Je t'aime

20


 外でサッカーでもしていたのか、サッカーボールを抱えたままの篠原君が呆れた様子の棚口と、あたしに後ろから抱きついている藤崎大和の間に入ってきた。そういえば生徒会室は職員用の玄関の横にあるのだけど、生徒用の玄関も近いのだ。
「ヤマトの気持ちも分かるけどさ、明らか違うだろ、これは」
 苦笑しながらそう言ったのは、篠原君の後からついてきた森岡君だった。いつもは藤崎大和の行動を煽るような発言が多い森岡君も、場面の分別はついているようだ。
「でも嫌なの。椿ちゃんが他の男子と二人で居るの」
 藤崎大和の落とした爆弾にあたしは顔から火が出そうになった。なんちゅーことを言うのだ。
「ははっ、すげぇ独占欲」
「単なる嫉妬だろ」
 可笑しそうに笑う森岡君に、棚口以上に呆れた表情の篠原君が言った。
「っていうかいい加減離してあげたら? 藤崎さん可哀想だろ」
「あっ、ごめん!」
 文化祭でのことがあってから彼は必要以上にあたしに触れることはなくなっていて、たぶんそれを思い出したんだろう。慌てて腕を解いてくれた。気づかれないようにほっと息を吐く。だけど心臓は早くなりっぱなしで、耳の後ろでドクドクという音が聞こえてきそうなほどだった。
「ほら行くぞ、ヤマト」
 名残惜しそうな表情でいる彼を引っ張るようにして篠原君と森岡君は階段の方へ歩いていった。角を曲がって三人の姿が完全に見えなくなると、微妙な空気があたしと棚口の間に流れる。とても気まずい空気だ。
「香苗のことだけど」
 ぽつりと棚口が話を戻す。あたしも「うん」と相槌を打ってどうにかこの空気を変えようとやってみる。
「理由はあんまり言いたくないんだけど、お願いするね」
「ああ、今ので何となく分かった気がする」
 あたしはそれを聞いて苦笑するしかなかった。さっきので分かられても、何だか嫌だな……。

 期末テストが終われば終業式まであっという間だ。既にどこのクラスも夏休みに入る雰囲気だけれど、やはり今年は3年生ということもあって、夏休みの宿題とともに夏期講習の説明が載っているプリントも一緒に配られる。いよいよそんな時期なんだと、ようやく実感する物だ。
「椿はどこ受けるの?」
 バイトを辞めた彩芽はここのところ毎日のように部活に顔を出すようになった。文芸部の活動内容は相変わらず雑談ばかりだけど、たまに思い出したように部誌の原稿を書いたりもする。実は引退前に一つ書かなければならないのだけど、もともと幽霊部員の彩芽には関係のないことだ。
「O大かB大にしようかと思ってるけど」
 あたしは最後の原稿を書きながら答える。あたしは主に読んだ小説の感想文を担当していて、目の前にいる芳香は自分で小説を書いている。芳香の得意なジャンルは意外にもミステリーだ。謎が謎のまま終わる作風は、あたしには少し難しく感じる。
「え、地元じゃないんだ? もしかして一人暮らししたりする!?」
「それは分かんないけど」
 確かにO大もB大も決して近いとは言えない場所にある。どちらも方向は違うけど電車で2時間はかかる。でも決して通えない距離でもない。あたしの従姉も2時間かけて大学に通っていたという話を聞いたことがある。結局従姉は1年経ったら家を出て、大学に近い場所で一人暮らしを始めたらしいけど。
「やっぱり文学部?」
「うん、そのつもり」
 一応あたしは国語学を勉強したいと思ってる。でもほとんどの大学の文学部は国文学しかなくて、国語学ができる近い大学と言えばO大かB大しかなかったのだ。あとは隣の県のT大で、調べた中では一番やりたいことができそうなカリキュラムがあったけど、レベルが高すぎた。
「彩芽は? 大学に進むの?」
「うん、短大にね。S女子の服飾科に行こうかなって」
 S女子はこの近くの短期大学で、けっこう人気がある。近いっていうのもあるだろうし、服飾と教育の学科があるということもあって、毎年ここの高校からも多くの生徒が進んでいっているのだ。
「へぇ。服飾って何か意外」
「そう? 結構好きなんだよね、ミシン使ったりするの」
 そういえば彩芽が作ったエプロンは家庭科の先生に褒められてたりもしたっけ。そんなことを思い出してみると、意外に感じた服飾の道も彩芽に合っているのかもしれないと思えた。
「ヨッシーは?」
 彩芽が聞くと、芳香はぎろりと上目遣いに顔を上げた。上手く書けてないのだろうか。すごく機嫌が悪い顔をしている。
「もちろんK大よ! 無理と言われようがK大! 打倒K大!」
「倒してどうすんのよ」
 彩芽の突っ込みにあたしも周りの部員も笑った。
 K大と言えば有名作家が学んでいた大学としても有名だけれど、レベルも割りと高く、この辺りでは多くの人が憧れたり目標にしたりする学校の一つだ。芳香はこう見えて頭が良く、年に何度か行われる総合試験では常に上位にいるらしい。「らしい」というのは、この学校は成績を紙に書いて張り出したりというようなおおっぴろげなことはせず、個人の成績は本人にしか渡さないシステムを採用しているからだ。だから毎回順位を直接本人に聞いたりするのだけど、その度に芳香は「10位以内だった」としか言わないのだ。
「みんな見事にバラバラだね」
「ちなみにグッチはどこに行くの?」
 彩芽はふと思い出したように、隣で部誌の表紙を担当している棚口の方を見た。
「僕はついでなんだな」
「ぶっちゃけグッチの進路に興味ないから」
「さらりと人を傷つけるよな、榎本って」
 棚口のそれに彩芽は特に否定しなかった。……自覚あるんかい。

