Je t'aime

18


「そんな顔、アタシ以外には見せないで」
 切なそうな声でそう言われても、あたしには自分がどんな顔をしているのか分からない。ただ彼に抱きしめられるのは嫌じゃないことだけは確かだ。家族以外の男の人の体温をこんなに近くに感じるのは、嫌いじゃない。それが彼だからなのかは、彼以外の経験がないから分からないけれど。もし「彼だから」だったら、それは特別な意味を持つのだろうか。
 雨の音が強くなってきた気がした。
「ごめん、抱きついたりして」
 藤崎大和は分からない。急に触れてきたり、それなのに今みたいに慌てて離れたり。触れるたびにドキドキして、離されるたびに少し寂しく感じるあたし自身も、よく分からないけれど。
「もし椿ちゃんが良いなら、アタシは友達以上の関係になりたいと思ってる。でも……今までアタシに近づく女の子って香苗みたいに女友達としてしか思ってない子ばかりで、……その、付き合い方とか、実はよく分からないのよね」
 そう言って照れたような困ったような笑みを浮かべる彼は、あたしの知ってる藤崎大和と少しだけ違っていた。あたしの中の彼はいつもふわふわと綺麗な顔をしていて、何でも器用にこなす人だ。だけど目の前にいるのは間違いなく藤崎大和で、こんな表情を知る人間もあたし以外にいるんだろうか。それは何だか嫌だと思った。
 こういう気持ちだったのだろうか、さっきの彼の言葉は。自分以外には見せてほしくない表情というのは。でもそれが「友達以上」という関係なら、あたしの感情はとても汚い気がする。醜いあたしは知られたくない。
「あたしもよく分からない」
 藤崎大和に会ってから分からないことだらけだ。泣きたくなるほどぐちゃぐちゃなこの気持ちをあたしは知らなかった。できれば知りたくなかった。どうして人の感情はこんなにも複雑な機能をいくつも持っているんだろう。
「じゃあ二人で考えていくってのも、悪くないと思わない?」
 二人で。
 ふたりで。
 フタリデ。
「それは……」
 あたしの汚い部分なんて見せたくない。知られたくないもの。
 だからあまりに近すぎる距離は苦しい。できれば他の皆のように、例えば彩芽と同じように、彼をアイドルのように見るファンというだけで良かったのに。どうして彼はあたしに近づいてきたんだろう。
――でも、嬉しかった。
 確かに嬉しかったのだ。
 でも――。
「そろそろ出ようか」
「……うん」
 結局あたしは彼の問いに対して何も答えなかった。
 分からないことばかりの中で確かなことは、プレハブから出たあと彼があたしの手を繋ごうとしなかったのは彼なりの優しさなのだろうということだ。

 校舎の中に戻ると人でごった返す廊下で呼び止められた。
「椿! こんなトコにいたの」
 声のした方へ振り向くとこちらに向かって駆け寄ってくる彩芽と芳香が見えた。てっきり制服に着替えていると思っていた彩芽はワンピース姿のままで、芳香も胸に大きく3年2組と書いてあるクラスTシャツを着ていた。
「あ、ヤマト君も一緒だ。ちょうど良かった。今生徒会が探してるよ。たぶんベストワンのやつだと思うんだけど」
「ベストワンって?」
 藤崎大和が聞くと「ああそうか」と芳香が思い出したように答えた。
「ヤマト君は転校してきたから知らないか。毎年生徒会が色んな一番を文化祭の最後に決めるの。一番稼いだクラスとか、校内一の美男美女は誰か、とかね」
「それでアタシと椿ちゃんがノミネートされてるの?」
「まぁフジ子はともかくヤマト君は有名だしね。体育館集合だから早く行った方が良いよ」
「分かった。行こっか、椿ちゃん」
「あたしも?」
 驚くあたしの背中を押したのは彩芽だった。
「棚口がダブル藤崎って言ってたからね」
 そういえば棚口も生徒会役員だった。
 っていうかなに、その括りは。
