Je t'aime

34


 最近よく篠原君と目が合う気がする。
「ごめんな、昨日は」
 朝、教室に入ると彩芽は未だ来ていなくて、いつもの代わりに篠原君が声を掛けてきた。何のことだろうと首を傾げると、彼は少し困ったように苦笑した。
「協力するとか言った傍から、さっさと離れちゃったし」
「ああ、あれは別に、気にすることじゃないよ?」
 そういえば、と倉庫前での事を思い出した。それよりもその後の自分の発言のことで昨日は頭がいっぱいいっぱいで、篠原君のことはすっかり忘れてしまっていた。ごめんね、と胸の中で謝っておく。そういえば直接藤崎君に睨まれた彼は被害者なのかもしれない。
「あーらー? 最近椿ちゃんと仲良すぎるんじゃない?」
 突然篠原君の背後から藤崎君が彼の首に腕を回してきた。その声はまるで昨日の場面が巻き戻しされたように同じ低いもので、顔は笑っているのに目が笑っていないところが無言の圧力をかけているようだった。だけれど昨日と違うのは明らかに不機嫌であることを醸し出しているところだ。それもやはり、あたしが言ったことが要因なのだろうか。
「んなことないって。つーか、苦しい! ヤマト、首、首!」
 ギブギブ、と篠原君が本当に苦しげな表情で藤崎君の腕にタップをかけていた。だけど藤崎君はその腕を緩めることなく、さらに力を込めた様子を見せる。
「昨日もその前も椿ちゃんと何を話すことがあるのかしら」
「ちょ、タンマ、タンマ! まじで苦しい!」
「昨日椿ちゃんからお許しを貰ったからね、これからは容赦しないわよ」
「はぁ? 意味わかんねーって。ほんと、まじで外せって!」
 もしかしなくても、これはあたしが止めるべき?
 そう考えていると扉の開く音がした。
「オーッス。何してんだ?」
「森岡」
 藤崎君が振り向いて、その一瞬で篠原君は彼の腕から抜け出した。首下を押さえて肩で息をする篠原君がなんだか可哀想に思えて、そっと近づいた。
「大丈夫?」
 あまりにも苦しそうな表情の篠原君の背中を軽くさすってあげる。藤崎君は相当怒っていたようだ。なんだか複雑な気持ちになる。
 唐突に彼の背をさすっていた手を握られて捕まえられた。
「えっ」
 驚いてあたしの手を掴んだ人を見ると、それは藤崎君で、やっぱり米神の上がった不機嫌そうな笑顔を見せていた。今度の標的はあたしであることは確実のようだ。
「椿ちゃんは、アタシの気持ちを知っててこんなことをするのかしら?」
「へっ?」
 いやいやいや。だって背中を摩ってただけだよ?
「おはよう。二人して何してるの?」
 彩芽が登校してきた。助かった、と思って彩芽に顔を向けるが、手を藤崎君に取られたままのため逃げ出すことはできなかった。
「椿ちゃん、ちょっと来て」
「え? え? え?」
 藤崎君は彩芽には目もくれずにニッコリとそう言ってあたしを引きずっていく。
 あたしはこの状況を全く理解できていなかった。
「何あれ?」
 後ろで彩芽の声が聞こえた。
「ヤマト復活?」
 森岡君の声が扉の向こうから届いた。

 連れて来られたのは4階の図書館横にある非常口の外だった。隣には3年2組の教室があるから人気が無いわけではないけれど、朝という時間帯のせいか、廊下にもあまり人はいなかった。
「あのね、椿ちゃん」
 手は離さないまま藤崎君は非常階段に腰を下ろし、立っているあたしとは向き合う体勢になった。
「友達でいるとは言ったけど、期待させるようなことをするのは反則だと思うのよ、アタシは」
「え……?」
 この状況は、あたしは今藤崎君に説教をされているのだろうか。
 どうして?
「椿ちゃんが言ったのよ、期待してもダメだって。でもさ、昨日あんなこと言われたら、ヤキモチ焼くことを許されたんだって、好きでいて良いんだって、アタシ勘違いしちゃうじゃない。そういうのって、ズルイと思わない?」
「……思うけど」
 けど。そういう意味だったんだと思う。あれは勢いでしかなかったけど、きっとあれがあたしの本心だったんだろうと、寝付けない昨日の夜に考えていた。
「椿ちゃんは優しいから、そういうところもひっくるめて可愛いんだけど、お願いだからアタシには優しくしないで? そうじゃないと困るの」
「……」
「ね、椿ちゃん。ウンって言って?」
「……」
 苦しい。
 なぜかなんて分からないけど、心臓が早く鳴って、息をするのも苦しい。泣きそうになる。
「椿ちゃん?」
――嫌だ。
 どうしてあたしが説教されなくちゃならないの。
「……いや」
「え?」
「嫌……」
 9月とはいっても朝なのに日差しはすでに強くて、陰になっているこの非常階段ですら暑い。あたしの汗が頬を流れた。
「あたしだって同じなのに」
 握られていた手を振りほどいて、汗を拭った。浮かんでいた涙も流れる前に拭う。
「あたしだって……同じなんだもん」
「椿ちゃん――?」
 藤崎君の言葉を聞く前に、あたしは背を向けて廊下に出ていた。駆け足で階段を降りる。さっきとは比べ物にならない程心臓がバクバクと高鳴った。泣かないでよかった。涙を流さなくて良かった。だけどどうしてこんなにも胸が苦しいんだろう。
 息が上がる。だけどあたしは速度を緩めなかった。
 自分のクラスがある階まで降りたところで篠原君と出くわした。
「あ……、チャイム鳴ったからさ、呼びに行こうかと思って」
 少し困ったように篠原君が言った。
 最近よく篠原君と会う気がする。