Je t'aime

31


 放課後に人気の少ない場所というのはなかなかなくて、あたしが選んだのは結局化学室だった。今日は部活がないので、話を誰かに聞かれるという事もないだろうと、元部員の特権で選んだ。鍵を貰って一人で待つこの空間は、見慣れているはずなのにどこかよそよそしい。
「待った?」
「ううん、全然」
 あたしは椅子を机から下ろして篠原君に座るよう促した。あたしも彼の隣に座って、何から話せばいいのか考える。本当はここに来るまでにも考えていたのだけど、上手くまとまらなかった。
「夏祭りの後さ、二人で先に帰ったじゃん? あの時に何かあったの?」
 あたしが黙っていると篠原君から話を振ってきた。そうか、そこから話せばいいのか、とあたしは小さく頷いた。
「実はね」
 あ。でもいざ口にしようとするとひどく恥ずかしい。顔が赤くなっていくのが分かる。鼓動が早くなって、緊張してきた。
「告白されて……」
 彼はやっぱり、という表情を浮かべた。
「あたし、断って」
「え?」
 彩芽や芳香と同じ反応をするのを見て、やはりこの答えは間違っていたような気になった。あたしはあの時、確かにダメだと思ったのだ。藤崎君はあたしを好きになったんじゃないから、だから――。
 それでも話さないといけない。そのために篠原君を呼んだのはあたしだ。
「だってその、藤崎君があたしを見るようになったきっかけは、違う子のことをあたしと勘違いしていたからで」
 今もその子はこの学校のどこかにいるんだろうか。なんて、違うことを考えてみる。そうだとしたら、きっと気づくのは時間の問題かもしれない。
「だから期待させちゃいけないと思って、友達でしか見られないようなことを、言ったんだけど……」
「え、え、待って。藤崎さん。それってさ、藤崎さんの本心、じゃないよね?」
「……どうだろ。よく、分かんない」
「分かんないって……それじゃあ、ヤマトが可哀相だ」
 ズキン、と何かがあたしの胸を突き刺した。
「ヤマトは本当に藤崎さんが好きなんだと思うよ。きっかけはどうであれ、今は藤崎さんの一言一言に反応してるだろ?」
 自分がひどく嫌な奴に思えて仕方がない。
「でもあの時は、本当に、そう思ったの。きっと本物の彼女が現れたらきっと気づくって。あたしじゃないと気づいて――」
「気づいて、ヤマトが藤崎さんから離れるって? そんなの――……」
 そこで篠原君ははっとしたようにあたしを見た。
「――……え……そうなの? ま、まじで?」
「え?」
「ヤマトが離れるのが怖いって、そういうコトじゃないの?」
「え……」
 どうしてだろう。
「ってことは藤崎さんって」
 どうして篠原君には分かってしまうんだろう。
「ヤマトのこと、好きなの?」
 あたしは全身から熱を帯びているような感覚がした。

 廊下には既に人の気配がなくなっていた。
「送っていこうか?」
 職員室へ化学室の鍵を返しに行ったあと篠原君がそう言ってくれた。
「ううん。ありがと」
「そ。じゃあロッカーまでな」
「うん」
 静かな廊下にあたしたち二人だけの足音が響いて、それがなんだか不思議な気がする。
 特に話すこともなく歩いていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「あれ。篠原君と藤崎さん?」
 振り向くとちょうど階段から降りてきた高郷さんと藤崎君の姿があった。委員会が終わったんだろう。
「珍しい組み合わせだね。今帰り?」
「うん、そう。そっちも委員会終わり?」
 高郷さんの言葉に答えたのは篠原君だった。あたしはなぜか藤崎君の顔が見られなくて、視線を下に落とした。
「まあね。早く終わって良かったよ。あ、皆歩き?」
「俺は自転車だな。ヤマトはバスだったよな?」
「うん」
「藤崎さんは?」
 高郷さんの明るい声があたしの名前を呼んだ。
「えっと、自転車……」
「なんだバラバラかぁ」
「なんだったら乗せようか? 裏門側からでいいなら」
 え。と顔を上げた先には藤崎君の困ったような笑みが見えた。
 まさか、篠原君――。
「うわ、いいの? じゃあお言葉に甘えちゃおうかな。ヤマト君は藤崎さんを送るしね」
「え?」
 あたしと藤崎君の声が被った。うわ。恥ずかし……。
「アタシが送ってもいいの?」
 藤崎君の問いに答えたのは高郷さんだった。
「そうしたいんでしょー? 分かってるってばぁ」
 いやいやいや、ちょっとは空気を分かってよ。
 なんて、あたしが言えるわけもないのだけれど。明らかに藤崎君は戸惑っているのが分かる。
「まぁ、椿ちゃんがいいなら」
「あ、うん」
 頷くしかないじゃないの、こんな展開。
 ああ、だめだ、それでも顔がにやけてしまう。
「じゃあねー」
「また」
 ロッカーで二人と別れる。裏門側からと正門側からとでは玄関口が逆になるからだ。
 藤崎君と肩を並べて歩くのも夏祭り以来だな。それは篠原君の言ってたコッチの夏祭りではないけれど。
 あ。なんだか日に焼けた気がする。あたしも、彼も。そんな些細な変化に、あたしは少し嬉しくなった。
「迷惑じゃなかった?」
 遠慮気味に聞いてくる藤崎君は、なんだか彼ではない気がした。たぶんこれが篠原君の言っていた変わったところなんだろう。
「全然、そんなことないよ」
 自転車の鍵を外しながら答えた。駐輪場から自転車を出すと二人で並んで歩く。
 言って、そういえばあたしは頑張らなくちゃいけないんだ、と彩芽たちに乗せられた言葉を思い出した。今度はあたしからだ。せっかく来た機会なんだし。
「あ、あのね、あたし」
「篠原と一緒だったんだね」
 また、言葉を遮られた。
「あ……うん、ちょっと話をしてて」
 えっと。えっと。どうやって持っていけばいいのかな。あたしは二人で帰れて嬉しいってこと、どうやって伝えればいいだろう。
「なんか珍しいよね。椿ちゃん、男の子苦手じゃなかったっけ」
「え、いや、そんなことは」
「そっか。そいえば関わりがないから普段はあまり話さないんだっけ?」
 なんとなく、彼の歩く速度が増して、あたしはやや早足になる。
 え。どうして? なんか、怒ってる……?
「篠原とはどんな関わりを持ってるの?」
「え、あ、あのね」
「ただのクラスメイト、じゃないの?」
「あの、あのさ」
 ぴたっと彼が歩くのを止めて、ようやくあたしは追いついた。気づけばすぐそこにバス停があった。
「アタシと篠原は同じ位置にいる?」
 振り向いた藤崎君はどこか泣きそうな、困ったような、悲しそうな顔をしていて、あたしは一瞬言葉を失った。
「――違う、違うよ? 篠原君はただ話を聞いてくれてただけで。藤崎君は……」
 言って、しまおうか。
「藤崎君は、篠原君とは全然違うから」
 きっとバスが来るまでもう少し時間があるはずだ。
「全然、違う位置にいるから」
 言い切ったあたしの前にはやっぱり、少し怒ったような藤崎君の顔があった。