 不満げな顔をして見せるが彩芽や芳香相手では何の効力を発揮することもなく、藤崎大和と一緒に体育館まで連れて行かれた。体育館ではまだ他のクラスのパフォーマンスが続いていて、今やってる次がラストの演目だ――というのを体育館の扉に張っているプログラムを見て知った。そのあとがベストワンの発表になるわけだ。
 結局今年の文化祭はあまり周れなかったんだ。最後だけれど仕方ないと思える。周れなかった分、前よりもずっと濃い時間を過ごした気がするから。
「あっお前ら、やっと来たか」
 暗い体育館に入ると棚口がどこからともなく現れた。あたしたちは隅へ移動すると他のノミネートされた人たちとともに生徒会から緑色のリボンを配られた。
「何のベストワンかは未だ言わないけど、とりあえず選ばれた人はそのリボンを胸に付けて下さい。名前を呼ばれたら壇上に上がってきてもらいますんで、それまでは舞台の横で待機していて下さい」
 生徒会からの説明が終わるのとタイミングを合わせたように拍手が起こった。どうやらもう最後の演目に入るみたいだ。
「じゃあ次の劇が終わったら舞台袖に集合してください」
 彼女が言い終わるとリボンを付けた人も生徒会の人たちもそれぞれ動き出した。あたしはどうしようかと隣の彼を見上げると、彼もあたしに顔を向けた。
「とりあえず、座る?」
「うん」
 あたしたちは一番後ろの、扉の横の壁にもたれてラストの劇を見ることにした。
「最後の演目は、1年4組による劇で『ゴキブリ西遊記』です――」

 思い切り笑った後は少しの休憩時間が入り、いよいよ毎年恒例の生徒会が主催するベストワンの発表だ。あたしと藤崎大和も袖に入って出番を待つことになる。この休憩時間に最終的な集計をまとめるんだと棚口から聞いた。
 たぶん彼はミスターに選ばれるんだろう。それくらい綺麗だし、有名だし。でもあたしは何だろう? 全然想像がつかない。だから緊張もあるし、怖くなったりもする。こういうのは本当に嫌だ。この先好きになることもないだろう。
「ドキドキするわね」
 あたしとは反対に彼はとても楽しそうだ。単純にいいなと思う。何でも楽しく過ごせたら良いのに。目立つことも有名になることも彼には楽しいことと繋がってるんだろう。それがすごく羨ましい。あたしにはとてもそう思えない。
 体育館にはきっと今全校生徒が入ってるんだろうと、容易に想像がつきそうなくらい騒がしさが伝わってきてた。それに今日は一般客も居るから、もっと多いはずだ。その人たちの前に立つというだけでも嫌なのに、とどんどん気分が重くなる。
「大丈夫、椿ちゃん?」
 顔を上げると心配そうな彼の顔が近くにあった。違う緊張感が生まれるのが分かる。
「逃げたい……」
 あ。思わず本音が。
「ダメよ、逃げちゃ。アタシが付いてるからね」
 にっこりと微笑んでみせる彼に、あたしも引きつった笑みを浮かべた。本当は笑顔を返そうと思ったのだけど、あまりの緊張に頬の筋肉が引きつってしまったのだ。
「手、握って良い?」
 周りに気づかれないようにか、彼は少し屈んであたしに囁いた。ツンデレラをやる前のように、軽くあたしの手を包み込む。あたしもその時と同じように軽く握り返した。汗ばんだ手をくっつけるのは気が引けたけど、そのことで自分の緊張が少し緩むことをあの時知ったから。それに心なしか彼も嬉しそうな表情を浮かべてくれるのがあたしも嬉しく思った。
「さていよいよ最後になりました、今年の文化祭! 最後を飾るベストワンは何でしょうか!? それでは発表を始めます!」
 司会役の生徒会役員がマイクを握ってベストワンの始まりを告げると、場内から歓声と口笛と拍手が沸き起こった。毎年の如くすごい盛り上がりようだ。知らず、彼の手を握る力が強くなる。
「まず初めに、今年一番売り上げたクラスの発表です。なんと2位と100円差で輝いた売り上げベストワンのクラスは……3年1組“たこ焼き屋ん”!」
 あ、食べ損なったたこ焼き!
