Je t'aime

22


 あたしが席を立ったすぐ後に、芳香も隣の――彩芽たちが盛り上がる部屋を覗きに部屋を出たらしい。そしてそこで偶然に、本当に偶々何の脈絡もなくばったりと、彼ら3人と出くわしたという。彼らは彼らで、あたしたちと同じようにカラオケやゲームセンターで時間を潰してから1日目の夏祭りに行く予定だったそうだ。
 そんな説明を受けても、あたしは未だに頭が混乱している。大きくはない町だからこんな偶然も、珍しくないことはないけれど、あり得るのだと思う。それにしても、こんな偶然はあまり喜べない。芳香は芳香で、この後あたしと彼を二人きりにしようと篠原君と森岡君に掛け合ってるし、彼は彼であたしの隣を陣取ってあまり動かないし。
 こんなことならクラスで行く2日目だけとは言わず、今日も香苗さんに来てもらえば良かった。生憎棚口は彩芽と一緒に隣の部屋なのだけど。
「迷惑だった?」
 あたしが俯いていると上から藤崎大和の声が降ってきた。心配そうな色を帯びてるその声にあたしは慌てて顔を上げて彼の方を見る。
「ううん。ただちょっと、びっくりしただけ」
 確かにどうしていいか分からなくて戸惑ってたりもするけど、せっかくの楽しい雰囲気を壊すのはどうかと思うよね。――そんなふうに考えて、笑うことにした。
「藤崎君は歌わないの? あんまり歌ってないよね」
 すると彼も可笑しそうにくすくすと笑う。
「アタシより椿ちゃんの方が歌ってないじゃない。椿ちゃんの歌声聞きたいのに」
「あたしは音痴だから、苦手っていうか……」
「そんなの関係ないわよ。森岡だって上手くないけど思いっきりマイク握って離さないじゃない」
 確かに森岡君はあたしが戻ってから一度もこっちに戻ることなく歌い続けている。でも確実にあたしよりは上手いと思う。
「いいよ、ほんと。聞いてるだけで楽しいし」
「もったいないなぁ」
 それでも強要してこない彼は優しいんだろう。あたしは周りの子達と一緒に手を叩きながら、口ずさみながら、楽しんでいた。もうこうしてみんなと集まることはないんだな、と思うと感慨深いものがある。
 思い返してみれば、あたしが文芸部に入ったのは偶然だった。偶然彩芽と同じクラスになって、友達になって、彩芽と同じ中学出身の芳香とも知り合って。本当はそんな気なんかなかったのに、気づけば彩芽と一緒に入部届けを出していた。彩芽が幽霊部員と化したのは入部して1週間もしない内からだった。その間に芳香と話すことが多くなった。あれから早2年あまりが過ぎたのだ。
「ねえ、この後ヤマト君たちどうする? 一緒にお祭り行く?」
 一度ケイタイのディスプレイで時間を確認した芳香が篠原君や森岡君にも顔を向けて聞いた。
「俺は一緒でもいいけど。洋介も良いだろ?」
 森岡君が篠原君に言うと、篠原君は藤崎大和の方に視線を送る。
「どうせヤマトは藤崎さんと一緒だろうし、いいよ」
「え、アタシに気を使わなくてもいいわよ? 篠原達の方が先に約束してたんだし、椿ちゃんとは明日も会えるし」
 キョトンとする彼に篠原君も森岡君も意外だと言わんばかりに驚いた顔をした。そうなのだ。結局明日もあるのだから、今日もわざわざ一緒になる必要は無いと思う。――だけどそう思っていたのはどうやらあたしと彼だけだったみたいで。
「まぁそう遠慮するなって。俺たちとだって明日もまた行くんだから、今日は二人で楽しんでこいよ」
 森岡君がにぱっと明るい笑顔で言った。

