Je t'aime

35


 放課後の教室は静かだ。外はまだ太陽が燦々と照っているから眩しいほど明るくて、室内というだけで人工的な光はとても弱いのだと実感する。会話もないこの空間に響く音と言えば、確かに時間が流れているのだと意識させる秒針と、あたし達が動かしているホッチキスの止める金属音と、校庭から届く運動部の掛け声だけだ。
「暗い。暗いわ、この空気」
 畑さんが我慢の限界、とでも言いたげに声を上げた。あたしは結構こういう雰囲気も気にならないのだけれど、いつも賑やかな彼女には耐えられないのだろう。
「確かに。特にヤマト君、どうして一人だけ離れてるの」
 高郷さんも畑さんの意見には賛同するようで、机を向かい合わせて作業をするあたしや畑さんや高郷さんから少し離れたところで黙々と作業をする藤崎君に声をかけた。
 けれど藤崎君はまるで拗ねた子供のように返事をせず、手を動かし続ける。ちなみにあたしたちは体育祭のプログラムをクラス分ホッチキスでまとめていく作業をしていて、彼は一人だけ体育祭の入場門を飾る紙の花を作っている。
「藤崎さん、何かあったの?」
 仕方ないというように畑さんが声を弱めてあたしに聞いてきた。
 ぱさ、ぱさ、と彼ができがった花を足元に置いてあるダンボールへ落とすように入れていく音が聞こえる。この会話も聞かれているんだろうか。
「……別に特には」
 答えてからふと気づく。どうしてあたしに原因を聞くのだろうか。
「でもあれは普通じゃないわ」
 高郷さんも小さな声で呟いた。だよね、と畑さんが頷く。
「暗すぎて怖いんだけど」
「藤崎さん、何とかしてよ」
「あ、あたし?」
 いやだよ。あたしだって怖いよ。
 だけど二人にはどうやら断ってはいけないようで、まっすぐ見つめられたまま重々しく頷かれた。まじですか……?
「このままじゃ体育祭もあの調子だよ」
「そんなの楽しくないじゃん」
「でも、なんであたし?」
 すると畑さんに睨まれた。畑さんも女の子の中ではなかなかの美人さんで、だからその目つきには美人さん特有の迫力がある。こういうところは少し藤崎君に似ていると思った。
「ヤマト君には藤崎さんしかいないじゃない?」
「そんなことは」
 ありえない、と言おうとして更に睨まれたので、あたしは思わず言葉を飲み込んだ。こっちも充分に怖いんですけど。というかウサギにはニンジンみたいに言われても困るんだけどなぁ。
「ということで、私達は先に帰ってるから」
 へ?
 急に立ち上がった畑さんに続き、高郷さんまでが「じゃあわたしも」と片付け始めた。
「え、え?」
 戸惑っているあたしをよそ目に二人はテキパキとした手つきであっという間に机も元に戻してしまった。
「大丈夫、続きは家でやってくるから」
「あとはよろしくね」
「え、ちょっ、ほんとに?」
 慌てるあたしを無視して二人はさっさと教室を出て行ってしまった。
 嘘でしょう!?
 けれど取り残されたあたしに二人を連れ戻すなんてことはできなくて、ただ思うようにならない体をどうにか座らせた。
 秒針の音と、花の落ちる音と、校庭での掛け声が聞こえる。
 それ以外には何も聞こえない。
 ……気まずい。
 静かな雰囲気は気にならないけれど、この重たい空気は苦手だ。というかあたしがそう感じているだけかもしれない。そっと藤崎君の背中へ目を向けてみても、彼は変わらず淡々と手を動かし続けるだけだ。
 あたしも帰って、家で残りを片付けてもいいかな。むしろそうしたいな。
 どうすればいいのよ、この状況を。
「椿ちゃん」
 不意に藤崎君があたしの名前を呼んだ。
「な、なに?」
 それだけのことであたしの鼓動は更に早くなって、耳の後ろで心臓の音が聞こえてきそうだった。
「アタシ、怒ってるんだからね」
「えっ……」
 冷や汗が背中を伝う。
 花を一つダンボールに入れて、藤崎君は立ち上がった。振り向いてあたしと目が合う。困ったような笑顔はなくて、ただあたしを真っ直ぐに見つめる目だ。
「アタシの気持ちを知っているのに」
 そう言ってだんだんと近づいてくる。狭い机と机の間を歩いて、あたしの目の前まで来ると、あたしが逃げないようにするためかあたしの手を取って、離さないとでも言いたげに力を込める。本気で怒っているんだ、とあたしはどうしたらいいかますます分からなくなった。
「篠原と仲良くするから」
「あの……?」
 え、なに、それ? よく意味が分からない。
 あたしと篠原君がどうしたっていうの?
「自分でも抑えなきゃと思ってるけど、しょうがないじゃない。嫌なんだもの。篠原と話してるのも、森岡と話してるのも、嫌だって思うのは、しょうがないじゃない!」
 あたしは驚いて一歩後ずさろうとしたけれど、握られた手がそれを止めた。
「時々榎本さんにまで嫉妬してるの、椿ちゃん気づいていないでしょ」
 藤崎君は声を押し殺すように言って、そっとあたしの手を持ち上げる。あたしの手の甲に柔らかな感触がした。
「だから椿ちゃんから突き放してくれなきゃ、あの時みたいにはっきりと言ってくれなきゃ困るのに。椿ちゃんはどうしたいの?」
 鼓動が高鳴る。
 これはきっとチャンスなんだ。
 あたしは知らず、握られた手に力を込めていた。
「――あたしは」
 きっと全部、言わなきゃいけない。
「藤崎君が好きだよ」
 彼の見開かれた目を見つめながら、あたしは覚悟を決めた。
「でも藤崎君は本当にあたしを好きなのかなって、信じられなくて」
「なっ!」
「だって!」
 あたしは精一杯の勇気を出して彼の言葉を遮った。
「だって、藤崎君が駅で会ったのは、あたしじゃないんだもん」
「え――?」
 ぴたりと時間が止まった気がした。
「駅で会ったのは、あたしじゃないから……」