「すごいすごい、棚口と加島君のクラスだよ」
 あたしが思わずはしゃいで言うと、藤崎大和は面白くなさそうに「そうね」と呟いただけだった。前から思ってたんだけど、彼は加島君が嫌いなんだろうか? 良い人なのに、どこが気に食わないんだろう?
 壇上に上がっていったのはクラス代表の男子だった。彼は表彰状を貰い一礼すると、そのままガッツポーズをしてクラスの輪の中に飛び込んだ。そしてまた歓声が湧きあがった。
「続いてはクラブ別客入りベストワンの発表です。今年は2位と30人以上の開きを見せ、ダントツで輝きました……バドミントン部“スマッシュアドベンチャー”!」
 きゃあっと黄色い歓声が上がる。バドミントン部は女子男子の区切りがないけれど圧倒的に女子部員の多いクラブだ。
「次は舞台劇を行った全団体からのベストワンです。今年も大変議論を交わしました。そして見事選ばれたのは……トリを飾った1年4組『ゴキブリ西遊記』!」
「あぁ、残念」
 わあぁっと聞こえた歓声とともに壇上へ上がっていく1年生を見送りながら、藤崎大和が小さく呟き、あたしも小さく同意した。でも確かに最後の劇は面白かった。体育館でも爆笑が起こってたし、選ばれたのも分かる。
「さてお待たせしました。今年のミスとミスターの発表です。それでは同時に出てきてもらいましょう。今年のミスに選ばれた2年2組宇津井翠さんと、ミスターに選ばれた3年5組藤崎大和さんです!」
 やっぱり!
 彼はあたしの手を一瞬強く握ってから静かに離し、宇津井さんと一緒に壇上へ上がって行った。「王子ー!」と叫ぶ声がどこからともなく聞こえ、思わず笑ってしまった。彼も彼でその声に手を振って応えているから、やはり藤崎大和はこういうことが好きなんだと分かる。
 表彰状を貰った彼は、舞台を降りる宇津井さんとは別れ、あたしの居る袖へ戻ってきた。ふふっと楽しそうに笑う。
「選ばれちゃった」
「おめでとう」
 あたしが言うとさらに嬉しそうに笑顔を見せてくれたから、あたしの気分も不思議と軽くなった気がした。
「やっと笑ってくれた、椿ちゃん」
「うん、ありがとう」
 もうノミネート者としてここの袖に残ってるのはあたしと彼だけで、あとは生徒会の人たちだけしか居ない。あと一つ残ってるベストワンを思い出して、あたしは何だか不思議な感じがした。
 だってまさかあれに選ばれるなんて、信じられない。
「いよいよ最後のベストワンです。これもダントツで決まりました。今年のベストカップルの発表です。選ばれたのは……そう、この彼ら。劇でヒーローとヒロインを演じた3年5組藤崎大和さんと藤崎椿さんです!!」
 震える足であたしは壇上に上がっていく。手はいつの間にか繋がれていて、震えるあたしの手を彼がしっかりと握っていた。
「なんと藤崎大和さんはミスターとカップルのベストワンダブル入賞! 皆さん、もう一度盛大な拍手をお願いします!」
 司会役の言葉に合わせて拍手が一段と大きくなった。あたしは緊張と眩しいくらいの照明にくらくらとして、眩暈がしそうだった。
「これって恋人同士じゃなくても選ばれるのね?」
 ふふっと笑う藤崎大和の声が聞こえ、あたしはなんとか意識を取り戻すことができた。
「お祭りだから拘らないんだと思う」
「ふぅん。じゃあもっと盛り上げて良い?」
 意味ありげな言葉にあたしが彼の方を向くと、それに合わせて頬に柔らかい感触がした。
 劇のリハーサルでやらかした“頬にキス”をここでもやったのだ。
「なっ!?」
 あたしの心情をよそにその行為は彼の思惑通り、この場を盛り上げるには絶大な効果を見せた。あたしは本気で倒れそうになるくらいの眩暈がした。