Je t'aime

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「はーい、じゃあ応援歌が決まったので配りまーす。皆覚えるかプリント失くさないようにしてねー」
 藤崎君のハイテンションな声が教室に響く。教卓の前には体育委員である彼と高郷さんの他に有志で集まった応援団の数人が出ていて、このホームルームの時間を使って応援の予行練習をするのだ。
「ねえ、藤崎さん」
 クラスの皆にプリントを配っている間、隣にいた畑さんが静かな低い声で囁いてきた。実行委員のあたしと畑さんも前に出ているのだけど、進行は全て体育委員か応援団がするので、あたしたちはただ教室の端に突っ立っているだけの形になっていた。
「あれはどういうことかな?」
 畑さんの顔は見なかったけれど視線はバシバシと感じている。こ、怖いんですけど。
「明らかに前よりオカシくなってるよね、ヤマト君」
「……」
 あたしのせいじゃ、ないよね。ないない。……たぶん。
 だってあたしは告白しただけだし。あたしも藤崎君が好きだってことと、藤崎君が一目惚れしたのはあたしじゃないってこと。
 え。もしかしてそれが原因なのかな。
「ハイハイ、実行委員の二人も声を出していこうねー! じゃあ一番上から、お願いしまーす」
 藤崎君から笑顔で注意され、あたしはびくりと肩を震わせた。
「やっぱりおかしいわ、ヤマト君のテンション」
 畑さん。お願いだから睨まないでいただけないでしょうか。

 来賓客用のテントやベンチの下準備は運動部がやってくれるので、久しぶりに放課後に残らずに済む。けれどせっかく一緒に帰ろうと彩芽に声を掛けるが、彼女は彼女で団旗製作の方が大詰めらしく、今日も残ると言って、あたしは一人で帰ることになった。
「お、藤崎。帰るのか?」
 ロッカーで靴に履き替えていると不意に声を掛けられた。顔を上げると森岡君がやあ、と手を上げてあたしに向かって笑顔を見せた。
「うん、今日は実行委員の仕事はないから」
 見ると森岡君はジャージ姿で、ふとこの前の篠原君を思い出した。森岡君もまだ部活に顔を出しているのだろうか。
「そっか。気を付けてな」
「うん。ばいばい」
 手を振って森岡君と別れ、玄関を出て駐輪場に向かう。こんなに早く学校を出るのはすごく新鮮な気がした。数字で言えばそれほど日にちは経っていないはずなのに、ずっと実行委員を続けていたような気がする。
「あ、藤崎さん!」
 プールの横を歩いていると後ろから声を掛けられた。振り向くとまたジャージ姿の篠原君がこっちに向かって駆けてくる。
「修司知らない?」
「森岡君ならさっき、ロッカーで会ったよ」
 あたしが教えると篠原君は盛大な溜め息を吐いて、くしゃくしゃっと髪をかき上げた。篠原君が苛立っているのはいつも森岡君絡みな気がする。
「ったくアイツは……。ありがと、藤崎さん」
 それでも他の人にはちゃんと気を使えるんだから、篠原君は本当に優しい人なんだろうと思う。
「ううん。どうかしたの?」
 すると篠原君は少し困ったように笑った。
「いや、これからパイプを運ぶんだけど、サボるつもりらしい。まぁもともと3年の仕事じゃないんだけどさ」
「大変だね」
 つられてあたしも困ったように笑った。
――と、急に後ろから抱きつかれた。
「うわっ?」
 なになに、何事!?
「ちょっといいかしら」
 耳元で聞こえた声に反射的に心臓が早くなる。ゾクリと背中に電気が走った気がした。見ると篠原君の笑顔も引きつっている。
「何もないから。っていうか俺、もう行くし。じゃあ、ごめんね。また明日」
 バイバイと小さく手を振ってから篠原君は来た道をまた戻っていった。
 なんというか、藤崎君って結構神出鬼没だよね……。
「椿ちゃん、この前の話だけど」
「う、うん?」
 ホームルームの時とは違ってやけに静かな彼の声に、あたしは怖くなった。
「とりあえず場所変えましょうか」
 そう言って藤崎君はあたしの手を取って校舎の方へ歩き出した。確かにここだと人の往来が激しいけれど、人気がないところも怖いかな、と思ったりした。

 藤崎君に連れて来られたのは非常口の階段で、屋上へ続く途中の場所だった。この学校は屋上を開放していないけれど、そこへ繋がる階段までなら誰でも来られる。だからって溜まり場になったりはしていないけど。つまり、二人になるには絶好の場所だということだ。
 非常口は校舎の外にあることもあって立ち上がっていると外から辛うじて見えるけれど、しゃがんでしまえば絶対に気づかれない場所だ。ちょうど日陰にもなって、少し涼しい。
「うわっ」
 階段を上りきると無理矢理座らされ、思わず背中を壁に打った。だけどその痛さを感じたのは一瞬で、すぐに何も考えられなくなった。目の前には藤崎君の顔があって、座り込んだあたしの上から覆うように彼も膝を突いた。あたしの顔の横には藤崎君の腕が壁についている。
 息遣いが聞こえてきそうなほどの至近距離に、あたしは彼から目を逸らせない。これ以上ないくらいに鼓動が速くなり、胸が痛い。思わず手で胸元を押さえた。
「椿ちゃん」
 藤崎君の瞳が何かを確かめるようにじっとあたしを見る。あたしは彼の目の動きに体を固まらせたまま、ただ彼が何かを言うまで待つしかなかった。
「アタシやっぱり、椿ちゃんが好き」
「……へっ?」
 真っ直ぐに目を覗き込まれ、あたしは瞬きをすることも忘れてしまいそうだった。
「まさか駅で会った子と別人だなんて思わなかったけど」
 ズキっと何かが心臓を突き刺す。さっきよりも強く胸を抑えた。
「ずっと考えたけど、やっぱり椿ちゃんがいい。椿ちゃんじゃないと、嫌なの」
 ひんやりとする壁にもたれているあたしの体はきっと熱い。
 こんなにも心臓が波打っているんだもの。耳まで赤いはずだ。
――なんて、やけに冷静な自分がいる。
 本当は彼の言葉の意味を聞き取るのにもいっぱいいっぱいなハズなのに。
「椿ちゃんもあの子と同じように優しいけど、あの子と椿ちゃんは違うから」
 冷たい、肌の温度が頬から伝わってくる。それが藤崎君の手だと気づいたのはしばらくしてからだった。
「アタシにはやっぱり、今ここにいる椿ちゃんが、いい」
 彼の手があたしの頬に触れ、その指がだんだんと下がっていく。
「椿ちゃんは? もう一度聞きたい」
 いつの間にか彼の声も、目も、とても優しくなっている。そのことにあたしはほっとした。今なら、言えるかも知れない。
「あたし……」
 少し、彼との距離が近くなる。
「あたしも、藤崎君のことが――」
 その先の言葉は、彼の唇に飲み込まれた。