 会計を済ませて店を出ると、辺りは夕日に染まっていて、だけどその明るさもすでに消えてしまいそうなほどの僅かなものだった。困惑しっぱなしのあたしと平然とした態度の藤崎大和は、部員のみんなと篠原君と森岡君に見送られ、彼らとは別の道から行くことになった。どうせまた会うかもしれないと思いつつも、祭りをやっているのは意外に大きな通りだからすれ違っても分からないかもしれない。
「んと、どうしようかしら」
 歩きながら、困ったように手を首の後ろに回して彼が言った。あたしは彼の隣に歩き、それでも足元ばかり見て、顔を上げて彼の目を見る勇気がなかった。
「何か食べる?」
 カラオケルームではソフトドリンクしか頼んでいなかったのを思い出してそう提案しみる。正直言ってあたしはそれほど食欲は湧いていないのだけれど。
「そうねぇ。たこ焼きとか、焼きそばとか?」
 何があるかしらねぇと呟く声が聞こえて、それはあたしに向けられた言葉じゃないと分かったから、少しだけ視線を上げることができた。あたしは情けないくらい、どうしようもないくらい、彼を意識していた。
「チョコバナナとかカキ氷とかもあるよ」
「あぁ、やっぱりどこでも並んでるのは一緒なのね。カキ氷だったらレモンが好きだわ。椿ちゃんは?」
 あたしの見上げた視線と、彼の視線が合った。微笑むその表情にあたしの心臓は煩く鳴って、あたしはまた逸らしてしまった。
 体が熱い。たぶん、夏の暑さのせいだけじゃない。
「スカイブルーかな。口の中青くなるのは嫌だけど」
「そうなんだ。イチゴってイメージなのに。――あっ」
「ぅわっ」
 あたしが誰かにぶつかってよろめくのと彼があたしの腕を捕まえたのはほぼ同時だった。
「ごめん。ありがと……」
「うん……」
 だけど再び歩き出した時も、まだ、彼の手はあたしの腕を離さなくて、自然とその手は下りてきてあたしの指を絡め取った。いわゆる、恋人繋ぎというやつだ。
 あたしが嫌なら簡単に解けそうなほどの力で、あたしの手を包んでいる。だからあたしは彼の大きな、あたしとは違う男の人の手を握り締めた。
 掌に汗が浮かんできそうなくらい緊張しているけど。たぶん彼にもあたしの手が震えていることは伝わっているのだろうけれど。彼は何も言わず、握り返してくれた。
「ここのお祭りって、花火とか上がらないの?」
「花火?」
 人の波に流されないように、ゆっくりと彼にリードしてもらいながら進んでいると、不意にそんなことを聞かれた。
「こんな街中ではやらないけど。あっ、でも昔見に行ったことあるよ。ここからだと30分以上かかっちゃんだけど、すごく大きかったの。でもここではやらないから」
「そっか。今から行っても間に合わないかしら」
「え?」
 驚いて顔を上げると、藤崎大和は何かを企んだような微笑を浮かべていた。
「行くの?」
 あたしが聞くと「当然でしょ」と頷く。
「せっかくの花火なんだもの。見に行こうよ」

 そうして、あたし達は走った。ごった返す人波から抜けてバスに乗り込み、町外れの河川敷に来ると既に人が溢れ返っていた。何発目か分からない特大の花火が夜空に輝いては散るのを繰り返していた。
 昔、家族で来たときのことを思い出した。あの時は本当に大きくて、偉大で、感激したものだったけど、今はこんなにも輝いて見える。繋がれた手はバスに乗るときも、降りた今も、ずっと繋がれていて、握る力は彼の方がずっと強くなっていた。
 人のあまり居ない場所を探して座ることにした。そろそろ終盤らしく、打ち上げ花火はいっそう華やかな音と共に光を暗闇に撒き散らしていく。
「……きれい」
 思わず溢れた吐息は、彼のそれによって閉じ込められた。
 唐突に。
 視界は一瞬にして、彼の顔に変わっていた。
 あ。と喉の奥に声が引っかかったのは、どっちだっただろう。
 彼は慌てて顔を離し、あたしはそのまま動けなかった。
「ごめん、つい……」
 ぎゅっと。きつく、きつく、あたしの手は痛いほど握られていて。
「『つい』……?」
 ついって何だ、ついって。
「椿ちゃんがキレイだったから、つい……」
 なんだ、それは。
 キレイって、なに。それ。そんなこと。
「ほんとはずっと、触れたかったの。ごめんね」
 どうして、そんな、泣きそうな声で。
 泣きたいのはあたしなのに。どうしてそんな切ない声で。
「もうしないから。絶対しないから。できるなら、忘れて」
「……」
「だから、嫌いにならないで。ほんと、ごめん」
 なにそれ。なんなのよ、そんな、勝手な言い分は。
 勝手にして、忘れてなんて、そんな身勝手なことをどうして言えるのだろう。
 それなのに握り締めた手は強く強く繋げて、離そうともしないで。
 本当に、なんなんだ、これは。

 あたしの頭も胸もぐちゃぐちゃで、あたしはどうしたらいいのか分からない。
 ただ繋がれた手を解くことはできないと、それだけは分かっていた。