Je t'aime

17


 背景のダンボールやら小道具やらを全て教室に運び終えると、後は何しようと自由だ。隣の空き教室で着替える女子やそのままの服装で出て行く男子など、それぞれの行動も様々だった。貴族D役だった彩芽は隣の教室へ入ったかと思うといつの間にか居なくなっていた。本当にあたしを置いていったのだ。そのことに気づいたあたしは愕然とした。
「椿ちゃん、着替えちゃうの?」
 空き教室のドアを掴んでいた手を取られて顔を上げると、舞台の上と同じ綺麗な顔の彼があたしの表情を覗き込むようにして見ていた。
「そう言う藤崎君だって」
 彼を見ると既に制服姿に戻っている。あたしだけこのままだなんて恥ずかしすぎる。ただでさえ舞台の上に立って死にそうだったのに、これ以上目立つのは嫌だ。だけどそんなささやかなあたしの望みは藤崎大和の前に空しくも打ち砕かれた。
「アタシはいいの。椿ちゃんはそのままだからね。行こ!」
 なんで!?
 そんな反論もできないままあたしは藤崎大和に腕を引っ張られずるずると引きずられる嵌めになった。――って、これって手を繋いで歩いているのとそう変わらないんですけどっ。
「分かったから! だから、その、手、離して?」
 あたしは急いで手を離そうとするけど、ツンデレラと王子のようにぶんぶんと腕を振ってもそれは離れない。なんだかまだ劇をやってるみたいだ。
「おっ、王子! 姫を捕まえたのか?」
 なんていう声まで聞こえてきて、あたしはもう全身が真っ赤だと思う。けど彼は特に気にするでもなく、むしろ声を掛けた方へ向かって笑顔を振りまき、「おかげ様でラブラブでーす」なんて言いやがった。
 違う、違うから! 彼は王子かもしれないけど、あたしはツンデレラじゃないから! 姫にはならないから!
「お腹減らない? たこ焼きでも食べようか」
 振り返ってにっこりと笑う彼に、あたしは笑顔を返すなんてことはできなかった。眉を寄せてるよりは同じように笑った方があたしも楽だし、彼にも嫌な思いをさせずに済むってことは分かっているのだけど。そっちの方が絶対良いに決まってるのだけど。あたしは笑顔を返すことができずに俯いた。
「たこ焼き嫌い?」
「……好き」
 手を離してくれれば良いのに。そうしたら笑顔を向けられるのに。こんなにしっかりに握ってくれなくても逃げようなんて思ってないのに。
 だけど、それを口で言わないあたしもダメなんだと思う。
 そんなことを考えているとすぐにたこ焼き屋をやってる化学室に着いた。顔を上げて看板を見る。そこで「あ」と気づいた。このたこ焼き屋は3年1組がやってるんだ。つまりは、棚口と加島君のクラスでもある。
「あーっ王子と姫じゃん! 見たよぉ。良かったねぇ王子」
 ウェイトレスさんがそう言うと、また彼はさっきの野次にも返した時と同じ笑顔を向けて同じような返事をした。
「そうなの、ラブラブなの」
 彼はわざとあたしと向かい合うように座って繋いでる手をアピールして見せた。
 もうやだ……。あたしは恥ずかしすぎてウェイトレスさん初め、周りの反応を見るのが怖くてずっと俯いたままだ。
「ご注文は何にしますぅ? て言ってもたこ焼きと飲み物しかないんだけどぉ。ドリンクはコーラとカルピスとオレンジジュースとお茶の中から選べます」
「じゃあお茶で。椿ちゃんは何にする?」
「オレンジで」
「はぁい、かしこまりましたぁ」
 ウェイトレスさんが奥へ引っ込むとあたしはまた懲りずに腕を振ってみる。でもやっぱり離してくれることはなかった。
「ねえ、あたし、こういうの嫌なんだけど」
 あたしは耐えかねて恐る恐る言ってみた。彼の表情は分からなかったけど、ぴくりと指先が反応したことは分かった。
「お願いだから、離して」
 やば。声が震える。ううん、実は足も震えてる。これじゃあ余計傷つけるだけかもしれないのに。
「……ごめん」
 案の定というか、彼は静かに手を離してくれた。ちらっと彼の顔を見ると、やっぱり傷ついたような表情をしていて、あたしの胸はぎゅうっと締め付けられる。違う、そんな顔をさせたかったわけじゃない。だからってずっと手を繋いでるのにも耐えられない。あたしはそのまま視線を向けてるのがつらくて、すぐに逸らした。
「あれー、藤崎じゃん?」
 不意に声を掛けられて、あたしと彼は同時に顔を上げた。あたしたちのテーブルに来ていたのは加島君だった。
「あ、そか、二人とも藤崎だっけ」
 あたしたち二人が一斉に振り向いたから驚いたんだろう。可笑しそうに笑って加島君は言った。
「注文はたこ焼き二つとお茶、オレンジジュースで良かった?」
