Je t'aime

21


「先輩、引退おめでとうございます!」
 新しく部長に任命された飛鳥ちゃんが代表として元部長の芳香に花束を贈呈する。感動的なこの場面で、笑顔でこそあれ誰も涙を見せないのは、この状況がそんなしんみりとした場所ではないからだろう。
「ってことでお願いします!」
 色鮮やかな花束と共に飛鳥ちゃんが差し出したのは、決して華やかとは言えない黒い無機質な音量機械――マイクロフォン。そう、ここは歌って騒ぐための場、カラオケルームの一室なのだ。テーブルを囲むようにしてコの字型に配置されたソファに、1、2、3年総勢十数人が身を寄せ合って座り、そこに座りきれない部員はドア側に立っている。
 マイクを受け取った芳香はコホンとワザとらしく咳をひとつした。
「えー、まずは、今日で私達3年は引退ということで集まってくれてありがとう。みんなのおかげで今日まで私は部長として頑張ってこれたと思います。そんなわけで、まず1曲めを歌いたいと思います」
 芳香が飛鳥ちゃんに声を掛けると、打ち合わせでもしていたのだろう、飛鳥ちゃんがさっとリモコンを取って画面に向かってボタンを押した。
 間もなくして流れてきたメロディに、おおっと一同がどよめく。
 軽快なギターの音がメインに流れ、テンポのいいリズムで短いイントロが終わる。
……あたしにはやっぱり芳香の思考がよく分からない。なぜ、よりにもよってウルフの「借金大王」なのか。

 一通りの儀式を終えると、あとは二つの部屋に分かれてそれぞれで楽しむ。ちょうど半分になるようにくじ引きで決め、あたしは芳香と同じ部屋になったけれど、彩芽とは別れてしまった。
「フジ子先輩、何歌います?」
 芳香が歌っているところを口ずさんでいると、隣にやって来た飛鳥ちゃんがカタログを持って声を掛けてきた。あたしは他の子たちのように率先して歌えず、隣で小さく一緒に口を動かすくらいしかしていなかった。
「あたしはいいよ。飛鳥ちゃんは次何歌うの?」
「さっきウーと一緒に『チェリー』入れてきたんです。フジ子先輩こそ何か入れなきゃだめですよ。主役なんだし、それにまだ一曲も歌ってないじゃないですか?」
 飛鳥ちゃんは、女の子らしく「ね?」と小首を傾げる仕草で上目遣いに見てくる。うっと思わず詰まるあたしは、頭の端で「コレは男の子受け良さそうだナァ」なんて関係のない事を思った。飛鳥ちゃんはサッカー部のマネージャーでもやってそうな雰囲気の可愛い女の子なのだ。発想は奇想天外で面白い子だけど。
 そこへ歌い終わった芳香が戻ってきた。
「なに、藤崎が歌うの?」
 オレンジジュースを一口ストローで吸うと、こくんと喉を鳴らして芳香が、飛鳥ちゃんの手にあるカタログを覗き込んで聞いた。
「それがフジ子先輩、歌わないなんて言うんですよぉ」
「あーそりゃ、それどころじゃないからでしょ」
 てっきり一緒になって歌えと言われると思っていたあたしも、もちろん同調してくれると予想していただろう飛鳥ちゃんも、芳香の言葉にキョトンとした。いや、あたしとしては無理から歌えとはやし立てられるよりは良いのだけど、芳香の場合は裏に何かありそうな気がして怖い。
「え、どういうことですか?」
 身を乗り出して問う飛鳥ちゃんに、芳香は案の定ニヤリと嫌な笑みを浮かべた。もう一度ジュースを口に含んで、やけにゆっくりとグラスを下ろした。
「この後何があるか考えてみて」
「この後って……お祭りのことですか?」
 そうだ。今日はこの後夏祭りがある。1日目はクラブのみんなでそのまま行くのが恒例で、あたしたちは私服だけれど2年生の何人かは早めに出て浴衣に着替えてくると言っていたっけ。
「そう。いくら夏休みだからって祭りにヤマト君が黙ってるわけないじゃない」
「ああ、なるほど!」
「いやいやいや、ちょっと待って」
 ポンっと両手を合わせて頷く飛鳥ちゃんに、あたしは反射的に手を横に振った。
「意味分かんないんですけど。なんでそこで藤崎君が出てくるの」
「そう言うけどね、フジ子、ちゃんと知ってるのよ。ヤマト君に誘われたんでしょ、夏祭りデート」
「はあぁ!?」
 待って、待って、とりあえず待って。
 夏祭り……デート?
 あたしはいつ彼とデートをすることになってるんだろう? ああ、彼の地元の夏祭りに誘われたことだろうか? えっ、まじですか。
 でも考えてみれば「二人きり」ってことはデートって言われても否定はできない状況だ。……うわ、どうしよう、今更になって気づくなんて。あの時も動転しててそこまで思考が回らなかったし、今日まで部誌のこともあったからすっかり記憶の片隅に追いやっていたけれど。
 うわー。うわー。
「まぁ落ち着きなさいよ」
 一人でパニくるあたしの肩に芳香が優しく手を置いた。しかしその表情は明らかにあたしの反応を見て面白がっているようだ。
「とりあえず、化粧くらいはしなきゃだめよ。あとで彩芽に言ってやってもらうから」
「ちち違うってば! デートなんかないから!」
「じゃあ気合入れてもらうためにもアレ歌いましょう、アレ!」
 あたしの叫びを無視して飛鳥ちゃんがリモコンを取った。そのコードを読み取ったコンピュータが画面に浮かべた文字を見て、あたしは本当に居た堪れなくなり、それとは逆に周りは大いに盛り上がる。
「もう行けるトコまで行っちゃえ!」
「違うってばぁ!」
 マイクを取って立ち上がる芳香にあたしの声はたぶん届かなかった。

 疲れた。
 あたしは一度お手洗いに行くため席を立った。鏡に映る自分を見て苦笑するしかない。真っ黒く重そうな髪に地味な顔立ち、ぽっちゃりとした腕、腹、脚。どこを取って藤崎大和は「かわいい」なんて言うのだろうか。ああ、あれか、たれパンダ的な、マスコットみたいな、そんな可愛さだろうか。それはそれで微妙だなぁ。
 あたしは自分自身に気合を入れて部屋に戻ることにした。何だかんだで楽しいし、彼だけのことで空気がおかしくなるのも嫌だ。それに――。
「……え?」
 部屋のドアを開けてあたしは思わず立ち尽くした。部屋を間違えたのかと思った。
「あー、フジ子、お帰り」
 芳香が振り返る。飛鳥ちゃんも、他のみんなも居る。だからここは、やっぱりさっきまであたしが居た部屋でもあると分かった。
 それは分かった。
 だけど、なんで?
「あっ椿ちゃん」
 にっこりと嬉しそうに笑う彼があたしを見て手を振った。
「ね、言ったでしょ」
 芳香が再び藤崎大和の方へ顔を向けて言ったのが聞こえた。彼はそれに頷く。
「うん、ほんと」
 いやいやいや、どういうことですか、これは。
 なぜ彼がここにいるんですか。あたしが席を立った約5分間で何が起こったのでしょうか。
「突然ごめんね、藤崎さん」
 しかも彼だけじゃなく、篠原君と森岡君まで一緒に。……ああ、でも彼一人が居るよりは自然なのか。
「いや……別に」
 あたしは申し訳なさそうな表情で傍に来た篠原君にそれだけしか言えず、なおもドアのところで立ったまま動けないでいた。
 森岡君が飛鳥ちゃんと並んで熱唱しているのが視界の片隅に見えた。