Je t'aime

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「あれ、平は?」
 体育祭の閉会式後、藤崎君は来賓席を回ってきたのだろう、キョロキョロと辺りを見回しながらあたしにそう聞いてきた。あたしはちょうど畑さんたちと受付の片づけをしにグラウンドを出たところだった。
「先に帰るって言ってたけど」
 あたしが答えると藤崎君はどことなく顔を顰めて不機嫌な表情を浮かべた。
「……何か言われたでしょう?」
「何かって?」
 聞き返すと彼は困ったような顔に変わり、言葉を詰まらせた。思い当たることでもあるのだろうか。
「良い人だったよ、高坂さん。藤崎君のことをすごく心配してた」
 ふと藤崎君の足が止まって、振り返ってみる。彼は少し俯いてあたしからはうまく表情が見えない。

 片付けが終わり、終礼もない今日は、そのまま解散する。
 制服に着替えて更衣室を出ると、前に塀にもたれた藤崎君がいた。
「椿ちゃん……」
 藤崎君はあたしたちに気づくともたれていた背中を離した。
「あっ、じゃあ私は先に帰るね」
 気を利かせてくれたんだろう。彩芽はそう言って「バイバイ」と手を振る。あたしも咄嗟に「うん」と手を振ってしまったけれど。
 何か言いたげな藤崎君はしばらく黙ったまま、それからいつものように綺麗な笑顔を見せた。
「一緒に帰ろうか」

 並んで帰り道を歩くのはなんだか落ち着かなくて、この緊張感は久しぶりな気がした。香苗さんの家へ初めて行くときと似たような、どことなくそわそわした感じだ。
「平とは、なんていうか、幼馴染み? みたいなものでね」
 ゆっくりと、あたしに歩調を合わせてくれているかのように足を進めながら、唐突に藤崎君はそんなふうに切り出した。
「なんでか学校ではよく意地悪されてた気がするんだけど、平との嫌な思い出ってないのよね、不思議なことに」
 たぶんそれは、高坂さんに優しい気持ちがあったからだ。そう言おうとして、そういえばあたしは高坂さんから何を話したのか、具体的には言っていないのだと思い出して相槌だけを打った。
「けど高校に上がって、ちょっと、嫌な事があって」
 ズクッと胸に痛みが走った。鼓動が速くなる。聞きたくないのに、聞くことしかできない。あたしは思わず胸の前で拳を握った。
「今にして思えばほんと、小さなことだったんだけど……。それからなんだか、平のことが、苦手になったっていうか。嫌ってはないんだけど。よく、分からないんだけど。トラウマっていうのかしら。なんでか、苦手になっちゃったのよねぇ」
 困ったように笑って髪をかき上げる仕草をする藤崎君が、あたしには泣きそうな表情に見えた。藤崎君自身が思っている以上に、彼の高坂さんに対する意識は強いのかもしれなくて、あたしにとってもそれはとても辛いことのように思える。あたしのその感情は嫉妬や自己嫌悪に似た、とても醜いものだろうけれど。
「あっ、あのね」
「ん?」
「あたしも色々考えたんだけど……」
「うん?」
 たぶん今言うべきことじゃないと思う。だけど今じゃないと言えない気がした。
 高鳴る鼓動を無理矢理無視して、あたしは藤崎君の顔を見れずにただ早口に言った。
「藤崎君のこと、ちゃんと名前で呼ぼうかなって」
 顔が熱くなる。たったこれだけのことで心臓が今にも飛び出しそうだ。
「え?」
 あたしは自分のことで精一杯で、一瞬彼の足が止まったことに気づかなかった。
「あんまり皆の前では言えないかもしれないけど、できるだけ名前で呼ぶようにする……から。い、いいよね?」
「あ、う、うんっ、もちろんよ!」
 珍しく焦ったように答える藤崎君の言葉を聞いてほっとする。
「良かった。嫌だって言われたらどうしようかと」
 自然と口元が緩むあたしの体は、不意にバランスを崩した。
 え――?
 と、何が起こったのかを頭で認識する前に、横に居たはずの藤崎君の胸が視界に広がった。
 って、ひぇっ!? だ、抱きしめられてる!?
 しかも道のど真ん中で!!
 ぐっと頭を押さえつけられているあたしには周りの景色を見ることはできないけれど、絶対に見られてる。しかも学校からそう離れていない距離のはずで。これはかなり、ヤバイくらいに恥ずかしい。
 だけどそんなことは構わず、藤崎君の腕の力が弱まることもない。あたしはどうしたらいいものか、浮いた両手を動かすことも出来ずに固まっていた。
「椿ちゃん、可愛いっ」
「は、はい??」
 いや全然分からないんですけど!?
「アタシのことヒロカズって呼んでね!」
 更に強く抱きしめながら言った彼の声は本当に嬉しそうだ。
「や、あの……呼び捨ては、ちょっと……」
「くん付けでも問題ないわよ。ねっ、呼んでみて?」
 ぐいっといきなり体を離されたかと思うと、今度は期待の目をキラキラと輝かせた藤崎君の笑顔が目の前に現れた。がっしりと両肩を捕まえられていて、思わず引きそうになったあたしの体はまるで動かない。
「……今?」
「今!」
 うわーん。恥ずかしいよぉ。
 チクチクと周りの視線が痛い。
 あたしは顔が熱いやら泣きそうやら恥ずかしいやらで、どんな表情になっているのか分からなくなる。
 ていうかさっきまでの重苦しい雰囲気はどこ行ったのよ?!
「ムリムリムリ!」
 あたしは耐え切れず思い切り首を横に振る。こんなとこでなんて絶対に無理! 恥ずかしすぎて死ねる!
「椿ちゃん……」
 うっ。そんな悲しそうな恨めしそうな目で見ないでっ。
「椿ちゃーん……」
 ダメダメダメっ。本当に無理なんだからぁ。
「……」
 うー、あー、もう。
 そりゃあ名前で呼ぶようにするって言ったのはあたしだけどさ。
 でもさ、別に今じゃなくたってさ。
 チラッと上目遣いに彼を見上げるとやっぱりまだ呼んでほしそうな顔であたしを見ている。きっと、絶対、呼ぶまで両肩に置かれた手も離してくれないんだろうことは容易に想像できた。
 しょうがない。あたしは意を決して、それでも恥ずかしさは簡単に拭えなくて、震える手で藤崎君の服を掴んだ。目が上手く合わせられない。
「人前は……無理……だから……」
「――ッ!」
 あたしの言葉の意味を瞬時に理解した藤崎君は、すぐに笑顔を見せてあたしの腕を掴むと、全速力で駆け出した。あたしは自分の足の鈍さと言葉を選び間違えたことに激しく後悔した。
 だけど、それで藤崎君が喜んでくれるならどうでもいいことなのかもしれない。
 呟くように囁いて、その後しばらく腕の中から離してもらえなかったことも。
 翌日当然のように彩芽やクラスの皆に冷やかされたことも。
 藤崎君が落ち込んでいるよりは、ずっと良い。