Je t'aime

28


「ごめんね。大丈夫?」
 近くの神社へ入り、人のいない境内の傍で腰を下ろしていたあたしにいつもの優しい彼の声が上から降ってきた。同時に目の前に差し出される缶ジュースを手に取り、あたしは視線を合わせただけで頷くこともできなかった。
「まさか椿ちゃんに手を出すとは思わなくって……。怖かったでしょ?」
 そう言って彼もあたしの隣に座った。今隣に居る藤崎大和はさっきまでの彼とは別人のようだった。
「あたし、よく、分からない」
 ここに座っている間ずっと考えていた。
「花火の時とか、クラスの皆と行った時は避けられてるみたいだったし、さっきのは……怖かった――あの人たちも、藤崎君も……」
 缶ジュースの蓋を開けずにただ弄びながら、隣からの彼の視線を感じていた。目を合わせるのも今はすごく怖い。
「“俺”とか、らしくなくて」
 彼が全然知らない人に思えて、すごく嫌だった。
「あー、ソレねぇ」
 どこか自嘲するような声音で彼が言う。
「アタシも時々分からなくなるの。ヤマトがアタシなのか、ヒロカズがアタシなのか」
「……藤崎君は、藤崎君だよ」
「違うのよ、椿ちゃん」
 彼は鋭い口調であたしの言葉を遮るようにして、ねえ、と穏やかな声音を被せる。
「ねえ、男が普通に育ってこういう言葉使いになるのって、不思議だと思わない?」
 あたしは答えられなかった。どう言っていいのか分からず、ただ両手の中に収まる缶のラベルをじっと眺める。そんなの、不思議に思わないはず、ないのに。
「アタシって今でこそこんなのだけど、小さい頃は女の子に間違えられるくらい可愛かったの。しかも祖母さんは女の子が欲しかったらしかったんだけど、自分の子どもも孫も、ほとんど男で。だから昔はよく女の子の格好とかさせられてて」
 ふふっと笑う彼は、だけど楽しそうというよりは「変でしょ」と困ったような感じだった。だけどあたしはそう思わない。今は確かに女の子って感じは全くないけど、これだけ整った面立ちなら、容易に可愛かったころのことは想像できる。もっと彼が華奢だったら今でも女の子に見えなくもないかもしれない。
「けどアタシも男だし、物心付いた頃はボクとかオレとか言っていて、喋り方だって普通だったのよ。友達と走り回ったり、喧嘩したり、普通に男の子をやっていたの」
 そして一息置いて、小さく息を吐く音が聞こえた。
「祖母さんがボケ始めた頃からおかしくなっちゃったのよね。親も、親戚も、皆おかしくなっちゃったのね。祖母さんはどうしても女の子が欲しかったらしくて、アタシを見てはいつも嬉しそうに女の子として接してくるの。最初は親が訂正したらすぐに思い出してたんだけど、だんだんとそれもなくなって。しょうがないからってアタシは女の子みたいな格好をして、女の子みたいな喋り方をするようになった。それが小学生の時で。――変なものでね、そうしている内に祖母さんの前だけじゃなくて、ふとした時にそういう言葉が出ちゃうようになって。二つの口調を使いこなせるほどアタシは器用な人間じゃなかったのね。でも祖母さんが居る手前、急にオレとか言えないじゃない」
 そしてまた彼は、ふふっと静かに笑った。
「でもその反動かしらね、キレたりするとさっきみたいな感じになっちゃうの。それで何度友達に引かれたか分からないわ。その度にどっちが本当のアタシなんだろうっていつも思う。本当は、藤崎大和は……」
 声が途切れて、あたしはようやく彼の方へ目を向けた。そこにはまっすぐとあたしを見つめる彼がいて。でも暗くてその表情はよく見えず、どこか寂しそうだった。
「本当の自分は“俺”なのかなって思う。酷くて冷たくて、恐い人間なのかもしれないって思うんだ」
――きっと。
 きっと彼が抱いているその闇は、あたしが思っているよりもずっと深いところまであるんじゃないかと思った。それはあたしが知らない感情で、あたしがどんな言葉をかけたところで、彼のところには届かないような気がする。だけどただ黙っているのも、少し違うと思う。
「困るわよね。こんな話されても。ごめん、忘れて」
「なんで?」
 あたしは彼の目を見つめたまま問いかけた。彼もあたしからの視線を返しながら驚いた表情に変わった。
「忘れられるわけないよ、聞いちゃったんだもん。花火の時だって、忘れられるわけない。……初めてだったのに忘れるなんてできないじゃない」
「椿ちゃん……」
 言おうかな。言えるかな。言っちゃおうかな。言ってもいいかな。
 自然と缶を握る手に力が入る。
「あたしは、今のままの藤崎君が本当の藤崎君だと思う」
 そこまで言って視線が外れた。彼が逸らしたのではなくて、あたしが耐えられなかった。恥ずかしすぎて、反応が怖くて。だけど自分の気持ちは伝えなきゃいけないと思う。
「自分のことをアタシって呼ぶのも、俺って言うのも、少し強引なところも。暴力は良くないけど。そういうところ全部が藤崎君だと思うし、あたしは……」
 顔だけじゃなくて、体中が火照っていく。
「あたし――」
「……椿ちゃん」
 目を閉じて、息を吸い込む。
「あたし、好きだよ。そういう藤崎君も」
 ゆっくりと息を吐き出すのと同時に、あたしは暖かい彼の腕に包まれた。
 やっぱり藤崎大和は藤崎大和だと感じた。