Je t'aime

40


 あたしと高坂さんは受付の場所から少し離れたところにある花壇に腰を並べた。目の前にはフェンス越しのグラウンドがあって、ちょうど真横から観戦できる位置にあった。あたしたちから向かって右手側に放送席と来賓席、左手側に生徒の団席がある。
「ヒロってさ、キレると人格変わるんだ」
 瞬間、夏祭りのことを思い出した。二人の男をたった数発の打撃で沈没させた藤崎君は、確かに別人のようだった。一人称もいつもの「アタシ」ではなく「俺」になっていたし。でもそれは一瞬のことで、すぐにあたしの知っている藤崎君に戻ったから、多重人格者ってわけでもないと思ったのだけれど。
「あ……知ってるんだ?」
「え」
 あたしが何もリアクションを取らなかったからだろうか。意外そうに驚いた高坂さんがあたしの顔を覗きこむように首を傾げた。
「えっと、まぁ、一応」
 そんなに驚かれることでもないような気がする。確かにクラスの中でキレることなんて今までなかったけど。
「よっぽど気に入られてるんだ、藤崎さん」
 そしてふと思いついたように少し体を起こした。
「そうだ、俺も椿ちゃんって呼んで良い? ヒロも藤崎だし、なんか変な感じするんだよね」
「別にいいですけど」
 あれ。こういうのって前にも聞いたことのあるセリフだ。あたし自身はそんな感じでもないけど、これってやっぱり慣れからくるのだろうか。
「良かった」
 そう言ってにっこりと笑みを見せる高坂さんは、やはり人懐こそうな印象を与えていると思った。
「でもそっか。それだと話が早いや。ヒロのあの口調はさ、不自然な環境の中で身に付いたものなんだよね。だからキレたときのあの口調が、本当のヒロの姿じゃないかって思ってたんだ。怒ると人間の本心が現れるって聞いたし」
 それは分かる気がする。喜怒哀楽の中で一番表に出やすいのが怒るという感情だと、あたしも思う。出やすい分、その人の本音を引き出すにも一番手っ取り早い方法だという事も分かる気がする。
「だから俺、ヒロの家以外では結構怒らすようなことばっかやってたんだ。学校では普通の男の子に戻って欲しくて。でもヒロって優しいとこあるからさ、なかなか上手くいかなくて、酷いこともやった。それで何度喧嘩したか分かんないけど、結局ヒロから謝ってくるから、俺たち中学まではそれなりにやってこれたんだ。今思うと不思議なくらい」
 ここまで一気に話し終えると、高坂さんはフッと一息入れた。目の前で障害物競走の激しいバトルが繰り広げられ、一人が一つの障害をクリアしていくたびに大きな歓声が上がる。
 あたしには過去に高坂さんがどれだけ酷いことをしたのかなんて分からないけど、藤崎君が高坂さんを嫌っているのはそのこととは関係ない気がして、あたしはその続きを緊張しながら待った。
「でも高校に上がってすぐの頃かな。俺ら別々の学校だったんだけど、偶然、同じ子を好きになったことがあったんだ」
 ドクンッ、と心臓が高鳴る。
 動悸が激しくなる。
 頭に血が上って眩暈がしそうだった。
 そりゃ、18年も生きてたら恋の一度や二度くらい、普通にあるだろう。だけど、たったそれだけのことで、どうしてこんなにもショックなんだろう。
「俺とはバイト先が一緒で、ヒロの同級生だったんだ。最初は驚いたけどすぐにヒロも含めて友達として付き合うようになって。でも俺が最初に告ったんだ。その時はもうヒロはあの口調がどうしても抜けなくて、それが原因で男として見られてないってことも、分かってた。だから、俺が告って、ヒロが振られた形になったわけ」
 ……あたし、今、ちゃんと呼吸できてるかな。
 泣きそうな顔になってないかな。
 思わず唾を飲み込んで、初めて口の中が乾いていることに気づいた。
