した。
「やれやれ……。でも良い品が入った」
 ツンデレラの走り去る後ろ姿を見届けながら王子は動く気配も見せず、当てられたガラスの靴を拾い上げると、意味ありげな微笑を浮かべる。
――暗転。
「数日後。王子はガラスの靴の主を探すために、家来を町中に派遣しました。もちろんツンデレラの家にも彼らはやってきましたが、継母たちの計らいでツンデレラは居ないことになっていました」
 ナレーションの後に照明が当てられ、舞台はツンデレラの家の中、継母とその娘達が交互にガラスの靴を履いていた。しかし大きかったり小さかったり足の形が合わなかったりと、やはり当てはまる者は居ない。
「これでこの家の娘は全員ですか?」
 家来の一人が聞くと、継母は「もちろんですわ」と答えた。
「召使の娘も居ないのですか? 王子は若い娘なら身分は関係ないとおっしゃっていましたが」
 すると義姉たちが不安そうに母を見る。しかし継母は大きな扇を口元に当てたままもう一度「もちろん、この子達だけですわ」と答える。
「見ての通り、この家は貴族と言っても平民よりも少し立派な家に住んでるだけにすぎません。この家に召使の娘など雇うお金はありませんわ」
 堂々と言い放つ継母に、家来達は納得した様子を見せた。
「わかりました。ではこの家は該当者なしということで」
「残念ですが、しょうがないですわね」
 家来達が軽く礼をし、彼女たちもスカートの裾を持ち上げて礼を返す。
 そしてまさに彼らが出ようとしたとき、置くから激しい物音とともにツンデレラが倒れこんできた。その場にいた者が一斉に振り返り、継母たちはもちろん、帰るところだった家来達も大袈裟なほど驚いた。
「っいたたた……」
「な、何やってんのよ、あんた!」
 義姉の一人が呆れた声で叫んだ。ツンデレラは慌てて立ち上がると埃を払い、くるりと踵を返して奥の部屋へ戻ろうとした。だが。
「待て!」
 家来のひとりが呼び止め、ツンデレラの動きはぴたりと固まる。呼び止めた家来はツンデレラから継母の方へ向き直った。
「奥方、これはどういうことですか? 先ほど貴女はもう娘は居ないとおっしゃられた。だがまだ居るじゃないですか」
 だが継母は一瞬たじろいだものの、すぐに態度を元に戻し、再び大きな扇を仰いだ。
「ええ、わたくしの娘はこの三人だけですわ。それに召使の娘も雇っておりません。あの子は召使でもわたくしの娘でもないので、嘘を言ったわけではありませんよ」
「しかしこの家にいる娘には変わりない。さあそこの娘、貴女の身分は知りませんがあなたにもこの靴を履く権利がある。ここへ来て足を入れてみなさい」
 家来がガラスの靴を差し出す。しかしツンデレラは振り返ったもののガラスの靴を見つめたまま近づこうとしない。不思議に思った家来達はもう一度声をかける。
「おい、どうした。早くしないか」
「な、なんであたしが……どうせ合わないんだから無駄よ」
 そんなふうに渋る娘は町中探してもどこにもいなかった。家来達はさらに驚き、しかし「命令だ」と引かなかった。
「いいって言ってんだからさっさと次へ行きなさいよ」
 ツンデレラの言い様にさすがの継母も呆れを越えて苛立ってきた。
「まぁ、何てことを言うの! 合わないのを分かってても履いてみるのが礼儀ってものよ。さっさと履きなさいな!」
「嫌だったら!」
 強情なツンデレラにどうしようもない空気が流れる。
 しかしその空気もすぐに打ち消された。突然愉快そうな笑い声が聞こえたかと思うと、王子自らが出向いてきたのだ。家来達はさっと跪き、継母や義姉たちは驚きのあまり固まってしまった。ツンデレラはいきなり現れた王子に顔を歪ませて身構える。
「ははは、その強情さ。履かせなくとも分かるよ。君こそ僕の探していた人だ」
 王子はツンデレラが逃げないように素早く抱き寄せると、ツンデレラの手を取って優しく口付ける。
「さぁ今度は投げつける物は何もないよ。僕のものになってくれるね、ツンデレラ?」
 余裕の笑みを見せる王子の顔を睨みつけるツンデレラは、思い切り王子の足を踏みつけた。
「痛っ」
 あまりに勢いをつけたそれは王子に衝撃的な痛みを与え、ツンデレラは王子の腕から逃げることができた。しかしすぐに立ち直った王子に追いかけられることになる。今度の王子はただ黙ってツンデレラの背中を見届けることはなかったのだ。

「こうしてツンデレラと王子の愛の追いかけっこが始まりました。果たして王子の愛はツンデレラに届くのか? それは二人だけが知るのです」

☆ ☆ ☆ ☆

 拍手とともにカーテンが下ろされる。
 袖に戻ったあたしたちはお互いに満足げな笑みを交わした。とりあえず大きな仕事は終わったわけだ。あとは文化祭を楽しむだけ。
「じゃあ荷物を全部教室に戻すから。着替えは後でやってねー」
 高倉さんの指示に皆が従い、あたしはワンピース姿のまま小道具をダンボールに詰める作業をすることにした。藤崎大和は森岡君や篠原君たちと背景が描かれた大きなダンボールを運び出すようだ。
「後で一緒に周ろうね」
 すれ違いざまにそう囁かれ、あたしは舞台に立ってたときの緊張とは全く違う緊張を強いられることになってしまった。
「ねぇねぇ、さっき何て言われたの?」
 彼が行ったあと、素早くやって来た彩芽に早速突かれたけど、あたしは上手く答えることができず、余計に冷やかされてしまった。けど、そんなこと言われたって、どうしたらいいのか本当に分からない。
 小道具で使った大きめの扇を持つ手が震えているのに気づいた。
「あっ、そういえばこの後どうする? 芳香と一緒に周ろうかって話してたんだけど。椿はヤマト君に誘われたりしてない?」
 一瞬にしてあたしの顔が熱くなる。
「……あ、じゃあ芳香と周るね」
 え、待って、あたしまだ何も言ってないんですけど。