 どうやら加島君もウェイターらしい。大きいとは言えないたこ焼きが4個並んでいるパックを二つと、紙コップに入ったお茶とオレンジジュースをそれぞれテーブルの上に並べていく。爪楊枝はご丁寧に既に刺さっていた。
「あら、意外にまとも」
「当然だよ。ちゃんとたこも入ってるからね。それより藤崎たち、すげぇ目立ってるぞ」
 加島君の言葉にあたしは更に落ち込んだ。
「だよねぇ。もうどうしよう」
 思わずあたしの口からそんなセリフが出てきた。加島君相手だと割りと気兼ねなく話せる。棚口に雰囲気が似てるからかもしれない。最近は棚口のシスコン振りを知ったから前よりはそう思わなくなったけど。
 加島君は困ったように苦笑して頷いてくれる。
「まぁ相手が相手だししょうがないよ。それに悪口を言われてるわけじゃないんだから、気にすることもないって」
「そうかなぁ」
 納得いかないあたしはそれでも愚痴をこぼしそうになって、加島君はまだ仕事中だったと思い出した。いくら文化祭だからってずっと喋ってるわけにはいかないよね。
「あ、ごめん、引き止めたみたいになって」
「ううん。じゃあごゆっくり」
 そう言って加島君は、今度はちゃんとした笑みを浮かべて他のテーブルの方へ注文を取りに行った。いい人だなとつくづく感じる。
 それからふと、目の前の彼が急に黙っていたことにも気づいた。
 彼もあたしが自分に意識が移ったと感じたのか、ふと視線を合わせる。そこにはさっきまでの傷ついたような表情じゃなくて、その前の笑みもなくて、ただ機嫌の悪そうな色が出ている――ように見えた。
「やっぱり椿ちゃん、加島相手だと普通に話せてる」
「そりゃ……友達だし」
「じゃあアタシは? まだ友達でもないの?」
 友達……なのかな。何だか違う気がする。彩芽や芳香みたいな関係とは違う気がするから。でもただのクラスメイトでもないと思う。あたしにしてみればクラスメイトっていうのは、本当にクラスが一緒ってだけでこんなふうに文化祭を一緒に周ったりする間柄じゃないもの。でも恋人でも家族でもない彼は、あたしにとって何なんだろう?
 恋人でも家族でもなかったら、やっぱり友達になるんだろうか。
「アタシは椿ちゃんと友達になりたいと思ってる」
「友達で良いの?」
 言ってから、失敗したと思った。
「え?」
 驚いた様子であたしを見る彼に、あたし自身どうしたらいいか分からなかった。頭に血が上る感覚がする。
「ち違うの、そうじゃなくてっ」
「椿ちゃん!」
 あたしが否定するのと同じくらいの速さで藤崎大和は立ち上がり、あたしの腕を引っ張って化学室を出た。手をつけてないたこ焼きはそのままだ。引っ張られながら振り返ると呆然とする他のお客さんと、面白そうにあたしたちを見る3年1組の人たちと、その奥で加島君と棚口が見えた。
「ちょ、なに、どこ行くの?」
 聞いても答えてくれない彼は、一度も振り返ることなく歩いていく。それはたぶん彼にしてみれば早足程度なんだろうけど、あたしは確実に小走りになっていた。
 校舎を出ると外は雨で、先生でさえ出ていない無人の状態だ。玄関から体育館の下まで走る。少し濡れたけれど気になるほどではなかった。そのまま壁に沿って歩いていくと駐輪場に出る。そこは屋根が在るので濡れる心配は完全になくなった。彼は駐輪場の更に向こう側の、運動部のプレハブに向かっていた。運動部が合同で部室として使っている小さな建物だ。
 彼は何の躊躇いもなくそこの扉を開けた。雨の湿気で、締め切った状態のプレハブの中は、決して居心地のいい場所ではなかった。
「ここの鍵は壊れてるから」
 彼の言葉に素朴な疑問が湧く。
「なんで知ってるの?」
「森岡から聞いた」
 運動部合同の部室であるここは、サッカー部の部室でもあったわけだ。
 彼が扉を閉めると、空気も雨も外界から完全にシャットアウトされる。静かな沈黙だけが流れる。
「ねえ、さっきの、どういう意味?」
 静かに流れる空気の中で、彼もまた静かな口調で言った。さっきの、というのは「友達でいいの」と言ったくだりのことだろう。でも意味なんて聞かれたって、あたし自身がよく分かっていないのに、答えられない。
 答えられず、ずっと黙ったまま突っ立っているあたしに、彼がゆっくりと近づいてきているのが分かる。
 それからやっぱり、あたしは彼の腕の中に居る。あたしの頭は彼の胸のところに押し当てられ、トクトクと心地良い鼓動が屋根や窓に当たる雨の音と一緒に聞こえてくる。
「ねえ、椿ちゃん」
 彼の声が耳元で聞こえ、彼の鼓動よりもあたしの心臓の波打つ音の方が大きくなった。
「そんな顔、アタシ以外には見せないで」
 切ない彼の声をあたしはただじっと聞いていた。
 今あたしはどんな表情をしていると言うのだろう。