「この夏にどれだけ頑張るかが勝負だからな」
 先生達のそんな言葉とともに終業式が終わった。嬉しくない通知表も貰い、学校の掃除も終わると、あとはそれぞれ部活に行ったり帰るだけだ。
「椿、行こう」
 荷物をまとめた彩芽がこっちに向かって声をかけてきた。文芸部も他の部と同じように今日も集まるのだ。何せ引退まで1ヶ月を切ったから、一番忙しい時でもある。
 ふと誰かが近づいてきた気配がした。
「椿ちゃん」
 てっきり彩芽だと思い顔を上げると、あたしの席の前にいたのは藤崎大和だった。あたしは少し驚いてみせる。
「これ、アタシのケータイのアドレスと番号。夏祭り一緒に行こうね」
「え?」
 いきなりのことに更に驚きを隠せない。手渡されたのは小さく千切られたルーズリーフ。そこには数字とアルファベットが2行に分けて羅列していた。
「篠原と森岡がクラスのみんなに声をかけてるって聞いたから。椿ちゃんも来るでしょ?」
 にっこりと笑う彼にあたしはどうしようか迷って、とりあえず頷くことにした。正確にはあたしは一言も返事をしていないのだけど、彩芽も行くんだったらあたしも行くことになるだろうし。
 あたしが頷いたのを見ると、今度は体を屈ませて内緒話をするように耳元にこっそりと囁く。
「アタシの前いた町の夏祭りとは日が重なってないから、そこには二人で行きましょ」
 そんな彼の仕草にドキドキとしながら、あたしはまた無言で頷いた。少し戸惑ったけど断る理由もないし、心臓があまりにも早く波打って上手く考えられなかったというのもある。
 彼はあたしが頷いたことに満足したみたいで、嬉しそうにさらに笑みを深めて「バイバイ」と去って行った。彼が前からいなくなったあとも暫くこの胸の高鳴りは治まりそうもない。何もしていないのになぜだかぐったりと疲れてしまった。
「ちょちょっと、椿っ、さっきの何アレ!?」
 興奮したような彩芽の声が傍で聞こえたけれど、あたしは真っ赤になってるだろう顔を抑えて机の上に置いていた鞄の上に伏した。今のあたしにもよく分からないけれど、それ以上にあたし自身がそれどころじゃなくなっていた。