Je t'aime

39


 無事に騎馬戦が終わり、退場門を出ると藤崎君が真っ先に目の前に現れた。
「椿ちゃん、お疲れ!」
「ありがと」
 あたしが言う間もなくガシっと手首を掴まれた。
「というわけでちょっと来て!」
「え、え? でも彩芽が」
 いやいや、というわけで、の意味が分からないし。
 問答無用に引っ張られながら後ろを振り向くと、彩芽はにっこりと笑って手を振っていた。彩芽は既に彼の行動を心得ているようだ。どうなんだろう、これって。
 そんなこんなで連れて来られたのは体育館の裏の端。ちょうど更衣室の並びがある側なのだけれど、体育祭真っ只中の今の時間に校舎を挟んでグラウンドとは間逆であるこちらにいる人はたぶんあたし達だけだろう。校舎を挟んだだけでこっち側はひどく静かだ。
「椿ちゃん……ッ」
「うっ、うん?」
 ここまで引っ張られてきたと思ったら、今度はいきなり抱きつかれてしまった。突然のことに驚きつつも、その声がどこか切羽詰っている感じがして、押し退けることを忘れてしまう。それでもただ突っ立っているのも何なので、やり場のない手をそっと彼の背中に添える。まるでお母さんが小さな子どもにするように、軽く背中を叩いてみたりもした。それでも自分の心臓がこれ以上なく激しく鳴り続けて、あたしは顔を赤くしていいのかも分からなくて。
「椿ちゃん、平に何も言われなかった? 何もされなかった?」
 刹那、騎馬戦の前に言われた高坂さんの言葉が頭を過ぎったけれど。
「言われてないし、されてないよ」
 あれは大した事ではない。ただの世間話だ。
 あたしは宥めるように言った。藤崎君はそれで安心したのか、あたしを抱きしめる腕の力を緩めた。相変わらず彼の顔はあたしの肩に埋まっている状態だけど、それがなんだか嬉しいようでくすぐったい。
「……椿ちゃん」
「うん?」
 彼は少し体を離して、額をあたしの肩に乗せて静かに言った。
「平のことは相手にしないで。アタシだけを見て」
「え?」
 それってどういう意味だろう。
「お願いだから頷いて」
「あ、うん」
 藤崎君はあたしが即答しなかったことが不満だったようで少し拗ねた声を出した。
「もう一回。平に何を言われてもアタシだけを信じて、ね」
「うん、分かった」
 思わずくすっと笑ってしまい、顔を上げた彼に少し睨まれた。咄嗟に笑みを引っ込める。ここは笑うところではなかったらしい。
 そこで会話が途切れる。
 自然と沈黙が訪れて、そういえば受付には今誰がいるんだろう、と心臓をバクバクさせながら関係のない事を考えた。
「……藤崎君」
「ん?」
「顔、近いんだけど……」
 気づけばあたしが顔を背けることで辛うじて保たれる数センチの距離。日の暑さとは別に熱くなる体温に、あたしはどうしたものかと戸惑ってしまう。てか、今、体育祭とはいえ授業中なんですけど。
「前はね、あんまり無理強いしちゃ嫌われるって思ってたけど」
 耳元で囁かれて、あたしは思わず体を硬直させた。息がかかってるんですけどっ。
「今は違うでしょ?」
 首筋に唇を当てられてきつく目を閉じた。
「んッ」
 思わず出た自分の声にさらに恥ずかしさで熱さが増し、鼓動も速くなる。なんか怖いんですけど!
「――ごめん」
 悪ノリしすぎたね、と優しく抱きしめられる。
 そんなことされたら怒るに怒れなくなるの、きっと分かってるんだ。
 でも結局はその通りで、いつのまにかあたしの体の緊張は解れていた。
 小さく、次の競技が始まるアナウンスが聞こえた。

 団対抗リレーに参加する藤崎君とは別れて、あたしは受付へ戻った。そろそろ体育祭も終盤だ。相変わらず日差しは強いままだけれど、細々とした片づけを始める頃だ。
「あれ、ヤマト君は?」
 戻ると畑さんが開口一番にそう聞いてきた。
「団対抗リレーの、整列に……」
 あたしはそう答えながら、ふとそこに居る彼に気づいた。高坂さんだ。どうして高坂さんがここにいるんだろう。見るなら来賓席に居ればいいのに。
「あ、この人ヤマト君の幼馴染みなんだって。高坂平君っていって」
 不思議そうにあたしが高坂さんを見ていたからか、横から高郷さんが説明してくれた。ああ、そうか、幼馴染みなんだ。だから藤崎君のことを「ヒロ」って呼んでいたのか。
「で、この子がさっき言ってたヤマト君の彼女の藤崎さん」
「えっ?」
 続くようにあたしの紹介もされて驚いた。え。っていうか、カノジョって!?
 あたしがよほど焦って見えたのか、高坂さんはカノジョという部分でクスクスと小さく笑った。どうしたものかと畑さんを見るが、あたしがなぜ焦っているのか伝わっていないらしく、畑さんにもくすっと笑われた。
「藤崎さん、可愛い。ヤバイ」
「恥ずかしがることないじゃん。皆知ってるんだから」
「え。え。ええ?」
 なんで、なんで、どういうことですかっ。
 いつの間にそんなことになってるんですか。
「やっぱりそうだと思ったよ」
 高坂さんにまでっ。
「な、なな、なんでそんな」
「てかヤマト君しかいないじゃん。クラスの男子達に思い切り牽制かましてたし」
「……っ」
 絶句。
 なんてことを――!
「ヤマト君らしいって言えばヤマト君らしいよねぇ」
「だね」
 高郷さんと畑さんが困ったような呆れたような、だけど確実に面白そうに笑い合った。恥ずかしすぎる。じゃああたしが彩芽に言わなかっただけで、それ以外の皆は知っていたってことだ。
「へえ、そうなんだ」
 あたしが恥ずかしさに死にそうになっているところへ、高坂さんのそんなのほほんとした声が落ちてきた。それは「意外だなぁ」という感情が含まれているような調子の気がした。そのことになぜだか、本当によく分からないまま、嫌な感じがした。ムッとするというか。イラッとするというか。ムカッとするというか。
「あっ、あの」
 何がそうさせるのかよく分からないけど、どうしても我慢が出来なかった。
「今日はどうして来たんですか」
 どうして藤崎君は高坂さんを嫌がるんだろう。
 どうして高坂さんはそれを知ったうえでそういうふうに振舞おうとするんだろう。
 たぶん、あたしの知らない昔に、二人に何かがあったんだろう。そしてそれはあたしなんかが入るところじゃないんだと思う。
 だけど藤崎君が嫌な気持ちになるのがどうしても嫌で堪らない。
「――大丈夫かなと、思ってさ」
 それは、とても優しい声音で。
「ヒロの奴、何も言わないで引越しってったからさ、何かあったのかなって」
 あたしにしてみれば高坂さんというのは、藤崎君というレンズからしか知らない人だから、なんだか意外で。
 その柔らかな表情に、あたしの心臓はまた高鳴りだした。
「まぁたぶん、ヒロは俺なんかと会いたくもないんだろうけど」
「……どうして、そんなこと」
 高坂さんは一瞬表情を固めて、すぐに力を抜くように深く息を吐いた。
「ちょっと、付き合ってくれる?」
 きっとそれが、合図だった。
 だからあたしは何の迷いもなく、躊躇いもなく、気づいたら頷いていたんだ。