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初めてのキスは花火の下、その美しい情景とは違って突然のことに何も感動なんてなくて、ただドラマチックな展開が待っているわけでもなかった。
2回目のキスは決してロマンチックな場所ではなかったけれど、とても甘くて、泣きたくなるほど胸が締め付けられた。きっとこれが“幸せ”なんだと思えた。
押し付けられた温度が心地良くて自然と手が伸びる。彼の制服の裾をぎゅっと掴んで、彼はあたしを優しく抱きしめてくれた。風の音もパイプがぶつかる金属音も遠くで響いているのが聞こえる。だけれどあたしたちは静かにお互いの温かさを確かめ合っていた。ずっとこの時間が続けばいいと、心の中で願った。
体育祭当日はこれ以上ないくらいの晴天だった。空には雲ひとつ見当たらない。あたしも含め女の子達は日焼け止め対策バッチリの完全防備で校庭に集まった。さすがに上下長ジャージでいる人は少ないけれど。
「あれ、椿? どこ行くの?」
開会式が終わった後、団席から離れていこうとするあたしに彩芽が声を掛けてきた。あれ、言ってなかったのかな。
「あたし受付担当なんだ。だから競技に参加する時以外は門のところに居るの」
そう言ってフェンス越しに見える裏門を指差した。受付は正門と裏門の二箇所でやっていて、保護者も含んだ来場者のサインを貰うことになっている。
「彩芽も来る? テントの下だし、飲み物もあるよ」
しかも受付だから椅子に座っているし、なかなかおいしいポジションでもある。彩芽も「いいの?」と遠慮がちに、しかし満面の笑みを隠し切れずに喜んで付いてきた。本当は実行委員と体育委員の仕事なのだけれど、畑さんも高郷さんも前半の競技にほとんど参加するので、彩芽を誘ったのは藤崎君と二人きりにならないためだったりする。
だってなんとなく二人だけっていうのは……恥ずかしいし、照れくさい。
「え、榎本さん? どうしたの?」
彩芽をつれて受付場所に行くと、既に来ていた藤崎君が驚いた表情で彩芽とあたしを交互に見た。
「ああ、ごめんねーヤマト君。来ちゃった」
全然申し訳なさそうな顔をしないで彩芽が笑って言った。何となく痛い視線を感じたけれど、あたしは無視して彼の隣に座る。と、ちょうど二人組みの来場者が見えた。
「卒業生なんですけど」
「はい。ではここに卒業年度とお名前のご記入をお願いします」
二人にプログラムの書いたパンフレットを渡して、簡単に席の案内をする。案内といっても直接連れて行くわけじゃなくて言うだけなんだけれど。これが受付の仕事の流れだ。
「いやぁ、でもホント、ここって良いよねぇ」
パタパタと手で風を作りながら彩芽があたしたちの後ろに座った。椅子は全部で四つあって、入り口を防ぐように3つの席を作った長テーブルが置いてある。その後ろにお茶とコップが用意された小さなテーブルと椅子が一つあるのだ。つまり後ろの席はお茶汲み係といったところ。彩芽がそのことに気づいているのかは分からないけれど。
「出ていく気はないのね」
藤崎君が小さく溜め息を吐きながら言った。それを聞いて彩芽がにんまりと笑む。
「ごめんねぇ。わたしも女の子だから、焼きたくはないのよ」
「全然悪いなんて思ってないでしょ」
「別に良いじゃん。気にしない、気にしない」
彩芽は良いながらポットからお茶を注いで藤崎君にハイと渡す。ポットの中はたくさんの氷で冷やした美味しい麦茶だ。彼はそれを受け取りながら納得のいかない顔をした。
「アタシは別に良いんだけど、椿ちゃんが嫌がるんだもの。人前でイチャつくと」
彼が言い切る前にまた数人の来場者が見えて、あたしと藤崎君は同じように対応する。そしてそれが終わるとまた彩芽の方に向き直った。
「ね、ずっと居るの? 榎本さん」
彩芽は大笑いした。
「本当にヤマト君って素直だよねー」
「だってせっかく両思いになったんだもの、当然でしょ」
――あ、ヤバイ。
「え?」
あたしが内心焦る横で彩芽はキョトンと首を傾げた。
「え?」
その様子に藤崎君もキョトンとする。あたしはどうやって逃げ出そうか逡巡したが、どうにも無理そうだ。また来場者が見えた。
「椿、どういうこと?」
席の案内を終えた途端、立ち上がった彩芽があたしの隣の席に座った。二人に挟まれたあたしは小さくなるしかない。
「えっ、椿ちゃん、言ってないの?」
はいその通りです。あたしは藤崎君のことをまだ彩芽にも芳香にも誰にも言っていなかった。
だって自分自身が頭いっぱいなのに、そこまで気が回らなかったんだから、仕方ないと思う。
藤崎君は黙ったままのあたしの肩を優しく叩き、にっこりと微笑んだ。
「とりあえず榎本さん、そういうことだから」
「……まぁしょうがないか」
彩芽はなぜだか納得したようで、ゆっくりと立ち上がった。
あたしはそっと安堵する。
「じゃあヨッシーの所にでも行ってるわ。頑張ってね、受付」
「うん」
彩芽が行って間もなく、来場者がやって来た。それの対応を終えるとそろそろ畑さんたちが戻ってくる頃だ。
「それじゃ、アタシも行ってくるね」
うん、と答えようとして、また人影が門のところに近づいてきていることに気づいた。藤崎君も立ち上がったところでそれに気づき、視線をあたしの方から門へと移動させる。
「……なんで」
それは藤崎君の声で。
「よう、久しぶり」
前に現れたのは、あたしたちと同じ年くらいの男の人だった。短い髪を茶色く染めた、その活発そうな人は人懐こい笑みを浮かべて手を上げた。
もしかして藤崎君の前の学校の友達かな。
「あの、お名前を」
「何しに来たんだよ」
あたしの言葉と重なるようにそう言ったのは藤崎君だった。
いつもの女口調じゃなくなっていることに、あたしはすぐには気づかなかった。
見上げると、藤崎君の鋭くなった視線を、目の前の彼は気にもしないように笑顔で受けている。
「ところで、ここに名前を書けばいいの?」
藤崎君の言葉を無視してあたしに声を掛けてきたことに驚きつつ、あたしは名簿帳を彼の方へ向けた。
高坂平。
珍しい名前だと思った。「平」って何て読むんだろう。へい、ではない気がする。タイラ?
「面白いだろ。高い坂なのにタイラなんだ」
「タイラさんって読むんですか?」
あたしが尋ねると、藤崎君が彼の肩を掴んで突き放した。それには高坂さんも驚いた表情をする。
「椿ちゃんに近づくな、平」
あ、オサムって読むんだ。
いやそうじゃなくて。
問題なのは今の藤崎君の雰囲気だ。どうして急にキレちゃってるんだろう。
けれど高坂さんは全く気にせず、ただ優しく微笑んだ。
「そうか、見つけたんだ、ヒロ」
その一言に藤崎君はさらに険しい表情になった。
「ヤマト君! 次もう出番だよ!」
後ろから畑さんの声が聞こえた。藤崎君は畑さんの方へ振り向くこともせず、ただ高坂さんから目を離さないように一歩後ろへ下がった。
「行こう、椿ちゃん」
そしてあたしの手を引いて駆け出す。
え、え。っていうか、あたしは次の競技には出ないんだけど。
腕を引っ張られたまま振り返ると、高坂さんが畑さんからプログラムを受け取っているのが見える。あたしの手首を握る藤崎君の手がかすかに震えていたことに、あたしは全く気づけないでいた。