Je t'aime

38


 グラウンドの中心で大きな団旗が風に靡かれながら舞っているのを、4階にある図書室の窓から藤崎君と並んで眺めていた。大きく青地の布に描かれているのは体をくねらせた青龍だ。午前の部と午後の部に挟まれた昼の部は、応援団のダンスを混ぜたアピール合戦が始まる。団旗の評価も合わせてこれらも団の得点へと繋がるから、毎年一番気合の入る華やかな舞台なのだった。ちなみにあたしたちの団が青団で、他に赤団と黄団がある。赤団の団旗は朱雀で、黄団の団旗は麒麟だ。白団があったら絶対に白虎だったに違いない、なんて在りもしない想像をしてみる。
「去年は映画シリーズだったんだよ。赤がスパイダーマンで、青がジョーズで、黄団がなぜかピカチュウなの。まあ映画にはなってるけどさ。可笑しいでしょ」
「ふふ。そうね」
 藤崎君はどこか遠い目をしながら静かに笑った。だけどその笑顔がどこか悲しそうで、藤崎君の方からグラウンドへと視線を戻す。
 高坂さんに会ってからずっと彼はこんな調子だ。どうしたの、と聞くべきか迷って、結局未だ聞けずにいる。聞いたところであたしにはどうしようもないことだと分かっているから、簡単に彼の内側へ入ってはいけない気がした。
「そろそろ戻る?」
 青団の応援が終わって、下から聞こえる盛大な拍手と歓声を耳にしながら、あたしは藤崎君に聞いてみた。彼も体を起こして、そうね、と頷く。
「ねえ、椿ちゃん」
「うん?」
 図書室を出たところで呼び止められ、振り返る。ほとんどの生徒が直接グラウンドへ出てアピール合戦を見に行っているのか、廊下にも教室にも驚くほど人気がなかった。
「椿ちゃんはアタシののこと、苗字で呼ぶよね」
「え、あ、そうだね」
 いきなり呼び方について指摘されたので驚いた。でもそんなことは今更で、急にどうしたんだろう。
「もしかして嫌だった?」
 考えたこともなかったけど、そう言われるとあたし以外で彼を藤崎君、と呼んでいるのはあたしが知る限り香苗さんだけだ。そんなことはないと思うけれど、その呼び方は香苗さんだけに与えられた特権なのかもしれない。
「や、そうじゃなくて。椿ちゃんも藤崎だから、変な感じしないのかなって」
 それを聞いてほっとした。ああ、なんだ、これはあたしが思うような深刻な事ではないらしい。
 安堵して、思わずクスクスと笑いが漏れた。
「今更だよ。それに全然、そんなふうに感じたこともないし」
 あたしが答えると藤崎君も同じように小さく笑った。
「それならいいんだけど」
 そして足を進め、いつの間にかあたしの前を歩いていく。あたしは慌てて追いかけるように後をついていく。
「でもできれば、下の名前で呼んで欲しいかなぁ、なんて」
 前を向いたまま放たれた言葉に、あたしは彼の背中を見つめながら顔が赤くなるのが分かった。

「うわ、抜いた抜いた! 椿、ヤマト君トップだよー!」
 走り終わったばかりで肩で息をするあたしの背中をバシバシと叩きながら、だいぶ前に走り終えた彩芽が興奮した様子で叫んだ。けれど周りの歓声と応援で彩芽の声もあまり大きく聞こえない。
 見ると確かにあたしが渡したバトンを持って走る藤崎君が一番前を走っている。このクラス対抗リレーであたしたちのクラスは名前の順番で回しているからあたしが彼にバトンを渡すことになっていた。その時は3番目だったのにもうトップを走っているのだから、すごい。
 その後また抜かされて、けれど再び森岡君が追い抜いてトップの座を取り戻した。アンカーの山本さんにバトンが回されるまであたしたちのクラスが僅差でトップを走っていたけれど、4組のアンカーはなんと元陸上部の部長で、呆気なく大差をつけられてしまった。それでも2位を死守した彼女に、あたしたちは歓声を上げた。
 リレーでの興奮も醒め止まないうちに次の競技の準備がされる。あたしはまた2つ後の騎馬戦に出るので、受付には戻らず彩芽と一緒に入場門前の集合場所へ行くことにした。
「ヤマトくーん、こっち来てー!」
 その途中でそんな声が聞こえ、振り返ると違うクラスの女の子達がカメラを持って藤崎君を呼んでいるのが見えた。あたしたち3年生にとってはこれが最後の体育祭で、だからあんなふうにカメラを持ってきている人は多い。あたしはすっかりそこまで気が回らなかったのだけど、持って来れば良かったなと彼女たちを見て思った。そしたらあたしも、彼女たちのように藤崎君と写真を取れたのにな。
「ふうん。ヒロってここでもヤマトって呼ばれてるんだ」
 不意に聞こえた独り言に、え、とあたしは振り返る。そこにいたのはじっと藤崎君の姿を目で追う高坂さんだった。
「え、誰? ヤマト君の友達?」
 驚いたように彩芽が小声で聞いてくるけど、あたしは答えられなかった。あたしが知っているのは高坂さんの名前と、藤崎君の知り合いらしいということだけだし、それ以外は全然知らない。
 あたしと彩芽が彼のことを見ていたのに気づいたのか、高坂さんはゆっくりとこちらに顔を向けた。あたしと目が合ってにっこりと微笑む彼の笑顔は、やはりどこか人好きのしそうな表情だと思った。
「あのさ、君ってヒロとどういう関係?」
 ドクッと、心臓が高鳴った。
「そりゃもちろん」
「クラスメイトです」
 あたしは思わず彩芽の言葉を遮った。彩芽は横で不満そうな顔をしているけれど、言っちゃったものはしょうがない。高坂さんは表情を崩さず、そう、と呟いた。
「でもヒロは君のこと気に入ってるみたいだったね」
 さっきから何なんだろう。何となく嫌な感じがして、手をぎゅっと丸めた。藤崎君が簡単にキレるくらい、高坂さんは藤崎君を傷つけたことがあるんだろうか。そんなふうに思えるから、本当に何となく、あまり近づいてはいけない人のような気がした。
「彩芽、行こう」
 なんでだろう。胸がドキドキと騒がしい。あたしは彩芽の腕を引っ張って早足で歩いた。
「なに、どうしたの、椿?」
 早足が駆け足になり、あたしはどうしていいかも分からず手で胸を押さえたまま集合場所まで急いだ。どうしちゃったんだろう、あたしの心臓は。