「まぁよくある三角関係っていうやつ? まさか自分が当事者になるとは思ってなかったけどさ。で、それを俺は隠してたんだよね。けどそれはヒロをどうにかしようってことじゃなくて、ただ単に言えなかっただけなんだけど。でも皮肉っていうか、故意に傷つけようとした時はキレなかったヒロがさ、その時だけは違ってたんだよな」
 パンパンッというピストル音が響いた。
 だから高坂さんの溜め息はあたしには聞こえなかったけど。
 ジリジリと体が焼ける音には気づいていた。
「あの時からヒロ、呼び名に拘るようになったんだ」
「え?」
「椿ちゃんさ、ヒロのこと何て呼んでるの?」
 図書室を出たときの、彼の背中を思い出した。思い出して、さっきとは違う鼓動の速さに、あたしはどうしていいか分からなくなる。
「何てって、普通に……藤崎君、って」
 言いながら声が小さくなっていく。
 呼び名に拘るって、そんな感じは全然しなかった。気づかせないように振舞っていたのかな。そしたらあたしは、どんなふうに受け止められていたんだろう。
 嫌な思いを、させていたのかもしれない。
「そう。じゃあこれは俺からのアドバイスね。椿ちゃんは絶対ヤマトなんて呼んじゃダメだよ」
「えっ?」
「ヒロ、ヤマトと大和の名前、無意識に使い分けているから」
「――あ……」
 ああ、今、ようやく分かった。
 どうして高坂さんが藤崎君を「心配だ」と言ったのか、藤崎君が高坂さんから距離を取りたがっていたのか、今、分かった気がした。
 あの時――夏祭りの時に藤崎君自身が言ってたじゃない。ヤマトとヒロカズのどちらが本当の自分か分からないって。その答えを見つけるのは藤崎君自身だけど、きっとそのためのヒントを高坂さんが持っているんだろう。それが何かなんてあたしに分かるはずもないけど、ただ、そんな気がしてならない。
「俺からはそれだけ。ヤマトって呼ばせるようにヒロがしたんだろ? だからちょっと心配だったけど、椿ちゃんがいて安心した」
 そう言って立ち上がる高坂さんにあたしも慌てて腰を上げた。
「そんな、あたしは何もできないし」
「違う。何かをするんじゃないよ。ただ椿ちゃんっていう存在がヒロの近くにあればいいんだ」
 ……そうかな。それだけでいいのかな。
 あたしはそんな大それたものじゃないのに。
「じゃあ俺は帰るよ」
「えっ。あ、もうすぐ終わりだし、最後まで見ていかないんですか?」
 すると高坂さんは「いや、いいよ」と首を振った。
「それに俺も学校があるしね」
 そこでふと気づいた。そういえば高坂さんもあたしたちと同じ年なのに、どうしてこんな平日に違う学校へ来ているんだろう。
 そんなあたしの疑問に気づいたように高坂さんが続けて言った。
「俺も色々あって、今は働きながら学校へ行ってるんだ。定時制の夜間学部ね。今日は仕事は休みを取ったけど、学校はあんまり休みたくないんだ」
 うわ……、なんか、すごい人だなぁ。
 ちゃんと目的があって勉強しているって感じがする。それに藤崎君のことをここまで来るくらい心配していたんだ。きっととても良い人なんだ。藤崎君を通してだと分からなかったけど、本当は優しくて思いやりのある人なんだろう。
 そう思って、もう一つ分かったことは、高坂さんは人を真っ直ぐ見るんだということ。だからあたしはちゃんと高坂さん自身を見ていない自分を真っ直ぐに見られて、あんなにドキドキしていたんだと思う。
 あたしはもっと、藤崎君のことを知らなくちゃいけないと思った。
 高坂さんが言うような存在になりたいと思ったのもあるけど、藤崎君がまだ苦しんでいるなら、そこから抜け出せる手伝いをしたいと思った。

 ああ、今ならあたし、何だって受け止められる気がする……。