Je t'aime

27


 クラスの皆で行った時は浴衣を着られなかったから、せめて二人で行く時は着ていこうと決めた。だけど押入れの中から引っ張り出したあたしの浴衣はあたしの成長する以前のものだったようで、丈が合わなかった。なので浴衣は諦めて、だけどせめてという思いでワンピースを着ることにした。去年の夏に彩芽に勧められて半ば強引に買わされた白いフリルの付いた、いかにも女の子らしいこのノースリーブのワンピースは、結局今まで一度も着たことはない。というか制服以外にスカートを持っていないあたしとしては、これはかなりの勇気がいた。上に半袖の上着を羽織って鏡の前に立ってみる。……変じゃ、ないよね、たぶん。
 よし、と気合を入れてバッグを手に取る。どうしようもなく緊張するのは仕方のない事だけれど、決めた以上は頑張るしかない。あたしは力をいっぱいに込めて玄関のドアを開けた。まだ太陽が空の真ん中で地上を照らしている。

 藤崎大和の姿を見つけるのは簡単だ。彼は目立つから、彼を見るのはあたしだけではないのだと思い知らされる。
「ふ、藤崎くん」
「椿ちゃん……可愛い」
 彼はすぐにあたしを見つけて、少し驚いた顔をしてあたしを眺める。やっぱりどこか変なところがあるのだと、あたしは焦った。
「えっと、似合わないかなとは思ったんだけど、せっかくだし」
「似合ってるわよ」
「へ?」
 彼の優しげな笑顔が向けられて、あたしは余計に鼓動が早くなるのを感じた。
「似合ってるから可愛いんだってば。それよりも早く行きましょ。遅くなっちゃう」
「あ、うん」
 先に歩き始めた彼の後を追うようにあたしも慌てて歩くことにした。
 なんだか変な感じがする。こんなふうに男の子と歩くのは、あたしじゃないみたいだ。でも、それがなんだかすごく嬉しい。
「意外と近いのよ、アタシが居た町って」
 電車を待つ間、電車に乗っている間、彼はそんなふうにして前に住んでいた町のこと、友達のこと、学校のことを色々話してくれた。そこはあたしの町から電車を乗り継いで3時間ほど掛かるらしくて、でも郊外の割には整理されたキレイな町なのだそうだ。中心の駅から離れるとすぐに田畑が見えるあたしの町とは違って、ずっと都会なのかもしれない。
「友達は皆個性が強くてね。まぁアタシが一番変わってたとは思うけど」
 そうして笑う彼はどこか寂しそうに見えた。だけどその表情は一瞬にして消え、またいつもの、彼の楽しそうな笑みに戻る。だからたぶんさっきのは見間違いだと、思い過ごしだと思うことにする。
「今もメールしたりしてるのよ。何だかんだで気の合う奴らばっかりだしねえ」
「そうなんだ」
 奴ら、という言い方に、女言葉は似合わないな、と思った。
「前に言ったかしら? アタシが何人かシメたこと」
「あ……うん、そういえば」
 確かそれからだったと思う、クラスの皆が彼の口調に何も言わなくなったのは。あの時の藤崎大和はすごく綺麗な笑みを浮かべながら、ひどく怖かった。
「後から聞いたんだけど、トドメは友達がやったらしいのよね。まぁアタシだってそこまで喧嘩に強いとは思ってなかったから、納得できたけど。必死に謝られたって、転校しちゃった後だったし。それに椿ちゃんにも会えたわけだしね、良かったのかもしれないわ」
 最後は、視線をあたしから外して、静かに呟くような声だった。
「……会えるかも知れないね、今日」
 あたしが言うと再び彼はあたしを見て、少し考えるように手を顎に添える仕草を見せた。
「それは――困るわね」
「どうして?」
「だって椿ちゃんて」
 彼はそこで何かに気づいたように慌てて口を閉じた。なんだろう、途中で言いかけるなんて、気になるじゃないか。
「――無防備なんだもの」
「え?」
 意味を掴み損ねたあたしはキョトンと彼を見上げる。
「だから、椿ちゃんって無防備すぎるの、隙がありすぎるのよ。もっと気をつけないとアタシの心臓持たないでしょ」
「なにそれ」
 思わず噴出しそうになって、けれど意外に真剣な眼差しを向ける藤崎大和にあたしの顔は引きつった。これは何かの忠告? それとも警告? よく分からないけど、恐いと思った。
「口にしたらほんとに不安になってきた……。今日はアタシから離れちゃダメだからね」
「う、うん……」
 知らない町に行くというのに、どうしてあたしが一人になることがあるんだろう。

 前言撤回。目的の駅に着き、お祭りで賑わっている人ごみの中に入った途端、早速彼と逸れてしまった。なぜ!
 藤崎大和が以前住んでいたという町は思った以上に大きな町だった。駅も大きかったがすぐ隣に立てられている建物も大きかった。長く広いショッピングモールに、繋がるように立てられた高層マンション、一つ通りを挟んで大型百貨店が聳え立っていた。しかも駅を挟んだ向かいにまた一つ大型百貨店があるらしい。あたしたちは高層マンションが立っている側の出口から大通りへと入っていった。
「大きいのは見た目だけで、やってることは地味なのよね」
 花火もないし、と笑いながら前を歩く彼に、あたしは追いかけるようにして付いていく。物珍しげにキョロキョロと辺りを見回しているうちに、前を行っていたはずの彼の姿を見失ってしまったのだ。
 周りは知らない人が楽しそうに行き交って、とても賑やかな音楽が流れている。なのにあたしはとてつもない孤独感に襲われた。彼はどこへ行ったのだろう。右? 左? 前? 後ろ? それさえも分からず、どうしようもなくなる。
「どうしたの?」
 そこへ知らない人が声を掛けてきた。振り返るとダボっとした服を着た、少し怖そうな男の人の二人組みがあたしを見ていた。きっと声を掛けてきたのはこの人たちだ。
「いえ、何でもないです……」
 そのまま行こうとしたら、腕を捕まれた。ヒッと声にならない悲鳴が出そうになった。怖すぎて声は引っ込んでしまったけれど。
「何でもないって顔じゃないけど?」
 ニコニコと笑顔の二人がひどく怖い。掴まれた腕に鳥肌が立つのを感じた。
「っていうかキミ、藤崎ヤマトの女っしょ」
「実はさっきから見てたんだよね」
 ニコニコと笑う二人が死神のように見えた。怖くてもう、動くことさえ出来ない。
 殺されるかもしれない。
 そう思った。
「――それじゃあアタシがここにいるってことも分かってるんでしょうね?」
 不意に、あたしの腕を掴む男の人の後頭部で鈍い音がした。
「ふ、藤崎ヤマト……!」
 もう一人の男の人が驚いた声を上げる。あたしの腕はさっきの衝撃で解放され、思わずその場から飛び退いた。後頭部を殴られ一瞬バランスを崩した方も、すぐに体勢を整えて彼の方へ体を向けた。しかしすぐに腹部に蹴りを入れられ、体を歪ませて地面へと倒れこむ。
「馴れ馴れしく俺の女に触ってんじゃねーよ、カスが!」
 再び鈍い音がし、同時に聞こえた低く重圧のある声は正真正銘彼の――藤崎大和の声で。
「虫唾が走る」
 それは聞いたことのない静かで冷酷な声だった。